奴隷
置き去りにした樽のことは既に忘れていた。僕の頭の中には奴隷のことがあり、心の中には旅をしたいという気持ちがある。
それらは反対の感情であるみたいだけれど、大局しているわけでもなければ、もちろん喰い合うわけでも無く、それぞれが独立した場所にすっぽりと納まっている。
だから僕はそれらが納まる内的世界を俯瞰のように眺められていたし、平静を保っていられた。
ヤヌザイからミモウザと呼ばれていた、絡まっているイバラの木の近くに置いてあった人力のカートだけ回収して、廃城へ戻った。
西日は芳醇な香りを放つ果実のように熟れていた。朝日に黒く染められていた稜線も、今や薄い膜に被覆されたようにくすんで見えた。
廃城に着いた頃には、既に日は大地の下に隠れている。落ち窪んだ位置にある廃城は、一層浅い夜の色を受けて佇んでいる。草原の只中にある城郭の虎口はより顕著で、深淵の底のように黒く際立って見えた。
城の中は既に宴の宵にあって、足を縛られて逆さまに吊られたシシの肉が焼かれていた。狩りに出ていた小男は僕を見つけて「先にやってるぞ」とシシの肉を差し出して、歯の抜けた口を大きく開けて笑った。
僕はそれを受け取って一口齧る。城に戻ってから血を抜いたからか、土と臓物の臭いが鼻の奥に溜まった。
「酒が無くなったぞ、ハンス!」酔った男が言った。
「麦酒なら貯蔵庫にあるよ」
「麦じゃねぇ、果実酒だ」
僕は「ない」と言う。男は肩を落として、胸の毛とヘソの毛が繋がっている体を撫でた。
鶏小屋の扉が開けられていた。数匹の雌鶏と数匹のヒヨコが地面を啄みながら、厩舎の周りを動き回っている。顎と首の境目がわからなくなるほど肥え太った大男が雄鶏を捌いていた。僕は彼の隣に並び、血だまりの中にある肉塊の数を数えた。三羽。彼はここにいるすべての雄鶏を捌いてしまっていた。彼は僕を認めると、窮屈そうに顔の肉を動かして微笑んだ。
「オスの鶏を全部使ったのか?」僕は質問する。たとえ知っていたとしても、質問しないではいられなかった。
「もちろんさ」彼は、ボウボウ、と鳴る風の音のような声で喋る。
「ヒヨコの卵が採れなくなるよ」
「あれだけヒヨコがいればオスだって一匹くらいいるだろう。 すぐに大きくなるさ」そう言って口の端から白い涎を垂らした。
「シシの肉があるじゃないか」
「ほんとうは城に帰ってお前にやって貰う予定だったんだ。 なかなか帰って来ないから、ヘイグが代わりをやったらあのざまさ。 臭くて仕方がねえ」
僕は「へえ」と、相槌を打って、彼の芋虫のような指から滴る、血の雫を眺めた。
「親方は?」
「帰っているよ」
太った大男は雪崩を起こしている城の影に据えられた木の檻をゆび指した。小さい男の子が二人、檻をよじ登って遊んでいる。僕は大男に「ふたりだけ?」と聞く。彼は「もうひとりいる」と返事をして、毟られて散らばった雄鶏の羽を拾い集めた。
親方は帰って来ると、いつも連れ帰った奴隷たちと面談を始める。面談の内容は覚えていないけれど、最後に焼いた鏝で忘却の呪詛を刻印される。刻印は忘却の呪詛であると同時に奴隷の証明でもあって、奴隷貿易に必要な証である。
僕の場合は、アストロと呼ばれる幻獣の刻印がされている。アストロは鷹の顔に爬虫類の口を持ち、頭頂部から尻尾の付け根まで魚の背鰭が付いている。獅子の体に黒と白の両翼を持ち、前足にはヒビ割れたような鱗と鋭い爪を、後ろ足は猛獣の足のようで、分厚く硬い毛が隙間無く生えている。尻尾は長く木質で、枯れない鋸歯の常葉を茂らせている。
普通は肩や手の甲に拳くらいのバラの刻印をされるのだけれど、連れて来られた時に親方をよっぽど困らせたのか、僕の刻印は特別製でとても大きい。小さい時にされた刻印だからか、焼かれた患部は赤黒く、皮膚が色んな方向に引っ攣っている。もう痛くは無いけれど、皮膚が引っ張られるのは未だに慣れなかった。
「ハンス、遅かったな」ヘイグはボサボサの髪を指に巻き付けている。髪をすべて巻き取ると、また同じことを繰り返した。
「いろいろしていたんだ、僕は親方と話がある」
「面談はもう終わるはずだ」ヘイグはそう言って続けた。「シシを食ったか? 俺が仕留めて俺が捌いたんだ」
僕は「食べたよ」といった。ケモノ臭かったことは言わないでおいた。
「親父が連れ帰った奴隷に女がいるんだ。 ハンス、城のことはその女に任せてお前は一緒に狩りへ行くんだ。 大丈夫だ、俺が色々教えてやるから心配するなよ。 帰りにマーケットで羽馬を見て来た。 若い羽馬だ、お前の馬だよ」
僕は返事をしなかった。今更狩りと言われても、どこにも響きはしない。広く自由な世界を羽馬に乗ってどこへでも行けるのなら、それは素敵なことだと思う。しかし、彼らと共に狩りに出ると言うことは、この廃城のなかで一生を終えると言うことに他ならい。そんなの繋がれた奴隷と何ら変わりはしない。
面談が終わったのか、廃城から女の子が顔を出した。彼女は足元をじっくりと確認しながら歩いている。手の甲には包帯が巻かれ、まるで大事なものを抱えるように焼かれた手を抱いていた。
「あいつだよ、ハンス。 早く仕事を覚えさせることだ、でないと狩りに行けないぞ」ヘイグは忠告するように言う。彼は僕が狩りに行きたくて仕方がないと思っているのかも知れない。
彼女の後を着いて、親方が廃城から出て来た。親方は背が高く、酷く痩せていて、姿勢も悪く背中が丸くなっている。髪は全体的に灰色でパサついている。白髪が束になって生えており、かなり不格好だ。
「親父に話があるんだろ?」
「そうだ」
「なんの話なんだ?」
僕は言いかけて口を噤む。ヘイグに話せばきっと僕を思い通りにしようとするに違いない。もしかしたら、アネモネやヤヌザイのところへ行って、僕を渡さないと宣言するかも知れない。彼女はともかくヤヌザイに迷惑が掛かるのは避けたかった。彼女にはこれから幾らでも謝る機会があるけれど、ヤヌザイにはそうはいかないのだから。
僕はそう思って少し虚しい気分になった。ヤヌザイとはもう二度と会うことは無いかも知れないのだから。彼はもしかしたら僕が旅に出ることを悲しんでいるかも知れない。もちろん、なんとも思っていないのかも知れないけれど、薄情は承知でなにも言わずに出て行けばよかった、と後悔している。
旅に出ると言うことは、僕にとっても別れではあるけれど、それは全く違った性質を持っている。僕は彼よりも多くのモノを失うことになるけれど、その分だけ新しい何かと出会うことが出来る。でも彼は僕を失えば失ったままだ。失ったモノを埋める何かは新し何かでしか出来ないのだから。
僕と彼の別れは不公平だ。ヤヌザイは「因果は等しく平等だ」と言ったけれど、僕は彼のことを初めてインチキニンゲンだと思った。同時に、彼に旅へ出ることを告げた自分も、インチキニンゲンで、おまけに薄情な人間だ。
僕は親方を呼び止めて、話があることを告げた。ヘイグが僕らを気にしているのか、親方の視線は僕の背後で一瞬止まった。けれど、親方はすぐに僕へ向いて「なんだ?」と小さい声を出した。
親方は髑髏の形が皮膚に浮き出るほど頬がこけている。鼻筋が通り、小鼻が異様に小さい。皮膚は深く細かい皺だらけで、かさついた地面のようだ。
親方はまだ四十歳くらいだけれど、歳よりも酷く老け込んでいる。実年齢に四百歳は足したような姿をしている。しかし、正常じゃないのは見た目だけで、声も耳も他の誰よりも優れている。大きくも無く小さくも無く、その場所にあった声量で正しく話をすることが出来る。
「親方、話があるのです」
「言ってごらん」親方は僕の頭の先から爪先までを、青く濁った眼で一頻り観察して、僕の肩に手を置いた。「わかった、ハンス。 大事な話なんだな? そうか、ああ、いいよ。 ここに居る間は俺たちは家族なのだから」
僕は「ありがとう」と言う。
親方は小さく頷いて、城郭の上に登る階段へ歩いて行った。僕は親方の後ろを着いて話すべきことを反芻した。けれど、親方はそんなことする必要は無いと言いたそうに、深い息を吐く。
「ここなら邪魔は入らないだろう」親方は言った。
僕は「ええ」と言う。
ヘイグは雪崩を起こした組積の城の傍らで、いつまでも僕と親方を見上げていた。




