53.暗がりの焦燥
――眷族にしてやってもいい。
ユエル様の声が頭の中で繰り返される。
それはひどく嘲笑的な声ではあったけれど。
ユエル様の言葉がこんなに辛く胸に突き刺さってくるなんて。
足元が崩れ、何もかもが壊れてしまいそうな、ユエル様の一言。
眷族に……亜矢子さんを眷族に? ユエル様、本気なの? 本気で亜矢子さんを眷族に?
頬にあてた自分の手がひどく冷たい。血がこごったみたいに。けれど、手の冷たさよりも、ユエル様の言葉の方がわたしの心を凍えさせる。
「驚きましたわ」
亜矢子さんの声もやはり嘲笑まじりだった。
「あっさりと引きうけてくださいますねの? もっとごねて、突っぱねると思っていましたのに」
「断らせるつもりなどなかったろうに、言うものだな」
「脅し甲斐がなくて残念ですわ。つまりユエル様には断る利用などないということかしら? まぁ、あんなみすぼらしい子が眷族じゃぁそれも」
「眷族とは」
ぴしゃりと鋭く、ユエル様は亜矢子さんの言葉を遮った。
「眷族がどういうものなのか、説明しようか」
ユエル様の淡々とした声は、まるで夜風のようだ。静かだけれど、梢をゆらすざわめきが不安を起こさせる。
もう、聞いていられない。
わたしはのろのろと踵を返した。足が、体がうまく動いてくれない。一刻も早くここから立ち去りたいのに。
「……っ」
足がもつれて、あがらない。そのせいで何かに蹴躓いて、転んでしまった。と、同時だった。
明りが、消えた。庭園の外灯が一斉に消え、突如、夜闇が降りかかってくる。
「…………」
え、なに? 停電……?
その場に膝をつき、四つん這いに近い状態の格好であたりを見回す。無意識のうちに息をひそめていた。
真っ暗闇になったわけではないけれど、突然明りを落とされて、目が暗がりになれるまで少し時間が要った。何度か瞬きをして、やっと暗さに目が慣れ、どうやら外灯だけでなくホテル……建物だけでなく敷地全体が停電になったらしいことがわかった。背後をわずかに明るくしていた建物から微かに届いていた明りもなくなって、木々の合間にあるのは墨で刷いたような夜の闇。
噴水の音も止まっていた。風が木々の隙間を渡っていく葉擦れの音がひどく耳につく。
闇に乗じてこの場から離れよう。……なんてすぐには思いつかず、その場に縛りつけられたかのようにその場で体を硬くしていた。
戸惑っているうちに明りが戻った。時間にしておそらく二、三分もなかったろう。停電はほんとうに僅かの事だった。
けれど、その僅かの時間にわたしはこの場から離れるどころか、拘束される羽目になってしまった。己の意思ではなく。
「……っ」
背後から誰かに口を塞がれ、声をあげる間もなく、掬いあげられるようにして立たされた。
抗ってもがけたのは、一瞬。足は、半ば浮くようにして土を蹴っていた。けれどそれもすぐにできなくなった。
明りが戻ったのと同時に噴水の水が再びあがり、さらさらと水音をたてている。さきほどと変わらぬ池の様相。あたりは騒ぎもなく、夜風が樹林をそよがせる。
そんな中、わたしの状況は一変していた。
立ち去ることもできず、捕らわれの身になったわたしを一瞥するや、亜矢子さんは鼻先で嘲笑った。
「盗撮を悪趣味だとユエル様は仰いましたけど、それに劣らず、盗み聞きも卑しい行為とお思いになりません?」
最悪の状況を作ってしまった。
わたしはもう口を塞がれてはいなかったけれど、自分の愚かさに言葉を失い、唇を噛むよりなかった。居たたまれない。いますぐ消えてしまいたい……!
亜矢子さんが侮蔑しきった目でわたしを見る。
「こんなところにまで出張って、まったく厚かましいったら」
「…………」
返す言葉などありはしなかった。恥ずかしくて目の前が真っ暗になる。
ユエル様も、きっと同じように思ってるに違いない。
それなのに……一瞬でもユエル様に「助けてほしい」と願ってしまった。助けてくれると、淡い期待を抱いてしまった。なんて愚かなんだろう、わたしは。いつもいつも、ユエル様を困らせてばかりで……!
亜矢子さんとユエル様は向かい合ったまま。亜矢子さんとの距離を縮めず、池の辺に立っている。ユエル様は動じた様子を見せなかったけれど、一歩だけ足を前に踏み出し、けれどそこで留まった。
「……ミズカ」
ユエル様が低い声でわたしの名を口にした。責めているのか呆れているのか、外灯の明りだけではユエル様の表情は窺えない。
ごめんなさい、ユエル様……。
心の中で謝罪をするのが精いっぱい。ユエル様に顔向けできず、俯いた。
亜矢子さんの横にわたしは立たされている。大柄の男性に背後から拘束され、身動きが取れない。わたしを捕らえ、亜矢子さんの元に引きずりだした男性は警備員の服を着用しているけれど、もしかしたら亜矢子さん個人につけられた用心棒のような人なのかもしれない。亜矢子さんの「命令」を声に出されなくても了解しているような雰囲気があった。
わたしは両腕を後ろに回され、肩を押さえつけられるようにして掴まれ、足はほとんどつま先立ちの状態だ。抵抗できようもないほどきつく拘束されている。
――息が、苦しい。転んだせいもあるけれど、体のそこかしこがズキズキ痛む。
「とんだ邪魔が入りましたけれど、前言を撤回などなさいませんわよね、ユエル様? 私を眷族にすると、この子の前でもう一度仰っていただけますかしら?」
「…………」
ユエル様は腕を組み、口を噤んだ。――否、とは言わない。
「ユエル様がお望みなら、この子は今まで通り使用人として傍に侍らせておいてもよろしくてよ? そのくらいは許容しますわ」
亜矢子さんは傲然と言い放った。その直後――ユエル様はクッと喉を震わせてせせら笑った。
「眷族にしてやってもいい。それほど死に急ぎたいのなら」
ユエル様は組んでいた腕をほどき、亜矢子さんに向かって歩を進め、またすぐに足を止めた。亜矢子さんを焦らすようにゆるゆる距離を縮め、留まる。
風が、かすかにユエル様の銀髪を揺らした。凍えた月のような白皙の面貌。緑の双眸が闇に光った。炎のように揺れる緑の瞳は星の瞬きにも似ている。
亜矢子さんは気圧されるようにして後退り、けれどなんとか踏みとどまって虚勢を張る。自分の方が優位に立っているはずなのにという焦りが、亜矢子さんの目尻を鋭く吊りあがらせた。
「死に急ぐとは、どういう意味ですの?」
「そのままの意味だが? 盗聴したにしては、まったく疎漏もいいところだ。都合の良いところだけを聞きかじっただけなのだろう。何にしてもお粗末すぎて話にならない」
「……な、なにを……」
「眷族がどういうものか、説明しようか」
それは、停電前にユエル様が言った言葉だった。薄く笑い、ユエル様は語を継ぐ。
「吸血鬼の眷族は吸血鬼の生気がなければ生きていけない。人間から直接生気を吸うこともできず、不老不死どころか、主となった吸血鬼から生気を得られなければ、そう……早ければ一週間ともたず、乾いて飢え死ぬ」
「……っ」
亜矢子さんは絶句した。
その反応から、亜矢子さんが眷族のことをしっかりとは把握してないことが、容易に察せられた。
「眷族にしてやってもいい。ただし私の生気は一滴たりとも与えない。ミズカ以外の何人にも、私の生気に、肌にも髪一筋にも、触れさせはしない。むろん眷族と名乗らせもしない。……それでもなお望むのなら、本意ではないが、手を下してやろう」
――どうする。それでも眷族になりたいか。
ユエル様が脅しをかける。酷薄な笑みが口元に浮かんで、冷やかな声が吐き出される。
「いや、眷族とは言えまい。吸血鬼の餌にもなれない。ただ乾いて死ぬだけの滑稽なモノにしてやろう」
冗談を言ってる目じゃない。ユエル様、本気で……怒ってる……?
こんなユエル様……知らない。
イスラさんに対して怒ってるときだって、こんな怒り方はしなかった。イスラさんにぶつける苛立ちや怒りにはどこか緩さがあって、突き放しきる冷酷さなんて感じなかった。じゃれあってるみたいで、ハラハラもしたけれど、結局は信頼し合った関係なんだなって感じられた。
けれど今、亜矢子さんに対峙しているユエル様にはひとかけらの容赦もなく、敵意……ううん、殺意すら感じる。
亜矢子さんのユエル様への失礼すぎるほどの欲求に、ユエル様が憤るのはもっともなことだと思う。……思うけれど、これ程までに憤りを露わにするなんて……。
戸惑うあまり、わたしを拘束してる腕が僅かに緩んだのに気づきつつも、そこから逃げ出す行動に移せなかった。ユエル様の怒りに呼応して空気が圧縮し、わたしもまた圧されていた。
ユエル様がゆっくりと右腕を伸ばす。ひどく緩慢な動きだった。鳥肌が立つ。ユエル様の微笑が凍りつくほど美しくて、おそろしい。
じりじりと迫るユエル様に亜矢子さんは再び後退りかけ、けれど引かず、持っていたビデオカメラを投げ捨てた。そしてやにわにドレスの裾をたくしあげて大腿に手をかけ、そこに装着していた拳銃を抜き、ユエル様に向かって構えた。おどろくほど迅速な行動だった。
亜矢子さんは金切り声をあげた。
「近寄らないで!」