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ハンスのこと

 望まないこと、よく働くこと、それが模範的な奴隷のあり方だと僕は思う。


 九歳の頃に奴隷商人に捕まった。

 僕は大陸の西にある小国に住んでいたらしい。記憶が無いから確かめようが無いけれど、奴隷商の親方がそう言っていた。

 僕は忘却の呪詛が刻まれた刻印に背中を焼かれて、過去の記憶がごっそりと抜け落ちている。だから親方から聞いたことがそのまま僕の過去になっている。親方は嘘をつかないから無条件にその言葉を信じられもした。


 僕は朝起きると直ぐに羽馬の世話をする。毛並みにそってブラシをあて、口の周りについた泡を布で拭う。牛の皮で作った蹄鉄を注意深く点検して、留具の緩みを入念に検査する。背中の筋肉と羽の付け根に指を這わせて、張りがあったら乾燥させて粉末状にした甲虫の幼虫を餌に混ぜて与える。


 羽馬が餌を食べている間に厩舎の掃除をして、運んで来た藁を敷く。

 集めたフンを蟻塚のように積んで、鶏のフンと合わせる。魚の骨を砕いた粉や穀物の殻を一緒に混ぜ、少しだけ水を掛けたあと布を被せて重石を置く。


 僕は次に朝食の準備をする。雌鶏の卵を人数分収穫して、シロップの木から作ったスモークチップで燻した鹿肉の燻製をナイフで削ぐ。石のコンロに薪を並べて、乾燥させた松笠と落葉を散らし、火を溜めたランプを傾けた。真っ赤な火が水のように注がれる。落葉が燃えた。松笠が燃えた。薪に火が燃え移ると、フライパンを熱した。


 卵のカラを割って、卵殻と卵殻膜、粘度の低い外側の卵白を分離させる。間にこの工程を挟むことで美しい形の目玉焼きが出来上がる。

 フライパンに手をかざし、皮膚が痺れる程度の熱を持った頃に分離させた卵を落とす。焼けた目玉焼きを胡桃のパンの上に乗せていく。削いだ鹿肉の燻製を皿の脇に並べていった。


 ヘイグが城壁の上から手を振っている。僕はフライパンを掲げて大きく振った。空の上を歩くように足を踏み出した彼は風の摩擦を受けながら落下する。勢い良く地面にぶつかりそうになった瞬間、ヘイグの足元から地上に向って突風が起こった。細かい塵が巻き上がり、風は砂利を攫った。中心点から波の形になった波紋が円形に連なった。


 ヘイグは腹を擦りながらこちらに向かって歩いてくる。僕は厩舎の軒に吊るされている鐘を木槌で何度か叩いた。しばらくすると半分崩れ落ちた組積の城から男達がぞろぞろと這い出して来た。


 僕は男達が朝食を摂っているあいだに、彼らがおやつにするクッキーを作り始める。ドーム状に組んだ石釜に火を入れた。牛チチのバターを湯煎である程度まで溶かしていく。バターが溶けたら分離させた粘度の低い卵白とメイプルシュガーを加えてかき混ぜる。少しずつ小麦粉を足しながらグルグルと掻き混ぜ、ちょうど良い固さになると、小さな楕円に形を整えて石釜の中に並べた。


 クッキーを拵えたあとは荷馬車の用意をする。首を振って嫌がる羽馬を宥めながらハーネスを取付け、シャックルを垂らした。そのあと荷馬車の掃除をする。幌もついていない粗野なやつだ。

 まだ朝食が掛かりそうなので羽馬と鶏のフンで作った堆肥をかき混ぜた。微かなアンモニア臭がする。あと少しで売り物に出来そうだ。腐葉土を入れた袋の口を縛り、人力のカートに幾つか乗せた。


 僕は肩を叩かれる。振り返るとヘイグがいる。ボサボサの黒い髪を指で梳きながら鹿肉の燻製を食べている。だらしの無い髪はいつものことだ。


「今日の夜には親父が帰ってくるそうだ」


 僕は「へえ」と適当に返事をした。


 ヘイグは親方の息子だ。きな臭い奴隷商のような仕事では、血が繋がっていなくても首領や親方を親父って呼んだりするらしい。ただ、ヘイグと親方は血の繋がった本当の親子だ。正真正銘に。


 僕とヘイグは小さい頃から一緒に育ってきた。僕は奴隷という立場だけどヘイグはそんなこと気にしていないみたいに、親方の目を盗んで僕をよく外へ連れ出した。奴隷の僕からすればいい迷惑だったけれど、彼はそんな事もお構い無しの様子で、一日中山の散策をしたり川で釣りをしたり。

 親方は仕事をほっぽり出した僕を咎める事はしなかったけれど、そんな親方を見るたびに申し訳ない気持ちが募っていった。


 ヘイグを疎ましく思うようになったのは何時のことだったろうか。たしか僕が奴隷になって二年ほど経ったころだ。下男を探しに来たどこかの貴族が僕を買いたいと言った。僕はどちらでもよかった。なぜなら、どこに行ってもやることは決まっているから。望まないこと、よく働くこと。こう言う考え方が正しいとは思わない。それは周りを見れば良くわかる。みんな欲張りで我儘で、そんな彼らを見て少しだけ羨ましく思う自分がいるからだ。


 僕には過去の記憶が無い、産まれて初めての記憶が奴隷としての自分で、普通の人が遊んだり恋をしたりするように、僕は何かを望むこと無く、ただ働いていく。


 貴族に買われる話はその日のうちに無くなった。なぜだかヘイグが駄々を捏ねたらしい。その後も何人か僕を欲しがる人たちが居たらしいけれど、その全ては合意に至らなかった。客がいれば二つ返事で売り飛ばすのが奴隷商のはずだけれど、親方はヘイグの言いなりで僕を売ることはしなった。


 そうだ、ヘイグが僕の運命を握っている。そう考えたら無性に腹が立ったんだ。

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