時間的前後の関係
親方は僕の目の動きを見張るように息を顰めていた。目は相変わらず濁っている。
南の空にある生まれたての月は弓のように撓っていた。その光はとても弱々しく、元来あった月の輝きは、欠けた部分と一緒に親方の目に吸い込まれたのかも知れない。
シシの肉と雄鶏の肉は、連れて来られた奴隷たちにも宛がわれている。男たちは美酒に酔い、それぞれが歌ったり肩を組んだりしている。シシを焼いている焚木を囲んだささやかな宴は、いつまでも続くような気がした。
親方は城郭の縁に肘を突きながら、良く通る声で話を始める。「女の奴隷は久しぶりだよ。 ハンス、俺は女の奴隷が好きじゃないんだ」
「ちからが無いから?」
「それもあるな。 お前が軽々やっている仕事も、彼女がやればかなり大変なはずだ。 でも違う、俺は女の奴隷が好きじゃない」
「理由はなんです?」
「自分が男だと言うことを酷く突き付けられるんだ。 女が売られた後どうなるかなんて誰も考えたく無いだろう。 だから俺は女の奴隷が好きじゃないんだ」
親方は口を突いた言葉をそのまま吐き出すように言う。なんとなくわかる気はするけれど、親方の本当の気持ちを汲むことは出来ない。親方には本当の気持ちを伝える気なんて最初から無いようにも見えた。そして、別れがあるからこそ言える言葉でもある。別れの言葉を探し続ける僕に向けられた言葉だ。
「親方は色んな世界を見てきたのでしょう?」
「驚くほど見てきたわけじゃない」
「空が落ちてくるのは?」
「ノウザンクロス」
「ノウザンクロス」繰り返すと、聞きなれない言葉が自分の中に染み込んでいく気がした。「ノウザンクロスと言うのはなんです?」
「北の最果ての町だ」
「空が落ちてくる町」
「ノウザンクロスにはトアペイロンの道が空に出来るんだ」
「トアペイロン?」また聞きなれない言葉だ。トアペイロンは僕のなかでグニャグニャになって、様々な形に変わっていく。それはヒトであったり動物であったり鉱石であったりした。
「流星群、或いは流星雨。 アルケーでもある。 それは万物の根源だ」
「万物の根源の道が空に出来る」
「クレヴァリーの創世論だ。 大陸創世記にも、もちろん動物創生記にも載っていない。 空が落ちて来ると言う表現は、彼の手に依って抽象化されている」親方は自分の掌を眺めた後、どこか自重したように言った。「俺は見たことが無いがな」
「親方がなぜそれを?」
親方は肺に深く息を吸い込んで、そして吐き出した。頭の中で言葉を整理するように、血色の悪い唇を動かした。
「クレヴァリーは大法螺吹きであり具現者でもある。 彼の故郷の国には特殊なロゴスが存在する、つまり目に見えないモノや人智の及ばないモノを万物の祖とする考えだ。 そのような元々在ったロゴスを人の目にもわかり易く具現化したのがクレヴァリーなんだ。 大法螺吹きのクレヴァリーも、ある国では具現者であり大賢者である。 同時に彼が具現化した創世論は、その国において生活の基盤であり、国家の基盤になっていた」
親方は一息で喋る。少し息をついて僕に質問する。「ハンス、君の初めての記憶はなんだ?」
「親方の顔です、とても疲れたような顔をしていた」
僕がそう言うと、親方は「疲れた顔」と呟き、顔を掌で擦った。土のような肌から、白い粉がボロボロと落ちる。
「その国に産まれた子供はな、ハンス。 言葉を覚える前からクレヴァリーの創世論を叩き込まれるんだ」
「順番があべこべだ」
親方は頷いた。
「親方はその国に産まれた?」
「奴隷の刻印はな、ハンス。 忘却の呪詛なんかでは無いんだ」
突然、話が飛んで、僕はわけが分からないまま、ただ親方の背中を見つめた。当の親方はずっと姿勢を変えずに、廃城を見下ろしている。
「親方、僕は頭が良くないのです」
「お前が特別に頭が悪いと言うことは無い。 どちらかと言えば利口な奴さ」そう言って僕に向き直り、目頭を押さえる。「すまないな、ハンス。 今の俺はこういう話し方しか出来ないんだ」
そして、親方は目頭から言葉を摘み出すように話を始める。
「奴隷の刻印はただの証でしかない。 知っているな? あれが無いと奴隷取引に制限がかかる、それだけのことだ。 そして、皆が勘違いをしているのは、俺が奴隷を使役すると思っていることだ。 確かに誤りでは無いだろう。 しかしな、俺の本質はそうじゃない。 記憶だよ、ハンス。 俺は他人の記憶を使役する。 言い換えれば、一部記憶を消し去ることが出来る。 もちろん、無暗に力を使ったことは無い。 必要だから行使している、そこに偽りは無い」
僕は思う。奴隷商人の親方はやはりインチキニンゲンだった。忘却の呪詛なんてデタラメまで言って僕を騙していたのだ。
そして、ヤヌザイもそうだ。等しく平等な因果なんてありやしない。親方は一方的に記憶を攫っていくのだから、そこに公平が入る余地なんて無い。
親方は僕がそう思っていることも知らずに言葉を続ける。
「消された記憶がどこに行くかわかるか?」
僕はその問いかけに「知りません」と言う。親方は目頭を押さえたまま、反対の手で白髪が束になって生えている頭を指した。
「俺の頭の中に入るんだ。 出すことは出来ない、一方通行だ」
「話が見えません」
「クレヴァリーの産まれ故郷はアポロンと言う西の小国。 お前と同じだよハンス」
「親方は僕の記憶でそのことを知った?」
親方は簡潔に「そうだ」と言う。目頭を押さえたまま、動こうとしなかった。目の周りには深い皴が幾本と刻まれている。
「親方、どうか僕のことを教えて下さい。 僕は何者なんです?」
「お前は奴隷のハンスだ。 クレヴァリーと同じアポロンで産まれた。 アポロンは戦火に焼かれて今は存在しない。 それしかわからない」
「僕の九年間の記憶はそれだけなのですか?」
「俺は最近可笑しいんだ」
「僕の記憶は正真正銘に世界から損なわれた?」
「俺を恨むといい、それは奴隷の特権だ。 そしてお前が唯一持っている価値のある権限だ」
親方は目頭から手を離して、弧を描いた月を見上げる。それから今度は、はっきりと形のあるものをなぞるように言葉を紡いだ。
「一部記憶が欠落している。 いや、混濁したと言った方が正しいかも知れない。 お前の記憶や今まで奪ってきた記憶も、そして俺自身の記憶もな。 並列していた記憶が重なって直線になりつつある」
僕はヤヌザイが言ったことを思い出す。そして思い出したことを確かめるように口に出した。
「時間的前後の関係」
親方は驚いたように目を瞬かせ、僕に視線を据える。
「あ? ああ…… 時間的前後か…… 言い得て妙だ。 時間は直線だ、曲がる事も無ければ分岐する事も並列する事も無い。 少なくともそう認識している」
もう、親方と話すことは無いと思われた。親方は恐らく僕が出て行くことを止めやしない。何故なら僕のルーツを語って聞かせたからだ。
親方は生まれ持っての奴隷商人であるけれど、性根の部分には甘さや弱さが残っている。大人じゃなくて子供たちばかりを連れ帰ることが、僕の考えを後押ししている。
行き場所を無くした彼らに、新しい居場所を与えると言う大義名分が無いと、奴隷取引が出来ない人なのだ。
親方はそうやって感情の辻褄を合わせて来た。恐らくこれからもずっとそうだ。
「親方、僕は奴隷だ。 僕がここから出るには、お金が必要だ。 だから僕は僕が買います」
親方は口元を緩ませて言った。「お前は高いぞ、ハンス。 それにお前は金を持っていない」
「月には黄金の宮殿があるのです。 僕はそこへ行く」
「誰からそんなことを? 山の大猿か?」親方は目を見開いて僕の顔を眺める。飛び出した眼球が今にも零れそうだった。
「ヤヌザイではなく、別のヒトです」
「愉快だよ、ハンス。 アルケーの祝福だ。 記憶を失っても、小国アポロンのロゴスはお前の血に流れているのだな」
「どういう意味です?」
「ハンス、君はゴールデンパレスに行くことが出来るかな?」
親方がなにを言っているのかは僕にはわからない。でも、僕の背中を押すような言い方をしているのはわかる。それは僕がこの廃城を出る道理であり、親方が僕を手放すのに必要な辻褄だ。親方はそれを僕に教えている。
「ハンス、金はどう用意する?」
「僕はゴールデンパレスへ行きますよ、親方。 きっと黄金の鉱石がたくさんあるはずだ」
「ああ、きっとそうだろう。 しかし保証が必要だ」
「僕は何も持っていません」
「お前が持っている唯一の権限を差し出せ」
「親方を恨む権限?」
「ああ、そうだ」
親方はそう言って喉から断続的な笑い声を上げた。とても愉快そうに笑っている。
「でも、親方。 そんなものが保証になるのですか? ゴールデンパレスだってデタラメかも知れない」
「それは血とロゴスに問うことだ。 アルケーが始まったんだよ、そして全てはテロスに帰結する。 因果は等しく平等だ」
空に浮かぶ月は、やはり弓のようだった。先ほどと変わったのは、夜の闇の中で輝きを増したことだ。
引かれた弓のように撓っている月は、いずれ何かを穿つのだろうか。僕はそんなことを思いながら南の空を見上げた。




