59.もう一度
そしてまた、わたしとユエル様は二人きりになった。広い寝室がシンと静まり返る。
みんなが去って行った方に目を向けたまま、わたしはちょっとぼう然としてしまった。さっきまで賑やかだった分、静寂さが少し重たく感じられる。居心地悪くは……ないのだけど。ユエル様と二人きりだということを改めて意識してしまい、ユエル様の方に顔を向けられない。
窓の向こうから甲高い鳥の鳴き声が聞こえてきた。その声に誘われるようにして窓の外に目をやり、けれどまた顔を俯かせる。近づいたり遠ざかったりする鳥のさえずりに耳を傾ける余裕なんてなくて、わたしはそわそわと落ち着かず、膝までかかってる掛け布団を手繰り寄せたり揉んでみたりしていた。
だけどいつまでも黙ったままでいるのはユエル様を拒んでるようで、失礼な気がした。
それに、ユエル様にちゃんと言わなくちゃ。
立ち聞きして迷惑をかけてしまったことを謝って、怪我を治してくださったことのお礼を。
口の中が渇き始めて、舌がうまく動かない。どう切り出そうか。逡巡してても答えは出てこない。ともかく声を出そう。
ユエル様、とわたしが口を開きかけると、それを制するようにユエル様の方が先に「ミズカ」とわたしの名を呼んだ。そしてユエル様は掛け布団を揉んでいたわたしの手をそっと握る。
「身体は、どう? 痛みや気だるさは?」
ユエル様に問われて、わたしは首を横に振った。
ユエル様は微笑みをその秀麗な面から消していた。緑のまなざしはやわらかく、わたしを気遣ってくれてるのが分かる。
「はい、あの……大丈夫です。ちょっと寝起きでぼんやりしてるだけで……、ユエル様、その……ありがとうございます、傷を治してくださって」
ようやくユエル様の目を見てお礼を言えた。
顔のほてりも胸の動悸も治まらないけれど、さっきよりは落ち着いたような気がする。ユエル様の顔を見られる程度には。
揺らぎなく、まっすぐにわたしを見つめる深緑色の双眸はいつにもまして優しく、艶美だ。こんな甘やかなまなざしで見つめられて、ドキドキしないわけがない。ユエル様の顔が近付いてることに気づいてはいたけど、目を反らせず、意識して瞬きを繰り返すのが精いっぱいだった。
ユエル様の手が右肩に触れた。ノースリーブの室内着だから肩は露出してる。そこに傷跡はない。なのにユエル様は労わるように触れ、すまなそうに柳眉を曇らせた。
「辛い思いをさせたね、ミズカには。……すまない」
ユエル様の口から思いがけず出てきた謝罪の言葉にわたしはとっさに返事ができなかった。
ユエル様は目を細め、自嘲するように呟いた。
「私はいつもミズカを傷つけてばかりいるな」
「そんな……! 傷つけてなんて……そんなことありません! わたしが勝手に……っ」
わたしが言い返すのをユエル様は分かっていたんだろう。最後まで言わせず、ユエル様はわたしを抱きしめた。
「……っ、ユ、エルさ……」
ふんわりと包み込むような、優しい抱擁。背中の傷痕に触れないようにしてくれてるのが分かった。
声をひそめてユエル様は続ける。
「アレのことは、私達だけで片付けようとしたのだが……」
ユエル様の言う「アレ」とは「亜矢子さん」のことなんだろう。亜矢子さんの名前を口にするのも、思いだすことすら忌々しいといった声音だった。
「ミズカに余計な心配をかけまいと秘密裏に事を進めていたのだが、それがかえってミズカの不安を煽ることになってしまった。そのあげくミズカを巻き込んだばかりか怪我まで負わせて。今さら悔いても遅いが、黙っていたこと、……本当にすまない」
わたしはユエル様の腕の中で首を左右に振る。
気にしていなかったといえば嘘になるけれど、わたしを気遣ってのことだと知った今は、ユエル様を責める気になんてなれなかった。たとえユエル様達から事前にあの夜に何を行うのかを聞いていたとしても、わたしは何もできなかったろうから。
ユエル様は亜矢子さんの思惑に気づいていた。初対面からそれを見抜いていたわけではないとユエル様は言った。無遠慮に接触してこようとする亜矢子さんに不審を覚えてはいたみたいだけど、「ああいった輩はどこにでもいる」。だからユエル様はあえて無視を決め込み、相手にならないようにしていた。だから亜矢子さんの「思惑」に気づくのが遅れたのだと、ユエル様はその点をひどく悔み、自身に腹を立てているようだった。
眷族になりといという亜矢子さんの思惑。それは「永遠の若さと美しさ」……つまり「不老長寿」になりたいがための方便だった。
でも、本当にそうだったの……?
亜矢子さんはただ単に永遠の若さを手に入れるためだけにユエル様に近づいたの? ユエル様はそう断じているけれど、本当にそれだけ……?
――そうは思えなかった。
あの時、亜矢子さんは銃口をユエル様に向けていた。たぶん発砲する気なんてなくて、あくまで脅しだったんだと思う。ユエル様もそう考えていたから亜矢子さんの挑発には乗らなかった。逆に挑発してたくらいだ。
けれど亜矢子さんは引き金を引いた。
あの刹那。きっと亜矢子さんは逡巡し、銃口を動かした。ユエル様から、わたしへ。
ユエル様が声をかけたのは、わたしだった。
無視され続けて亜矢子さんはどんなにか腹立たしかったろう。見下しきっていたわたしに、ユエル様は目線を向け、声をかけた。
亜矢子さんは狙いをわたしに変えた。わたしを心底疎ましいと思ったんだろう。……殺したいと思うほどに。
亜矢子さんを追い詰めさせたのは、やはりユエル様への恋情だったんじゃないだろうか。
右肩を抉った銃創は跡形もなく消えている。けれど痛みは憶えてる。亜矢子さんの痛みが、そのまま弾丸となってわたしを撃ちつけたみたいだ。そう思うのはわたしの勝手な思い込みかもしれない。だけど……――
「ミズカ?」
ふいに、ユエル様はわたしの体を離した。突然黙りこんでしまったわたしの顔を心配そうに覗きこんでくる。
「……っ」
顔が、近いですっ、ユエル様……っ!
ユエル様は今までも時々こんな風に顔を近づけてきて、その度にドキドキさせられたけど、今は、なんだかもっと違って……だって、あの時のことを思いだしてしまう。深緑の双眸だけじゃない。ユエル様の形のよい薔薇色の唇にまで目がいってしまう。
「あっ、あのっ」
とにかく何か言わなくちゃ。
声を振り絞っても、すらすらと言葉は出てこない。
だってユエル様、顔を離してくれないし、それどころか頬に触れてくるし! 目のやり場に困ってしまう。瞬きすら上手く出来なくなってきた。
「ともかく、そのっ、みんなが無事で良かったです」
「ミズカは無事じゃなかったろう」
「でももうちゃんと治って、どこも痛くないです。だから、わたしもちゃんと無事で、えっと……」
しどろもどろに言葉を継ぐ。けれど本当に言いたい言葉は出てこない。
「…………」
ユエル様の表情が、ふわりとやわらいだ。物言いたげな瞳がまっすぐにわたしをとらえる。
ユエル様はわたしの頬を両手で挟んだ。
鼓動が跳ねる。身体は硬直してしまい、身じろぎもできない。
心臓の音がユエル様にも聴こえてしまうんじゃないだろうか。
「ミズカ」
やわらかな声音がユエル様の口から発せられた。反射的に「はい」と答える。ユエル様はきれいな薔薇色の口唇の端をゆるやかに上げて微笑んだ。
「口づけてもいいかな?」
問われて、わたしは瞠目し、ユエル様を見つめた。
「……え?」
何を問われたのか一瞬理解できなくて、固まってしまった。けど、すぐに言葉の意味を察した。「口づけ」って、えっ、それって、つまり……っ!
「い、いえっ、あのっ」
自分でも分かるほど顔が赤くなる。熱くて、頭のてっぺんから湯気が出そう……!
ユエル様の言う「口づけ」は生気をくれるための行為だ。それと分かってても、「口づけ」という言葉に全身が熱ってきてしまう。
身じろぎ、ユエル様から距離をとろうとした。だけどユエル様はわたしを逃がさない。ユエル様は一旦わたしの頬から手を離したけど、すぐに片手を顎に添えてきて、わたしの顔を上向かせた。どぎまぎして、口から心臓が飛び出そう。
「あ、あの、わたし、足りてます! 渇いてませんからっ」
慌てふためき、早口でそう告げる。
長い睡眠の後は喉も渇くし、「生気」も渇きがちになる。ユエル様は案じてくれてるんだろう、わたしが渇いていないかって。寝起きだから渇いてる自覚がないのではないかって。
もし足りてなかったとしても、口移しで生気を飲ませてもらうのは……嫌じゃない。嫌じゃないけど、でも……――
喉がきゅぅっと締めつけられるように痛む。ひりつく痛みは渇きからじゃない。
ユエル様は微苦笑を浮かべて、「やはりね」と呟いた。
「え?」
――やはり? 何が「やはり」なの?
目をぱちくりとさせ、ユエル様の顔を見やった。
小さくため息をついたユエル様だけど、落胆してるようでも呆れてるようでもない。わたしをからかってくる様子もない。わたしを見つめるまなざしはとても優しくて、それがなんだか妙に……くすぐったく感じる。
瞬きを繰り返し、改めてユエル様を見つめ返す。
「違うよ、ミズカ」
ユエル様の、わたしの顎を抓む指に力が入った。
「口づけるのは、ミズカを愛しいと……恋しいと思うからだ」
「……っ」
ユエル様の息がかかる。それほど近くにユエル様の顔がある。ユエル様は親指の腹でわたしの唇をそっと撫ぜた。
「あの時も、ただ生気を与えるために口づけたのではない。……ミズカ」
「ユ、エ……っ」
ユエル様の唇が、わたしの唇に触れた。ほんの一瞬の掠めるような――キス。
「やっと手に入れた」
短く言って、ユエル様は再び唇を重ねてきた。今度は押し包むような深いキスだった。
たまらず、わたしはぎゅっと目を閉じる。
ユエル様のやわらかな唇の感触にとまどい、けれど心地の良さに身も心も融けそうになる。
ユエル様の口づけから伝わってくるそれは、生気じゃない。全身を熱く滾らせるそれは、ユエル様の想い。ユエル様の想いがわたしの中に流れ込んでくる。
初めて触れたユエル様の想い……――
甘い悦びが全身を浸していく。涙が自然と眦から零れて落ちた。
やがて互いの唇が離れ、わたしはゆっくりと瞼をあげて陶然とユエル様を見つめた。息が乱れて声が出ない。
ユエル様は再びわたしの頬を両手で挟んだ。
「ミズカ」
「……はい」
「私の眷族は……いや、私の伴侶は、永遠にミズカだけだ」
ユエル様の真摯な瞳がわたしをとらえる。
ユエル様は待っていてくれたのだ。わたしの心が育つまでずっと。無理強いは決してせず、わたしの気持ちをいつだって慮ってくれていた。
「改めて問おう。ミズカ、これからもずっと、私の傍にいてもらいたい。私について来てほしい」
「……ユエル様……」
それは遠い昔……わたしを眷族にする時に問うたのと同じ言葉だった。
あの時ユエル様の瞳には迷いがあった。その迷いがなんなのか、わたしはそれを知ろうともしなかった。知るべきじゃないと思っていたから。
だから漠然としたユエル様の問い掛けに、わたしは意味も分からないまま答えた。
今は違う。問いの意味を知った今は。
改めてユエル様に、そしてわたし自身に誓う。
「いつまでもずっと、ユエル様の傍にいます」
ユエル様が望む限り、いつまでも傍にいます。
わたしの応えに、ユエル様のホッとしたようにやわらかく笑み、「ありがとう」と額にキスをしてくれた。
――夢みたい。これはほんとうのことなの? 信じられない……――
微かな不安は、ユエル様のキスでかき消えた。胸に満ちる幸福感に目の前が滲んでくる。嬉しくて、すぐには声が出ない。
「ユエル様」
呼びかける声が少し掠れてしまう。
「ん?」
「ユエル様に、あの……――」
ユエル様の輝かんばかりの美貌に気後れしそうになる。でもそこで引いてはだめだと自分を励まして、わたしはためらいを押しやって言葉を続けた。
「……わたしも、……キス、していいですか?」
一瞬ユエル様はわたしの思いがけない要望に瞠目した。ユエル様はすぐに微笑みで答えてくれた。
姿勢をかえ、わたしは膝立ちになる。そしてユエル様の唇にそっと口づけた。
唇の先をほんの少し触れ合わせただけの、不器用なキス。短いキスだったけれど、ユエル様は口角をあげ、満足げな笑みを見せたくれた。
「ユエル様」
わたしはユエル様の首に両腕を回し、抱きついた。ぎゅっと体を寄せ、ユエル様の白銀の髪に顔を埋める。ユエル様のぬくもりが全身に伝わる。甘い薔薇の香気に溺れてしまいそう。
「ユエル様……好きです。――大好き」
抱きついたまま、涙声になって想いを伝える。
わたしは初めてわたし自身の想いと向き合えた。今まで気づかぬふりをして押し込めていたわたしの恋心。
ユエル様が好き。その想いに気づけて良かった。伝えられて良かった。
ユエル様はふんわりと優しく包み込むようにしてわたしを抱き返してくれ、わたしの想いを受け止めてくれた。