9.思い出の散策
高原地の夏は、平地と比べると幾分かは涼しい。陽射しの強い日はやっぱり暑いけど、今日のような曇天の日は多少ましだ。とはいえ、湿度が高いから肌にまとわりつくようなじっとりとした暑気は不快に感じることもある。それでも緑陰を渡る風は心地よく、土と緑の匂いが心身を洗うようだった。
ユエル様は人気の少ない森の小路を選び、ゆったりと歩く。わたしはその後をしずしずと付き従っている。
ユエル様がこうして散歩に出るのは久しい。
このところ屋敷に引きこもっていることが多かったから、気分転換がしたかったのかもしれない。
「…………」
ユエル様が黙っているから、わたしも口を閉じている。
重い沈黙じゃない。穏やかな静けさが心を安らげていた。
ユエル様とわたしの、土と草を踏んで歩く足音もまた耳に心地良かった。
さやさやと梢が風に揺れ、擦れ合う音を響かせている。近くで小鳥が鳴いている。深緑の奥から空へと抜けていくような、甲高く澄んだ囀りだ。
わたしとユエル様がゆるやかに歩いている道は、コンクリート舗装のされていない小路だ。だけど車両が通れるくらいの道幅はあり、路にもタイヤの跡が残っている。木立の合間に、売り物件の立札のあるいささか古びた別荘が見えた。その他にも何件か、個人の所有かと思われる別荘があったけれど、人気はなかった。お盆休みに入れば、ここらももう少し賑やかになるのだろうか?
路の両脇にはずらりと羊歯が並び、枯れた巨木や岩にはびっしりと苔が生え、あたり一面を緑色で覆っている。改めて上を見やると、落葉松の他にモミジの木も多く、秋になればさぞかし美しい紅葉が見られるだろう。
また視線を落とし、地を這う緑に目をやった。
小さな花をつける山野草のほとんどは直射日光を避けて咲き、ややもすれば見逃してしまいそうなほど、地味で目立たない。
タイヤに踏みしだかれても、根をはり、葉を伸ばしている草々もまた美しいと思った。踏まれ続けても、根強く生きている。
園芸種の花みたいな華やかさはないけれど、見過ごしてしまいがちな山野草や名も知らない草々に、わたしはなにやら羨望まじりの共感を覚えていた。
誰の心に留まらずとも、こうして生き続けていくには辛苦に耐える強さが要る。わたしにもその強さがあればいいのに。
わたしが取るに足らない雑草ならば、ユエル様は一輪の薔薇といったところだろうか。冷艶とした、幻の銀の薔薇――
ユエル様の背を見つめながら、ぼんやりと思考を巡らせた。
ユエル様は孤独を愛する方なのかも。
街中に居を構えることが少ないからそう感じるのかもしれない。吸血鬼である正体を隠すためという理由もあると思うけど、それよりも、ユエル様自身が雑踏を嫌ってるということの方が大きい気がする。
ユエル様は時と場合によっては社交的になるけれど、必要がなければ愛想笑いの一つもせず、排他的になることもしばしばだ。好奇の目に晒されるのが、「鬱陶しい」と仰っていた。
「まぁ、やむないことだけどね。私のこの美貌では、どうしても人目を惹いてしまうから」
その述懐に異存はありません。だけど、不遜に微笑むユエル様に、わたしはちょっと胡乱な顔をしてしまったのだっけ。
ユエル様は苦笑して、「事実は事実として、真摯に受け止めねばならないよ」と返してきた。それから真顔をこちらに向けて言ったのだ。
「ミズカも目をつけられやすいから、気をつけなさい」
「……?」
「目が離せないとも言うが……。四六時中見張っているわけにもいかないからね」
ため息をついたユエル様にどういう意味なのか訊き返しても、微笑みでごまかされてしまった。
ユエル様の真意はいつだってはかりしれず、わたしには分からないことだらけだ。昔も、今も……――
ユエル様はとくに目的地があるようでもなく、ゆったりとした歩調で道を行く。首を伸ばして木々の隙間に見える曇りがちな空を仰いだり、風に撫でられた銀髪を指で梳き、整えてはまたそれを風に遊ばせたりしていた。そして時々、わたしがちゃんとついて来ているか肩越しに振り返って確かめる。
目が合っても、ユエル様は何も言わない。だけど、わたしの存在を確認してくれるそのことが、わたしを安堵させた。
話しかけていいものやら戸惑ったけれど、わたしはユエル様との距離を詰め、口を開いた。
「ユエル様、実はお願いがあるんですけど」
「うん?」
ユエル様は足を止め、振り向いた。ユエル様の深緑色のまなざしが宙からわたしへと向けられた。ユエル様は静かな微笑を湛えている。
鼓動が、どきりと跳ねた。
「え、えっと、……その、外国語を教えていただけないかな、と思いまして」
「外国語?」
「はい。英語でも、他の言語でも」
「それはまた、どうして?」
「さっきイレクくんとも話してたんですけど……」
海外に行きたいと思ってるわけじゃない。そりゃぁ、興味がないこともないし、機会があるなら行ってみたいなと、内心思ってる。そんな贅沢が言える身分じゃないことは承知しているつもりだから、口に出したりはしないけど。
わたしの存念はどうであれ、いつかユエル様の意向で海外へ行くことになった時に、日本語しか話せないのはやっぱり不便だろう。それに、もしかしてわたしのせいでユエル様が日本から出られないでいるのなら申し訳ない。たとえそうでなかったとしても、いざという時のために、英語くらいは話せるようになって、少しでもユエル様の負担を軽くしたい。
それを告げると、ユエル様は「ミズカらしい」と微笑んだ。
「向学心があるのは良いことだ。ミズカは勉強家だね」
「ありがとうございます。でも、それはきっと、今まで勉強をすることがなかったからだと思います」
ユエル様に仕える前、わたしは読み書きと簡単な算数ができる程度で、まったく無学だった。学ぶ楽しさなど、知る由もなかった。
ユエル様に様々なことを習い、そうして自分の中に知識が増えていくのが嬉しかった。
勉強が苦痛にならなかったのは、きっと「進学」や「受験」という強迫観念に駆られることがなかったからなんだと思う。「将来」を危惧せず、ただ純粋に、知識や感性を豊かにするために学べるというのはとても贅沢なことなのかもしれない。
楽しくはあってもなかなか身にはつかず、それが我ながらもどかしくて、情けなくなる時もあるけれど。
「わたし、学習能力は高い方じゃないし、憶えもいいとは言えないから、その分ユエル様にはお手間をかけてしまいますけど……」
「ご謙遜だね、ミズカ。そう卑下することもなかろう。ミズカは教え甲斐のある良い生徒だったよ、いつでもね」
「ほっ、ほんとにそうだといいんですけどっ」
麗しい微笑みを向けられて、思わず頬が熱くなる。
「ミズカは素直なのだが、反面、考え方が頑なになりすぎるきらいがある。もう少し柔軟になっても良いと思うが、まぁ、矯正した方がいいという程でもないね」
「……はい」
ユエル様は迷惑顔もせずに、いつだって根気よくわたしの勉強に付き合ってくれた。
特に学校……高等学校にもぐりこむ時は、少なくとも義務教育を終えてきた程度の一般教養は必要になってくる。さらに「現代人」としての一般常識もある程度は頭に入れておかねばならない。
それらを、ユエル様は懇切丁寧に教えてくれる。言葉でだけでなく、「実地学習が一番手っ取り早い」と言って、この時ばかりは街中に居住し、「現代人」の営みを体験させ、学ばせてくれる。
ユエル様だって、移り変わっていく時代に応じた「一般常識」は、その時になって初めて体感することが多いはずなのに、その順応性の早さときたら、もう一種の魔法としか思えないほどだ。
様々な“術”を使いこなせるユエル様だから、そうした術もあるのかと、いつか訊いたこともあるくらいだ。もちろんそんなことはなくて、
「私ほど頭脳明晰な者になれば、即座に時代に対応できるのだよ。長年に培われてきた慣れがあると言えなくもないが」
と、仰ってた。
「ミズカもよくやっている」
ユエル様は「褒めて伸ばす」の姿勢で、わたしの成長を促してくれる。それも、とても自然に。
「何事も真摯に取り組むその姿勢は、ミズカの美点と言えようね。素晴らしいことだと思うよ」
ユエル様は、ありのままのわたしを認め、受け入れてくれている。それを感じられて、とても嬉しかった。だからもっと頑張ろうと思うのだ。
――あれは、いつだったかな。
そう、何年か前のこと。初めて高校にもぐりこんだ時のことだ。
かなり浮足立ってたって、我ながら思う。同じくらいに緊張もしていたけど、たとえ短期間でも高校へ通わせてもらえるなんて、夢のようだった。
最初は正体がバレやしないかとひやひやしていたけれど、ユエル様は英語の教師としてもぐりこみ、わたしのことを後方から何くれとなくサポートしてくれた。おかげで、たったの三ヶ月間だったけれど、わたしは高校生らしい日々を満喫できた。
それで、少し欲が出てしまった。もう少しだけ学生らしい経験がしてみたくなったのだ。
「テストを受けたい?」
ユエル様が訝しげに訊き返してきた。わたしが、「テストを受けてみたい」と言ったことがよほど意外だったのか、驚いたような、とまどったような顔をしていた。
「はい、せっかくですし」
「変わっているね、ミズカは」
「なんで変わっている、なんですか?」
「テストなんて、普通は受けたがらないものだよ?」
くすっと、ユエル様は小さく笑った。からかうようにではなく、とても優しい顔をしていた。
「でも、どれくらい身についたか知るのにはちょうどいいですから」
冬休みが来る前、期末テストの日程が決まった頃、もう頃合いだからそろそろ姿をくらまそうかと言ったユエル様に、「もう少しだけ待って下さい」と頼み込んだ。テストを受けてから、学校を去りたいと無心した。
「きっと、点数は惨憺たる結果になるんでしょうけど、それでも受けてみたいんです」
「……わかった。ミズカのしたいようにするといい」
「はい! ありがとうございます、ユエル様」
ユエル様はわたしのことを案じてくれていたのだと思う。
だって、とんでもなくサイアクな点数の解答用紙が戻ってくるのは目に見えていたから。
まともな教育を受けたことのないわたしが、いきなり高校生クラスのテストを受けるなんて、無謀の一言だもの。
どの授業も、ついていくのが精一杯で、「ちんぷんかんぷん」と頭がぐるぐる回っちゃうことも多かった。
だからテスト前の一週間は、そりゃぁもう、必死になって勉強した。どうしてもわからないところはユエル様に聞いて。ユエル様は面倒がらず、わたしの勉強をみてくれた。
必死の勉強の成果はあって、どの教科も平均点はとることができた。
「よくやったね、ミズカ」
ユエル様もそう言って褒めてくれた。よしよしって頭を撫でてくれて、深緑色の瞳をやわらげて微笑みかけてくれた。
それだけでも頑張った甲斐があったって思ったし、ユエル様の優しい笑顔を見られて、本当に舞い上がるほど嬉しかった。
ユエル様の笑顔を見られるだけで幸せだった。
もうそれだけで胸がいっぱいになるほどに。