58.種明かしと結実
あの後……わたしが意識を失ってしまった後のこと……わたしはユエル様に抱えられ、迎えに来てくれたイレクくんとともに今いるこのホテルに来たのだそうだ。そしてその間に、アリアさんとイスラさんはパーティー会場に残り「後始末」をつけてきてくれた。
「後始末」というの、睡眠ガスをばらまいたことの証拠隠滅。その他睡眠ガスが切れて目を覚ましたパーティーのゲストや宿泊客の「ケア」も忘れなかった。暗示をかけてアリアさん達の言うなりになってたガードマンが首尾よく働いてくれたおかげで騒ぎは起こらなかったらしい。セキュリティシステムの改竄やら何やら、「出来うる限りのことはしてきたわ」とアリアさんは言う。ともあれ、亜矢子さんに招待されたホテルで問題になるような「騒動」は何もなかったことになっている。
「睡眠ガスに関しては正直やりすぎなんじゃないかしらって思ったんだけど、あのお嬢ちゃんが何をやらかすか分からなかったから、警戒してたユエルは正解だったってことね」
それにしたってユエルもやり方が大雑把よねぇとアリアさんは苦笑する。ちらりとユエル様を見ると、苦っぽい表情のまま黙然としていた。
「停電の後、僅かの間とはいえ記憶が飛んじゃって、それを気にしてるというか、何事かあったんじゃないかって不安がってホテルに問い合わせてる人もいたようだけど、たいした騒ぎにはなってないわ。ホテル側でうまく対処してるはずよ。そういった問い合わせやら何やらも、そのうち終息するわ」
アリアさんはそう言うけれど、本当に大丈夫だろうかって、やっぱりちょっと不安になってしまう。ユエル様達の正体が知れ渡ってしまうような事態に発展しなければいいけれど……。
「大丈夫よ、ミズカちゃん」
わたしの杞憂をはらうようにアリアさんは優しく笑った。
「あのパーティーで異常な何かがあったと勘付いた人がいたとしても、あたし達と関連付けて考えたりはしないと思うわ。あたし達、できるだけ目立たないよう、派手な行動は慎んでたもの。外国人が珍しいといったって、パーティー会場にはあたし達以外にも外国人は何人もいたでしょ? あたし達だけを記憶に留めてる人間なんて、ごく僅かよ」
「でも……」
ユエル様やアリアさん、それにイスラさんの見目の美しさはかなり強烈……というか印象深くて、なかなか忘れられないような気がするのだけど。外国人だからってだけじゃなく。だってパーティー会場に到着した時も、ただ立っているだけで周りの人の目を引いたもの。
アリアさんは「心配しないで」と宥めるように軽くわたしの手を握った。
「あたし達に直接関わった人間には……とくに生気を飲ませてもらった人間にはね、記憶が薄れるよう暗示をかけてあるの。日が経つごとに、あたし達の顔や名前は曖昧になっていくわ。ぼんやりとしか思いだせなくなって、そのうちに忘れてしまう。とくにユエルはそういう暗示を強くかけてたはずよ、占いで間近に接した娘たちには。そうでしょ?」
驚いてユエル様の方に顔を向ける。ユエル様がアリアさんの語を継いだ。
「占い相手の子らには、私に会ってから一週間以内に、私の顔と名前を忘れるよう暗示をかけてある。今頃はもう忘れているだろう」
淡々とユエル様は言った。
そういえば以前、ユエル様から聞いたことがあった。生気を飲む際に、人間にはよくそういう暗示をかける。吸血鬼が持ってる「催眠術」という「魔法」は、のちのちの面倒を避けるための、身を守るための「術」。そうやって人目を避け、逃れてきたのだと。
「記憶を完全に消去するのは難しい。だが夏のひとときの記憶など放っておいてもじきに薄れる」
「……亜矢子さんも、ですか?」
おそるおそる尋ねた。
亜矢子さんにも暗示をかけてあるんだろうか。ユエル様のこと、忘れるように。
ユエル様の眉間に皺が寄る。いかにも不愉快そうで、わたしは身を竦ませた。
「あれの記憶は操作してない」
ユエル様は突き放すようにそう言った。その直後、ユエル様の語尾にドアが開く音が重なった。
リビングの方からドアの開閉音と、人の声が聞こえてきた。聞き馴染みのある男性二人の声。イスラさんとイレクくんだと気づいて、声のする方に目をやった。
やがて二人は寝室にやってきた。
「ミズカちゃん!」「ミズカさん」
わたしの顔を見るや、二人は嬉々とした声をあげ、駆け寄ってきた。二人は口々にわたしの無事を喜んでくれた。イスラさんとイレクくんの二人が加わって、途端に場が賑やかになる。
ユエル様とアリアさん、そしてイスラさんとイレクくん。四人の顔がそろってるのを見て、わたしも改めてホッとした心地になった。
イスラさんの顔を見て、ユエル様は「やれやれ」と少々わざとらしくため息をついた。イスラさんもそれに気づいたようだったけど食ってかかったりはせず、けどちょっとだけジロリと睨み返した。ユエル様とイスラさんのやりとりはなんだか子どもっぽくもあって、見ているとハラハラすることもあるけど、今日はなんだか、和んだ心地になれた。
アリアさんが今に至るまでの経緯をわたしに説明していたことをイスラさんとイレクくんに話し、そこからは二人も交えて、状況説明をしてくれた。
アリアさんは場所を移動して、隣のベッドに座り、イスラさんとイレクくんはフットベンチに腰掛けている。
状況説明というより、思い出話に花を咲かせているといった感で、そんな雰囲気からも、今現在切羽詰まった状況にないことが察せられた。
「一番活躍したのはイレクよね」
わたし達のために冷えたジャスミンティーを用意してくれたイレくんに、アリアさんは労をねぎらうように言った。
「裏方の仕事を全部引き受けてくれて、おかげでパーティー会場からの撤収もスムーズに済んだわ」
「ユエル様とミズカさんのお役に立てたのなら良かったです」
イレクくんがユエル様に依頼されたのは催眠ガスを作ることだけじゃなかったらしい。
わたし達が住んでた屋敷からすべての荷物を運び出し、ハウスクリーニングも済ませ、買い取った時の書類なども白紙に……つまりあの屋敷を買い取った者はいなかったという状態に戻しておく。それらの「作業」すべてを担ったのがイレクくんだった。パーティーのあった夜と翌日、およそ一日半てそれらすべてを終わらせたというのだから、イレクくんの労力は計り知れない。
恐縮しきるわたしに、イレクくんは「そんなことはありませんよ」と苦笑して応えた。
「こういうことは慣れてますしね。それに引っ越しもハウスクリーニングも、作業自体はすべて業者の方にお任せしましたから。僕は指示をだしただけです」
「でも、たくさんの人に暗示をかけたんでしょう? それって大変なんじゃ……」
わたしの問いにイレクくんはこともなげな様子で答えた。
「何百人も暗示にかけたわけではないですから。それに記憶の書き換えもそんなに魔力を使うものじゃないんですよ。複雑な暗示でもなかったですし」
ちなみにちゃんと代金は支払っておいたので、業者の方達もタダ働きにはなってませんよ、とイレクくんは珍しくおどけたような口調で言い添えた。
わたしを見るイレクくんの薄茶色の双眸は、何かを吹っ切ったような明るさがある。屈託した色はなく、けれど少し大人びたような雰囲気がイレクくんの顔に表われていた。やっぱりいろいろと面倒をかけてしまったから、気疲れさせてしまったのかもしれない。
イレクくんは視線をユエル様に向けた。
「僕達がいたという痕跡はできうるかぎりで消しておきました。完全とは言い切れませんが。……それと」
少し遠慮がちに、イレクくんは続けた。
「亜矢子さんのことなんですが……あのままでよかったんですか? 亜矢子さんへの接触が不快なら、僕が代わりに暗示をかけてきますが」
「いや、その必要はない。放っておけばいい」
イレクくんの申し出に、ユエル様はばっさりと切るような口調で応えた。
イレクくんの問いは、わたしがさっき訊きかけたことだったから、わたしも改めてユエル様を見つめた。
ユエル様は亜矢子さんの記憶操作をしていない。つまり、わたし達のことを亜矢子さんは憶えてる。いま、亜矢子さんはどうしてるのかそれは分からない。火傷を負ったのだから入院か、自宅療養か、ともかく動ける状態ではないかもしれない。
でも、火傷が完治したら?
亜矢子さんを放っておいて大丈夫なんだろか。亜矢子さんはわたし達の正体を知ってるのに。
「まぁ、大丈夫じゃねーの?」
わたしの不安を察したように口を挟んできたのはイスラさんだった。
「あのお嬢さんのことだ、たとえユエルのこと恨んで何か行動起こしたとしても、たいしたことにはならないさ。詰めが甘いっつーか、やり方がいきあたりばったりすぎて、なんつーかさぁ、張り合いないんだよねぇ」
亜矢子さんのことなんてもうどうでもいいといった態でイスラさんは言う。
「いままでいろんな奴らとやりあってきたけど、あんな無計画に俺らに向かってきた奴はいなかったぜ? ま、それで油断したところもなくはないけどな。まさかあのお嬢さんが拳銃持ってるなんて思ってもみなかった。調査が甘かったよ」
イスラさんはハァッと大きくため息を吐いた。己の不覚を嘆いているようで、苦っぽく顔を歪めている。
「俺がちゃんと傍についてたらミズカちゃんに怪我なんかさせなかったのに」
「あ、いえ、そんな……」
「ほんとごめんな、ミズカちゃん」
イスラさんは神妙な面持ちでわたしに謝罪してきて、わたしはうろたえてしまった。
だって、イスラさんのせいなんかじゃない。わたしが勝手な行動をとったせいでみんなに迷惑をかけてしまったんだから。
わたしこそと謝りかけたのだけど、ユエル様にとめられてしまった。
ユエル様はイスラさんに何か言いかけたようだったけど、苦虫を噛み潰したような顔をしただけで、開きかけた口を閉ざした。イスラさんもいつものようにユエル様につっかかっていかない。不穏ではないけれど、なんだか少しだけ微妙な空気が流れてた。でも、それもほんの一瞬だけ。
わたしはといえば、イスラさんに言われてやっと右肩に意識が向いた。
銃で撃たれたはずの、右肩。
痛みはなく、傷跡……銃創はなかった。まるで何もなかったかのように消えている。
ユエル様が治してくれたんだ。たくさんの生気をわたしにくれたから。
たくさんの生気を……――
「……っ」
――はたと思いだしてしまった。
ユエル様がわたしに生気をくれた、あの時のこと……!
途端に顔が熱くなり、自分でも分かるほど頬が赤くなってるのに気がついた。
ユエル様の視線がわたしに向けられてるのにも気づいて、とっさに顔を俯かせた。
ユエル様の顔をまともにみられない。片手で口を塞いだ。
どうしよう、こんな急に……――
「ミズカ?」
心配げにユエル様がわたしの顔を覗きこんできた。ユエル様はさりげなくわたしの背に腕を回してくる。触れられ、反射的に身を強張らせてしまった。でも、背にも肩にも痛みは走らなかった。ただ恥ずかしくて、顔をあげられず、唇を噛みしめた。
どうしよう……いきなりこんな、ヘンな態度をとってしまって……ユエル様だけじゃない、アリアさんもイスラさんもイレクくんも不審に思うよね……? もうこれ以上心配かけたくないのに……――
でも思いだしてしまったユエル様の、……唇の感触。熱い息も、全身を駆けめぐった甘い「快感」も……リアルによみがえってくる。
違うのに。あれは単に生気をわたしにたくさん吸収させるためってだけで、こんな……赤くなるようなことなんかじゃない。
でも、わたしには初めて……初めての……――
わたしが鬱々悶々としていると、突然アリアさんが両手をパンッと勢いよく叩いて立ち上がった。
「さぁさ、長話はここまでにしましょ! ミズカちゃんも目覚めたばかりで疲れてるでしょうし。ねっ」
イスラさんとイレクくん、そしてユエル様の視線がアリアさんに集まった。わたしもつられるようにして顔をあげ、アリアさんを見やった。アリアさんはわたしに近づいて、手を握った。
「あたし達いつでもミズカちゃんの力になるから。困ったことがあればどんどん頼って? あたし達もう友達だもの。ね?」
「え、えっと、はい、あの……」
ありがとうございますと軽くお辞儀をすると、アリアさんは晴れ晴れと笑った。
アリアさんの隣で、イレクくんも何やら思いついたような顔をし、ユエル様の方に目線を向けた。
「落ち着いた頃にでもまた改めて出直します。僕達もこのホテルにいますから、ユエル様、ミズカさん、何かご用があればいつでもお声をかけてください」
そしてアリアさんとイレクくんは寝室を出ていき、最後に残ったのはイスラさんだった。
イスラさんは口角をあげにやり笑ったけれど、ユエル様をからかうようなことは言ってこなかった。何か含みを持った表情ではあったけれど。
「そんじゃま、また後でな、ユエル」
「……ああ」
ユエル様は短く応じた。複雑そうな顔をしてるけど、不快そうな色はなくて、不思議なほどユエル様とイスラさんの間にある空気は落ち着いたものだった。
そしてイスラさんは去り際、わたしに向けてウィンクをした。
「がんばって」と言われたような気もするけれど、実際にはイスラさんは口を開きかけはしたけど何も言わず、ただ嬉しそうな顔でひらひらと手を振り、寝室を出ていった。