サル・ウィー・ダンス
高木の太い枝や幹を跳ねながら、尻尾に白い蛇を生やした五、六頭のヒヒがつむじ風を伴って迫って来ている。白蛇はヒヒの肩越しに僕や彼女を玉のような赤い目で睨んでいた。
ヒヒたちは僕らを取り囲むように布陣する。そう、ただ、シンプルに無駄なく取り囲む。前方に二頭、背後に一頭、進行方向左の山道脇に屹立する高木の枝の上に一頭、反対側の高木の幹に貼り付いているのが一頭。他に姿は見えないが、もしかすると、まだどこかに何頭か隠れているかも知れない。
ヒヒたちのそれは、相互的に構成された仕組みは無視されて、形骸化されている布陣のように思われた。彼らはそれぞれ、個体としての強さに自信を持っているのか、集合体として戦うには些か単純すぎる陣形だった。だけれど、そこが厄介だと僕は思う。いつか彼らにとって僕らを仕留めることは本来の意味を失い、個人競技のようなものに挿げ変わる可能性を孕んでいる。そうなれば彼らはそれぞれ、なりふり構うこと無く僕らを仕留めに来るはずだ。
彼女は木の棒で肩の辺りをマッサージしている。ヒヒたちは肢体を地に着けたまま体を弾ませて、ヒッヒッヒッ、ホッホッホッ、と僕らを威嚇するか、嘲笑うかしている。彼女はそれを見ても表情を変えずに、余程凝っているのか、一向にマッサージを止めようとしなかった。
「おい! 奴らはなんて言ってるんだ?」
「ああ、麗しきお嬢さん。 ひとつ我々とダンスでも踊りましょう」
彼女にまともな答えは望めなかった。僕はヒヒたちを刺激しないように、彼らを睨みながら木の棒を握り直す。僕の動きを見て、高木に貼り付いているヒヒが大きな声で喚いたが、襲い掛かって来る様子はない。ジッと我々を観察し、その時が来るのを待っているようだった。
「どうするんだよ? 前の二匹からやるのか? それとも後ろの一匹か?」僕は声を潜めて彼女に相談する。
彼女はようやくマッサージの手を止める。
「あたしたちから掛かってゆく理由が見当たらないわ。 サルどもが掛かって来たところをひらりとやるのよ」彼女はあっけらかんとした表情で言う。まるで息をするよりも容易いと心の底から思っていそうな言い方だ。
「ずいぶん簡単に言うじゃあないか」
「あのサルのことはヤヌザイから聞いていないのかしら?」
「聞いてはいるよ。 でも、クレヴァリー動物創生記には載っていないんだ」
「クレヴァリーが本を書いたあとに合体したのかしら」
「合体だって? まさか」
「ないとは言い切れないわ」
「なんでそう言えるんだ?」
「まさかと思うから、そのまさかを理解することが出来ないのよ。 あらゆることは起こりうるのよ? 知っていて?」
「たとえば?」
僕は頭を捻った。あらゆる事がどういう事なのか、僕には上手く想像することが出来ないでいた。そして、彼女がとても普通では考えられないことを言おうとしている予感を感じた。どうせ禄でもないデタラメなのだから鼻で笑ってやろう。
すると彼女は僕を真正面から見つめて「船が空を飛ぶのよ」と簡潔に言った。
僕はあっけに取られる。なぜ、どうしてそうなったのか、彼女は僕のことをモノを知らない奴隷だと思っているようだ。僕は腹を立てることすら忘れて、我々を注視するヒヒを一層強く睨んだ。彼らは一瞬身構える。そろそろ悠長に話していられる時間も終わりそうだ。
「船が空を飛ぶだって? そんなの常識じゃあないか! 赤ん坊だって知っているぞ! 船は海にも空にも浮かぶもんだ、僕を馬鹿にしているな?」
「そうよ、常識よ。 では、これは知っているかしら。 空がね、落ちてくるのよ」
「まさか。 わかったぞ! きみが最初に常識の話をしたのは僕を油断させるためだったんだな!」
「違うのよ、ハンス。 ほんとうよ。 手が届きそうなぐらい近くまで落ちて来るの」
空が落ちて来ているところ、やはり僕には上手く想像することが出来ない。
疑う癖もそうだけれど、長く人から指図されて来た僕に染みついた奴隷根性は、好奇心どころか想像力にすらも蓋をしているのかも知れない。もちろん、彼女がデタラメを言っていなければの話だけれど、実を言うと彼女が本当の意味でのインチキニンゲンだとは思え無くなって来ていた。
彼女はよくデタラメを言う。けれど彼女はデタラメだとわかるデタラメしか言わない。僕は確かにそう思い始めている。
「ふん! それがほんとうならいつか見てみたいもんだ」
「ええ、いつかね」そう言って、木の棒を、ギュッと握った。
彼女も気付いているらしい。程なくして僕らが戦いに身を置かなければならなくなる事に。
そして、それは突然始まる。ヒヒはそれぞれ、口を小さく窄めながら、肺に空気を取り入れていく。触ると弾けてしまいそうなほど、風船のように胸が膨らみだした。彼らは口角を歪める。影を作っていた落ち窪んだ眼孔が更に暗くなった。彼らは一斉に肩を揺らし始め、そして一頭が唐突に笑い声を上げた。他のヒヒも笑い声をあげる。
その瞬間、彼らの肺に溜まっていた空気が多方向から一斉に放出されて俄かに突風が起こった。四方から筋状に放たれたそれは、交差するようにぶつかり、せめぎ合いながら、いつまでもそこに留まるように、ビョウビョウ、と音が鳴っている。
しかし、それもやがて収まり、ただ激しく乱れた旋風が起こっただけで、特に攻撃されたとは感じなかった。
「なんだ? えらく肩透しな攻撃だ……。 口から風を出しただけだぞ」
彼女の返事も相槌も無い。僕は直ぐに目をやって、様子を伺う。ただ突っ立ているだけだった。
一時の静寂の後に続くことは何も起こらない。僕は幾分か余裕を持ちながら屈伸する。僕が怖がっていただけで、彼らはそこまで大したことが無いのかも知れない。けれど、そう思っていたのは僕だけだった。
「ああ、なにか大変なことが起こりそうよ」彼女は木の棒を握り締めながら言う。
ヒヒたちの肩越しに僕らを睨んでいた蛇は、肌色の口腔を目一杯露出させながら、先が割れた紫色の舌を高速で振動させ始める。僕の視界を何分割かに区切るように現れだす白い靄。靄はたちまち色濃く具象化し、物質的な存在感を放ち始める。
もう、止めるには遅すぎた。僕の眼前には、ヒヒが筋状に放出した風の軌跡を、そっくりそのまま塗り潰す灰色の雲が出現していた。
ヒヒたちの口元から伸びた雲は、彼らが組んだ陣形の中央でひしゃげて、八方に散っている。我々の居る山道は瞬く間に、立体的に交差する樹上のように変化した。
今から何が起こるのか僕には想像出来なかった。それは僕が奴隷だからではないようだ。なぜなら彼女も口をあんぐりと開けて、ただ茫然と発現した奇妙な雲を見つめるだけだったからだ。
ヒヒたちは嫌味に口角を上げて、作り出した雲に手を掛けた。躊躇うこと無く高く飛び上がると、筋状に入り乱れるの雲の上に着地した。
「なんてことだ……」
「八方塞がりとかゆうのかしら」
「一瞬にして奴らの有利な状況に変わってしまった……」
彼らの波状攻撃が始まる。ヒヒたちは立体的に入り乱れた雲の足場を利用し、五身一体となって上下左右様々な角度から僕らを攻撃した。
爪攻撃、足蹴、噛みつき、蛇による攻撃。僕は丸くなりながら、木の棒を力なく振り回す。その殆んどは空振りに終わり、偶然当たったものも何らダメージを与えられる程では無かった。
僕は視界に彼女を捉えようと首を動かした。彼女も僕と同じように小さく丸まっている。しかし僕とは違ってその守りは強固なようだ。大きな黒い羽を二枚貝のように畳んで、自身はその間に挟まれている。ヒヒたちの攻撃を上手くガードしながら、時々、ああ、とか、うう、と唸った。
彼らと出くわしてからオーブの姿が無かった。彼は早々に逃げ出したのかもしれない。不思議と薄情な奴だとは思わなかった。
僕は間違いなくヒヒたちを見誤っていた。彼らは集団戦闘に明るく無いと、勝手に思い込んでいたんだ。その実、彼らの得手とするのは紛れもない集団戦闘であるのに、僕は特に根拠も、経験から得た知識も無く決めつけた。僕は僕の浅はかさを呪う。
僕は悔しさに充てられながら、ヒヒたちが繰り出す鋭い攻撃を受け続けるしかなかった。このまま耐えて、異変を察知したヤヌザイが駆けつけてくれるのを、我慢強く待つしかない。しかし、いつまでも丸くなっていられるわけでは無い事は十分にわかっていた。
僕は両手に砂を握った。いきり立つように体を起こし、悪あがきのつもりでヒヒに砂を浴びせる。
「砂は目に入ったら痛いんだぞ! 喰らいやがれ!」
ヒヒたちは砂攻撃に驚いたのか、ボウボウボウ、と喚き散らす。僕は構わず砂を投げる。彼らは全員で僕に向かって来た。構わず砂を投げ続ける。
頻りに砂を投げ続けている間中、彼らは僕の腹を蹴り、髪を引っ張り、首に噛みつき、皮膚を裂いた。僕は最後まで悪あがきを続ける為に、瞼を固く閉じていた。傷を見てしまったら戦意が失われてしまうと思ったからだ。ヤヌザイが駆けつけてくれるという口実も、戦意を損なわない為に必要だった。彼が来ないとわかっていてもだ。
そして僕の悪あがきは報われることになる。彼らを倒したり、撃退したわけでは無い。もちろん、ヤヌザイが助けに来たわけでも無い。
ヒヒたちは突如攻撃を止めて、立体的に交差した雲の足場から飛び降りる。僕の膝が水に濡れていた。
ゆっくりと首を回し辺りを注意深く観察する。足元が湖面のように水浸しになっていた。首をもたげてみれば、具象化したような灰色の雲が、細く頼りない糸みたいに切れ切れに浮いている。
僕の足元には幾滴かの雫が滴って、丸い波紋をつくっていた。




