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諦めが肝心

 少し傾いた太陽は水浸しになった僕の足元を白く輝かせた。切れ切れになった白い靄の先から次々滴る水滴がまるで雨のようだった。

 彼女は相変わらず黒い羽の間に挟まったまま丸くなっている。ヒヒの攻撃が止んだことに気が付いていないみたいに、喉から唸り声を出している。


「顔を上げろよ」僕がそう言うと、ようやく顔を上げた。


 彼女は辺りの様子を確認して、僕らから距離を取ったヒヒに表情の無い顔を向ける。直ぐに僕へ向き直ると、説明を求めるように首を傾げた。

 オーブの姿が見えないこと、ヒヒたちが集団戦闘に秀でていること、砂を投げて悪あがきしたこと、いつの間にか灰色の雲が小さくなっていたこと。僕は分かる範囲で簡潔に説明した。その後、自分の体に付いた傷を確かめて、彼らは僕たちに致命的なダメージを与えるだけの攻撃力を持っていないことを付け加えた。

 彼女は僕の説明を聞き「そう」と短く返事をして、千切れた雲に触れようと手を伸ばす。撫でるような柔らかい手つきは虚しく空を切った。


「空気みたいよ」


「奴らは乗っかっていたのに」


「でも空気よ」


 彼らが作り出した雲が固体か気体かなんて今は取るに足らないことだ。事実ははっきりしている。彼らは雲の上を自由に歩くことが出来て、僕や彼女には触れることすら出来ないということだ。その仕組みも分からなくてもいい。なぜなら、この世界は空すらも落ちてくるらしいのだから。それに僕は現にこの目で確認したんだ、彼らが雲に飛び乗ったことを。僕の目の前で覆しようの無い非常識が常識を覆したんだ。


「奴らを撃退できるかもしれないぞ」


「あの雲はどうやって消したの?」


「時間が経てばやがて水になるんじゃないか?」


「また亀になれってゆうの?」


「雲をつくる前に阻止するんだ」


「武器をひらっておいて良かったでしょ?」


 僕は「ちがいない」と返事をする。


 今度は彼らが動き出す前に仕掛ける必要があった。同時に制限付きの対峙なのであって、こちらから無暗に仕掛けて、負う必要のない怪我をするのも馬鹿げている。僕たちはただ、彼らの計らいを一つずつ邪魔していけば良いだけだ。別段難しことではない。


 思い出したように風が山道を吹き抜け、木々が呼応し、虫はさざめき、鳥が囀る。ヒヒは樹上に上がること無く、地上から僕らを睨んでいる。太陽がヒヒたちの背後から射し、彼らの小さく纏まった体は色を失っていた。眼窩はより黒く影を落とし、今にも飛び掛かってきそうなほど、猛り狂って見えた。

 彼らは陣形を整えるように、僕らに睨みを効かせながら、ゆっくりと円形に広がっていく。


「ふたりでひとりをやるぞ。 右の奴からだ、木に登る前にやるぞ」僕が言うと、彼女は承諾する。


 ヒヒたちは最初と同じような配置に着いて静止する。互いの息を合わせるように、それぞれが頃合いを図っているのかも知れない。独立した動きでは無いその様子は、集合体と呼ぶに相応しい。彼らは五頭でひとつの生き物のようだ。


 全ての音が鳴りやんだ時に、僕は彼らの意識の隙間を見たような気がした。彼らの懐の空間が歪曲して、そこに上手く滑り込めば、簡単に地に沈める事が出来そうな予感がする。


「いまだ!」僕は叫んだ。


 彼女は既に飛び出していた。右足で地を蹴り、点のようになって、間合いを詰める。ヒヒは反射的に後ずさる。生物としての反射は、彼をより危険な状態に引き込んだ。


「えい!」大きな掛け声。


 彼女の大味な予備動作から繰り出された横薙ぎは、いとも簡単にヒヒの腹を捉えた。


「やったわ、ハンス。 一匹やっつけたわ!」


「ああ…… ダメだよ。 全然効いちゃあいない……」


 ヒヒは、ぬらりと立ち上がると、ピンク色の歯茎を剥き出して、ホウホウホウ、と笑いだした。他のヒヒたちも歯茎を剥き出して笑う。姦しい合唱が始まると、舞風が吹き、導かれるように地面が振動する。

 嗤い続けるヒヒたちの上唇は捲れ上がり、黄土色の醜い粘膜が鼻を覆っていた。日常的に行われる習性であるのか、顔の皮膚の動きは幾らかこじんまりと形式的だった。


「ああ、気味が悪い。 目まで隠れそうよ」


 ヒヒたちは上唇を元の位置に戻した。


「木の上に行ってしまうぞ! たたみ掛けるんだ!」


「ダメよ、もう遅いわ」


 樹上に飛び上がった彼らは、僕たちを小馬鹿にするように唇を捲る。白い蛇は冷たい炎のように揺れた。

 彼女は大きく振りかぶり、持っていた木の棒を樹上のヒヒに投げつける。木の棒は回転しながら飛んで行き、ヒヒのこめかみを掠めた後、高木の幹に弾かれて落下する。


「武器を失ってしまったわ!」


「失敗してばかりじゃあないか! もうダメだ……。 またしばらくタコ殴りにされてしまうぞ……」


 僕は僕のように捻曲がった木の棒を持て余した気分になる。彼女のように武器を失ってしまった方が諦めも付きそうだ。もちろん死ぬことや終わることでは無く、つまり彼らの攻撃を丸くなって堪えるということだ。いっそのこと逃げてしまっても良い。誰も文句なんて言うまい。もう十分に時間だって稼いだろうし、妥協するにはちょうど良い頃合いなのかも知れない。彼女だって納得するはずだ。

 ヒヒたちは一斉に口を窄めて空気を吸い始めた。あの波状攻撃の前段階と言える、けたたましい笑いが耳の中に蘇った。


 もう諦めよう、そう思った時に、目の前にあった彼女の背中が不自然に宙へ浮き上がり、そのまま僕の視界から消え失せてしまった。


「ハンス、ハンス。 新手だわ」


 声だけが置き去りにされたように、直ぐ近くで聞こえる。僕は損なわれた彼女の体を探す。


「ハンス。 上よ、ハンス」


「ああ…… ツルが……。 逃げることすら困難になっていまったぞ……」


 彼女は囚われていた。黄緑色に茶色の産毛が生えた髭ヅルが、彼女の腰に巻き付いて、宙に攫っていたのだ。

 彼女を伴って逃げようとしていた矢先のことで、くじかれる鼻も出ないまま、僕の思惑は崩れてしまう。


「ハンス! ナイフ! ナイフを!」


「ナイフは樽の中に置き去りにしてきたんだ……。 逃げようと思っていたのに、八方塞がれてしまったぞ……」


 ヒヒたちの肺は破裂しそうなほど膨れ上がり、今にも風を吹き出そうと口を歪めている。


「またアレがくるわ! 砂を浴びせて時間を稼ぐのよ!」


 僕は足元を見て肩をすくめる。水浸しで砂なんかありやしなかった。彼女は言った後に気付いたのか「なんとかなるわよ」と呟いて、僕から目を逸らす。

 ヒヒたちは口元を固く閉じる。感情の切り替えが行われようとしている。表情が緩みきったあと、頬の筋肉が膨張し、目尻に鳥の足跡のような皺をつくった。


 僕は知った。不運が続けば諦めることすら忘れてしまう。そして、幸運は必ず、意識の外からやって来る。


 音も気配も無かった。ただ光の筋が眼前を過っただけだ。頭の中の後ろ向きな思考の妨げにもならないほど、ささやかなモノだった。瞬間、樹上のヒヒは悲鳴のような鳴き声を出して崩れ落ちる。肺に溜まっていた空気は明後日の方向に豪風となって飛んで行く。

 次々と飛来する光の筋は、正確にヒヒたちを打ち抜いていく。山道脇に群生する灌木の根元から発射されているのは小さな炎の飛礫だ。彼らの方はどうやら上手くいったようだ。


「ハンス! フィッツよ! リス・ジェラルドが助けにきたわ!」


 黄色に光ったオーブが僕の頭の上を回った。


「やあ、久しぶり。 調子はどうだい?」


 オーブは赤く点滅して、幾らか暴力的に螺旋を描いた。

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