ウサギと亀と子羊
まだ右も左も分からぬ頃にウサギと亀の話を聞かされたことだろう。或は前後も分からぬうちよりこの話を聞かされたというお方がいるかも知れない。巷で言うところの胎教、というやつであればその御母堂の先見の明に敬服せざるを得ない。それはそうである。この寓話は子供向けの話でなく、胎児にこそ聞かせるべき話。勿論、これは所詮寓話であり大人向けでもない。繰り返し申し上げるが、この話は腹中の勝者にこそふさわしい。我々はこの世に出でる産声と共にすっかりそのことを忘れてしまうからだ。
だが、もしかすると聞けば思い出すだろうか。羊水に響く寓話はこう始まる。
「もしもし亀よ、亀さんよ」
夢に時計を忘れてしまった詩人ウサギが言うには、亀よ貴殿は歩みが遅いと。言われてカチンときた、賢いが腰の重い亀もアキレスにだって追いつかれぬという自負がある。
「よかろうならば競争だ。向こうの小山に先についたほうが勝ちとしよう」
「よし、あそこだな」
「いやその先」
「あれか」
「違う違う、向こうだ」
「まさか、あそこか?」
「左様」
かすむ小山を見て、あまりの遠さにウサギは耳をしょんぼりさせる。されども亀は首を伸ばし縮め、気勢をあげている。ウサギは自分から挑発した手前今更ここで引き下がれはしない。
そこへ子羊がやってきた。そんな動物は登場しない? いやそれは皆が忘れているだけで、実際にはいた。
子羊はウサギと亀を交互に眺めてから、ぺたんと地べたに座って己の蹄にどんな興味を抱いたのか、角度を変え変えしげしげと見始めた。そうして小さな白い歯で噛みぐいぐいと蹄を足から外そうとする。
ウサギは言った。
「では始めようか」
「太陽が真上にきて影がなくなった時を始めの合図にしよう」
亀が言った。ウサギは背筋をヒョイと伸ばし冗談じゃないと憤った。
「おいおい、まだ今日の日が昇ってから少しも経っていないぞ亀さん。正午まで待つ積りか」
「僕まだお腹もすいてないよ」
ウサギに続いて子羊も言った。
「せっかちな事だ。だが……ふむ、始めの瞬間とは見極め難いからのう」
「もういい、私が決める。やい子羊。あの林檎の木を蹴るのだ。お前の噛んでいるその蹄でな。林檎が木から地に落ちたら始めの合図としよう」
「承諾した。では子羊くん、ぼちぼち立っておくれないか」
子羊はぴょんと立ち上がって林檎の木まだ走って行った。木をぐるっと回ってから、後ろ脚でゴチンと木を蹴った。ハラハラと木の葉が落ちて、実った赤い林檎は振り子のように揺れている。
「その調子だ、どんどんいけ」
「林檎の揺れを増幅させれば早く落ちてくるかもしれぬ」
子羊は楽しくなってポコポコと木を蹴り続けた。そのうち、林檎がポンと落ちた。
「よしスタートだ」
「落ちたかね? 落ちたようだね。では行くとしよう」
ウサギと亀は小山へ向かい始めた。子羊はその様子を立ったまま見ていたが、風に吹かれてやがて歩き出した。ときに小走りをして、すぐに亀に追いついた。亀は一生懸命に歩いていて、子羊には一瞥もくれない。子羊は暫く歩調を合わせて亀と並走したが、やがて亀に先だってトテトテ歩き出した。もう大分先をウサギが走っている。子羊は「速いなあ」と思いつつ、後ろの亀を振り返りながら歩き続けた。
太陽が彼らの真上に来た頃、先にいるウサギの姿が見えなくなったり、後ろの亀の姿が見えなくなったり、3者とも距離が離れてきた。子羊はその度にキョロキョロと不安そうに周りを見まわしたり、立ち止まったりを繰り返した。やがて、子羊はまったくウサギと亀の姿を見つけられなくなった。
「なにも食べたくないけど、お腹が減ったなあ」
子羊はぼんやりとそんなことを思いながらも、風に吹かれて歩き続けることになった。呑気に軽快に熱心に走る姿はウサギのようで、地道に健気に懸命に歩く姿は亀のようだ。しかし、もはや前後のウサギと亀がいなくなった時点で子羊は道を見失い、小山とはまったく別の方向へ歩いていることに気が付いていなかった。考えれば子羊は始めから彼らの目的地を知らなかったのであるから、道を見失うというよりは、もとよりただ到るべき場所もなく放浪するだけということだった。彼の道程は所詮ウサギと亀の間にしかなかったのだから。
日は沈み、まん丸い月が昇った。子羊はうっとりと月を眺め、不満そうに言う。
「もし月まで道があったなら、きっといつまでも歩き続けられるんだけどなあ」
月が、ポウンと揺らいだ。ウサギか、亀かが小山に着いたのだろうか。子羊は寂しげに思ったという。
地球へ帰還する胎児の諸賢にこの寓話を捧ぐ。