老婆と手紙
前回よりは短くまとめられたと思います。
僕があなたのためにしてあげられることは何かあるかな?
あったら何でも言ってほしい。でも、できれば今日一日で済む事の方がいい…明日にはもう僕はいない。
あの人は家にやってくるなり、突然そんな事を聞いてきたんだよ。
何を言っているの?どういうこと?って彼を問い質したけど、もうだいたい気付いてたよ。
特効が決まったって、だから基地を抜け出し合いに来たって…あの人の口からそれを聞いたとき、本当に何も見えなくなるくらいに涙が溢れて、私はその場で崩れ落ちてしまった。
お願いなんて一つだけ。ずっと私のそばにいてください。
私が泣きながら、鳴咽で殆ど聞き取れないような声でそう叫んでも、あの人はただ悲しそうに笑みを浮かべるだけだった。
私だってわかってたよ、それはもう叶わぬ願だと。それでも、私はあの人に縋り付いてそう喚く事しか出来なかった。
すまない。やはり会いに来るべきではなかった。君を悲しませただけだった。
何より、覚悟が一瞬揺らいだ。
だから僕はもう行くよ。この手紙…ここに置いておく、読んでくれ…
…行ってまいります。
敬礼をしたあの人の姿は今も夢に見る。
そして踵をかえすと、振り向くことなくあの人は行ってしまった。その時渡されたのがこの手紙だよ…
それからひと月も経たないうちに戦争は終わり、日本は敗戦した。でも、そんな事はどうでもよかった、国が負けたことなんかより、たった一人、あの人がいなくなった、それだけでもう生きている意味なんてなかった…
そんな時ずっと懐に入れたままだったこの手紙の事を思い出してね。読まなきゃって思って、封筒から便箋を取り出して、それを読んだ後の事はあまり覚えてないよ。
それくらい泣いたからね…
拝啓―トミ子殿
この手紙を書くにあたり、貴女に謝らなければなりません。私は今まで貴女を悲しませ続けてきました。そして今、貴女の触れられぬ所へ行こうとしています。貴女ひとりを幸せに出来ないこの甲斐性なしをお許し下さい。
でも私はあの日決めたのです。
覚えていますか?私の元に徴収礼状がきたあの日。名誉な事だと万歳三唱で送り出してくれた私の両親とは反対に、貴女はひとり泣いてくれました。
覚えていますか?あの日の夜の星空を。私が出兵する前の夜。貴女は私を連れ出して、小高い丘の上に連れてきました。二人で星を見ていると貴女はこんな事を言いましたね。
まるで月が泣いているよう。この国や、遠い異国で祖国を思い死んでいった人たちが流した涙が月の周りで煌めいているようだと。
私はあの夜決めたのです。
ならば今生きている者達の、せめて貴女の幸せは守って見せると。
しかしそんな事も出来ぬまま、私の特効が決まりました。貴女はまた悲しみ泣いているのでしょう。
私はこれから散る桜。ならばせめて満開に咲き誇り散りましょう。私のこの命で、この国に住む人の、あの夜空の星の数ほどの輝ける未来が守れるのなら、死すら喜んで受け入れましょう。
ただ一つ、貴女の事だけが気掛かりです。
貴女ほどの器量なら貴女を幸せにできる男をすぐに見つけられるでしょう。私を忘れなさい。そしてその男と幸せになりなさい。
私はあの月の周りで燦然と輝く星になり、この大地に、貴女に、光りを降り注ぎます。貴女の幸せを祈り、見守ります。
貴女に残すべき言葉はいくら書こうと書ききれません。
貴女に伝えたい言葉はこの筆だけでは足りないようです。
貴女の幸せだけをただ切に祈り、ここで筆を終わらせてもらいます。
私の最後の言葉をこの手紙に添えて―さようなら―