ひでえ出来なのは分かってるんだが止められねえ
思考は淀み、やがて断崖から零れ落ちていく。
何故、「在る」のかという問いは果たして命題であった。
視覚、聴覚、或いは聴覚といった認識の領域でしか世界を捉える事ができない我々では、とても命題は解けそうにない。
二次元の存在が三次元を認識できないように、より上位からの観測でもって初めて解ける命題なのだ。
もしかすると、いくら上位の観測を行おうと、明らかになるわけではないのかもしれない。
何故、「在る」のだろうか、「無い」ことこそより普遍的であるとは考えられないだろうか。
万物は未来永劫にリサイクルされるのではなく、ある一点で全てが失われると聞く。そういった説の正誤はともなくとして、少なくとも「在る」事が永遠に続くと考えるのはぞっとしない。全てが失われるというのならば、まだ納得がいく。
はじまりがあれば終わりがあるのは、我々の認識のうちでは当然とされているからだ。
失われるべき円環が我々にもたらしたものは永遠の世界なのか、それともそう錯覚させるような決して有限の無に帰すべく定められた世界なのか。
物事を考えるときに、はじまりと終わりという因果関係で思考せざるを得ない認識能力では、理解の範疇ではない。
そしてさした興味もない。
もう何でもいいや。