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57.夢から覚めて

 突然の口づけに、心臓が早鐘をうつ。

 だって、いきなりこんな……っ!

「……ユ、……ッ」

 ユエル様の名を口にしようとし、けれど中途半端に開かれたわたしの唇をユエル様はさらに深く塞いできた。

 ユエル様にキス……されてる。

 信じられない。でも、唇を塞ぐこの感触は本物で……。

 いきなり何故という戸惑いと驚き、そして……甘いときめきに動悸は激しくなるばかりだ。

 このまま思考も心臓も、止まってしまいそう。けれど胸の高鳴りは治まらず、息も止まりそうにない。ユエル様は唇の角度をかえる。呼吸のいとまを与えてはくれたけど、唇を離そうとはしなかった。

 堪らずぎゅっと目を閉じた。

 ――けれどすぐに、胸を騒がせている甘いときめきは打ち消された。

 ユエル様の口から生気が流れ込んできたから。

 熱いそれは、呼気ではなかった。

 全身を浸していく、生気。

 渇ききってたわたしの喉を下り、生気は全身を巡っていく。

 息を吹き込まれているような、水を飲まされているような……なのに息苦しさはなくて、喉だけじゃなく全身が潤っていくのが感じられた。

 そして生気が吹きこまれた瞬間に、思い出したのだ。

 イスラさんが言ってた。口移しの方が生気の吸収率が高いって。効率がいいって。

 ――ああ、だから。

 だからこの口づけに特別な意味なんかなくて。

 ユエル様はわたしの傷を治すために緊急の処置をとってくれてるだけなんだ。ただ、それだけのことなんだ……。

 勝手に期待して勝手に気落ちして……。

 バカみたい。わたし一人で戸惑ったり期待したり、浮かれて。

 ……ああ、だけど……だけど、なんて甘いんだろう、ユエル様が口移しにくれる生気は。こんな風に生気を甘く感じるなんて、今までなかった。……知らなかった。

 薔薇の香気のような、あたたかくて甘美な生気に陶然としてしまう。

 手や指から飲むのとはまったく違う。

 ユエル様そのものを全身で感じられるこの「快感」。未知の体感に頭の芯が熱くなり、クラクラする。

 涙が溢れて、零れた。

 肩の痛みは薄らいでいたけれど、甘く痺れるような痛みが胸を襲って、もう意識を保っていられなかった。

 そしてユエル様の腕の中、わたしはくらい眠りの底へ沈んでいった。


* * *


「ミズカ」

 ユエル様がわたしを呼ぶ。

 その声はいつも優しく、差し伸べてくれる手は決してわたしを急かさない。

 ユエル様は少し先にいて、歩みの遅いわたしを待っててくれる。わたしの前に立ち、行く道を示してくれる。たとえばわたしが脇道に逸れても、「たまには回り道も悪くはない」と笑ってくれた。

 ユエル様はそうやってわたしとともに歩いて、様々な事を教えてくれた。わたしの空っぽだった感情こころを豊かに育んでくれた。

 ユエル様が育んでくれたわたしの感情こころは、次第に自分でも抑えきれないほど膨らんでいった。そしていつしかユエル様に対して「求める」ようになってしまった。

 ――どうしてわたしだったのですか。

 その問いの答えを得たかった。どうしてわたしを眷族にしたのか、その答えを……理由を知りたかった。

 でも、わたしがユエル様の口から聞きたかった事は、「理由」なんかじゃなかった。

 わたしが欲しかったのは……――


「ミズカ」

 ユエル様がわたしを呼ぶ。

 耳元で囁きかけるような、優しいユエル様の声。

 空耳かもしれない。

 でも、目を覚まさなくちゃ。

 ユエル様がわたしの名を呼んでくれるのだから。


 ――ユエル様に会いたいから。


 はやく目覚めなきゃと焦るのに、体がそれに応じてくれない。

 目覚めは、ひどく緩慢なものになった。


 意識がまだぼんやりとしてる。

 瞼の向こうが明るい。それにほんのりと甘い香りがする。花の芳香……きっと薔薇の花。芳香剤なんかじゃない生花の匂い。微かに鼻腔をくすぐってきて、それがわたしの目覚めを促してくれた。

「…………」

 重たい瞼を持ち上げる。すぐには開ききらなくて何度か瞬きをしてみる。

 明るいな……もうお昼なのかもしれない。それともお昼過ぎ……?

 思考の巡りが遅くて、いま、自分がどういう状況にいるのか把握できない。

 目を閉じて深呼吸をしてみた。そしてまた目をあけてみる。さっきより視界がクリアになった。

「……ミズカ」

 途端、視界に入ってきたのは眉目秀麗な顔。優しい深緑色の双眸。光を透かしたしなやかな銀の髪。

 ……――ユエル様。

「……エ、ルさ……」

 まだ夢うつつという感じで、体の感覚も鈍い。声も掠れて音にならない。

「ミズカ、私が分かるね?」

「…………」

 わたしがこくりと小さく頷くと、ユエル様はホッとしたように微笑み、わたしの頬に手を添えた。いつものように少し冷たいユエル様の手の感触が懐かしく、心地いい。

 ぼんやりしてた頭も少しずつクリアになっていく。

 わたしが横たわってるベッドはセミダブルサイズのベッドで、今まで過ごしていた屋敷のものではなかった。天井にも天井扇シーリングファンにも見憶えがない。もちろん壁や調度品にも。広々とした寝室で、フットベンチの付きのセミダブルのベッドが二台。その片方のベッドにわたしが横たわっている。

 隣のベッドはベッドメイクされたままで使われた形跡がなく、カーキ色のベッドスローがきちんと掛けられている。

 ここは、どこだろう……?

 もう一度あたりを確かめて見る。

 白とベージュを基調としたシンプルなデザインの洋室だ。セミダブルのベッドが二台並んでいてもまだ余裕のある広い寝室。ベランダに通じる大きな掃き出し窓の向こうでは幾重にも重なる緑葉が光を零していた。自然光だけで十分に室内が明るいから、やはり正午頃なのかもしれない。

 横になったまま首を巡らせる。

 寝室から繋がってる部屋があるようだった。ドアはない。ここからでは見えないけれど、リビングだろうか。

 ホテルの客室……しかもスイートルーム、のような気がした。

 ベッドサイドのテーブルには透明なガラスピッチャーとグラスが置かれていた。ガラス製の花瓶もあって、そこには淡いサーモンピンクの薔薇が活けてあった。二十本か三十本か、同じ種類の薔薇だけが活けてある。

 きれいな薔薇……。甘い香りの元はこの薔薇だったんだ。

 そんなことを考えていると、ユエル様の手が頬から首へと移動して、わたしはハッとしてユエル様の方に目を向け直した。ユエル様は気遣わしげにわたしを見つめている。

「……渇いてる?」

 囁くように問いかけられて、わたしはちょっと肩を竦ませた。ユエル様の声とまなざしに、胸がきゅっと締めつけられる。触れられている場所に熱が集まってくるみたい。首筋にあてられたユエル様の手から生気は伝わってこない。けれど生気が足りているかどうか探っているようだった。

「……ユ、エルさ、ま……」

 大丈夫です。それを言葉で伝えたかったけれど、うまく舌が動かない。口の中が渇いていた。寝起きのせいもある。だけど、胸がドキドキし始めて息苦しいせいもあった。

 ユエル様はわたしの首から手を離すと、その手をわたしの背後にまわし、上半身を起こすよう、促してくれた。ユエル様の腕に支えられながら体を起こす。少し倦怠感はあったけれど、体のどこも痛くない。

 改めて、わたしは今どういう状況にあるんだろうって、疑問が湧いてきた。

 わたしはノースリーブのナイティーを着ていて、もうあの汚れて破れてしまったドレス姿じゃなかった。

 ここはどこで、あの後どうなったんだろう。亜矢子さんは? アリアさんもイスラさんもイレクくんも、どこにいて、どうしているんだろう。

 何から問えばいいのか。思考がまとまらない。訊いてもいいんだろうかって怖れもあった。

「あの、ユエル様……」

「楽にして、ミズカ。それから」

 楽な姿勢をとれるよう、円筒型の大きなクッションを背後にあてがわれた。

「飲んで。喉、渇いているだろう?」

「…………」

 ユエル様に差し出されたグラスを受け取った。言われるままグラスを傾けると、口内にスウッと爽やかなレモンの味がひろがった。冷たくて美味しい。一息にそれを飲み干した。

 ユエル様は安堵のため息をつき、それからベッドの端に腰かけた。

 もう一度、ユエル様に声をかけようとし、けれどそれは突然飛び込んできた明るい声に遮られてしまった。

「ミズカちゃん!」

 その声とともに、隣室からアリアさんが駆けこんできた。

「よかった、目が覚めたのね!」

 アリアさんはユエル様が座ってる場所とは反対側にまわり、ほとんど身を投げ出すような格好でベッドに腰をおろしてわたしをぎゅぅっと抱きしめた。

「ああ、良かった。本当に良かったわ、ミズカちゃん!」

 アリアさんは嬉しげに声をあげ、わたしを強く抱きしめてくる。

「もう三日も眠ったままだったから心配してたのよ」

「えっ」

 さすがに驚いて顔を上げ、聞き返した。

 三日間も、わたしは眠りっぱなしだったの?

「ええ、そうよ。ユエルがつきっきりで診てたから不安はなかったけど……でもやっぱり心配は心配で。……どう、ミズカちゃん? 気分は悪くない? どこも痛くない?」

「は、はい、あの、もう大丈夫です、えっと……心配をおかけして」

「いいのよ、もう、謝ったりしないで? ミズカちゃんが無事ならそれでいいの。ね、だから気に病んじゃダメよ?」

 アリアさんは再びわたしを抱きしめる。

 アリアさんの豊満な胸に顔を埋める格好になり、あたたかくてやわらかな感触にホッとはするんだけど、あんまりぎゅぅっと抱きしめてくるものだから、ちょっと息苦しくなってしまう。でもおかげで、目は覚めた。

 もがいてるわたしに気づいて、ユエル様がアリアさんにわたしを離すよう声をかけてくれた。アリアさんはおどけたみたいに両手をパッとあげて、わたしの体を離してくれた。

「あら、嬉しくってつい。あたしばっかりミズカちゃんを独占しちゃったわね。ミズカちゃん、ごめんなさいね? 平気?」

「は、はい……あの、アリアさん」

「なぁに?」

 アリアさんは小首を傾げる。澄んだ青の双眸がじっとわたしを見、優しく微笑みかけてくる。心配そうな色はそこにはない。台風の後の青空みたいな明るい笑顔だった。

 色々訊きたいこと、確認したいことがある。

 ユエル様に尋ねるべきなのだと思うけれど、アリアさんに訊いた方がいいかもしれない。ユエル様にあれこれと説明させるのは気が引けた。アリアさんならいいってわけではないけれど……

 わたしはとまどいがちにユエル様を一瞥し、そしてまたアリアさんに視線を戻し、一息ついてから尋ねた。

「ここはどこなんでしょう? それと、あの……あの後どうなったのか……亜矢子さんは……」

 わたしの質問に、アリアさんは大きな青い瞳を瞬かせた。

「ユエル? あたしが説明しちゃっていい?」

 アリアさんはまずユエル様に確認をとった。わたしを挟んで反対側にいるユエル様はベッドの端に座ったまま無言で頷いた。

 アリアさんは「そうねぇ……」と人差し指を顎に当てて、しばし思案顔になった。どこからどう話そうか考えているようだった。

 ややあってから、アリアさんはまずわたし達が今いる場所について教えてくれた。考えていた通りホテルのスイートルームで、アリアさんとイスラさん親子も同じホテルにいるとのこと。

 驚いたのは、いまわたし達が滞在してるホテルの場所が亜矢子さんのホテルからそれほど遠くないということだった。車で一時間もかからない所だという。

 不安がるわたしに気づき、アリアさんは微笑んで言った。

「安心して。桜町系列のホテルじゃないから。それにあたし達別に探されたり追われたりしてないもの」

「でも、亜矢子さんは……亜矢子さん、無事でいるんですか?」

 亜矢子さんの安否を問うと、アリアさんは笑って答えた。

「大丈夫よ。まぁそうねぇ……ドレスはダメになっちゃったでしょうし、髪なんかはひどいことになってるでしょうけど、命に関わるほどの火傷は負ってないわ。どこかいい病院にでもかかってるでしょう。すぐに人は呼んでおいたから。ああ、でも、拳銃もほったらかしにしてきちゃったわね。でもまぁ、そこまであたし達が始末をつけてあげる必要はないわよね」

 これで少しは懲りるといいんだけど、どうかしらねと、アリアさんはちょっと肩を竦めてみせた。

 ちなみに、パーティー客や宿泊客の「アフターケア」も万全よと、アリアさんは話を続けた。

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