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50.溢れ、濫れて

 イスラさんは慈悲を垂れるような、優しく、気遣わしげなまなざしをわたしに向けている。そして、言った。

「あのお嬢さんの言った通りだよね、ミズカちゃん? そろそろ自分の気持ちをちゃんと認めた方がいいよ」

「ち、ちが……っ、わたしは、そんなっ」

「違う? 違うって言いきれるの、ミズカちゃん?」

「……っ」

「まぁ、たしかにあのお嬢さんが言ったことは全部が正しいわけじゃない。不相応だとか不釣り合いだとかは、あのお嬢さんの勝手な意見だ。そこは気にしなくていい。ユエルも、俺達みんな、そんなことは思ってないから」

「そんな、わたしは、……だって、わたしは」

「ユエルを、好きなんだろう?」

「…………」

 ぐっと、声を呑みこんだ。

 イスラさんのその一言が胸にズンと響いた。

「ミズカちゃんを見てれば分かるよ。どんなにユエルを好きか。恋しくて、苦しいって目をして」

「わ、わたしはただ……ただ眷族として、それだけ、で」

 言いながら、けれど無様な程に声が震えた。喉が締めつけられて、苦しくて、息ができない。指先から血の気がひいていく。

 イスラさんは穏やかに笑ってため息をついた。

「もう、ごまかさなくていいよ。そうやって自分をごまかしきるのも限界だろ? そうやって自分をごまかし続けるのはミズカちゃんのためにもならないし、ユエルにも苦しい思いをさせてる。認めてあげなよ、自分の心をさ」

「……っ」

 耐えきれず、涙が零れ落ちた。止めようと思えば思うほど胸が締めつけられて、涙が後から後から溢れ、濫みだれて落ちる。

 どうして、はっきりと「違う」と言えないの。否定できないの?

 わたしは、……ユエル様を、……――

「ミズカちゃん……」

 気の毒がるような、慰めるような、そんなイスラさんの声音が、胸を抉ってくるようで、辛かった。

 たまらず、イスラさんから顔を背けた。

「ご、ごめんなさ、……わた、し……っ」

 そして踵を返し、ガラス戸を開けて外へ飛び出した。


 息が、乱れる。脇腹が痛い。全身が悲鳴を上げていた。

 走って、走って、闇雲に走って、庭の奥へ逃げ込んでいった。パーティー会場の喧騒を背に、賑わいから遠ざかっていく。

 視界が滲んで、前がよく見えない。ただでさえ夜闇が落ちて薄暗い庭を、我を忘れて走った。走り続けた。


 心を偽らないで。

 そう言ったのは、イレクくんだった。

 アリアさんも、心を縛りつけたままでは苦しいばかりでしょう、と、気の毒がるように、そう言った。

 イレクくんもアリアさんも、イスラさんと同じ目をしてわたしを見ていた。

 わたしの気持ちを見透かして、そうして憐憫のまなざしをわたしに向けていた。

 何のことか、何を言わんとしてるのか、言われた時ははっきりとは分からなかった。

 ううん。違う。本当は……心の奥底では、分かってた。分かってて、分からぬふりを決め込んだんだ。認めるのが怖かったから。

 ――ユエル様のこと、好きで好きでたまらないくせに!

 亜矢子さんの声が脳裏でこだまする。繰り返し繰り返し、強く。

 消そうとしても消せなくて、その言葉がわたしをとらえて離さない。


「……っ、きゃ……っ」

 前方不注意になって、つんのめった。ガッと鈍い音がし、その場に膝を打ちつけて倒れ、四つん這いの格好になった。

「い、た……」

 膝をしたたか打ちつけてしまった。

 どうやら石畳の隙間に靴の踵を挟んで、それに足をとられてしまったみたい。転んだ時に両手もついて、ジンジンと痛む。

 腰を落として、その場に座り込んだ。体中から力が抜けて、立てない。

 とめどもなく涙が零れて、膝の上に落ちる。

 痛みよりも、胸をひしめかせてくる想いの方がずっと辛くて、苦しい。

「……う、……っ」

 嗚咽が漏れる。俯き、スカートの裾を掴んだ。

 蒼白い庭園の外灯の下、へたりこんで、泣いた。石畳が体を冷やしてくる。けれど、その感覚も今は遠い。

 ふと、目に映った水色。それは、外灯の明りと夜の影を映している、水色のドレスだ。やや空気を含んで、ふわりと丸く広がっているサテン地のドレスが、涙と土埃で、汚れてしまっていた。

 今夜のためのパーティードレス。

 立って、土埃を払い落さなくちゃ。これ以上、汚しちゃいけない。

 せっかくアリアさんが着つけてくれたのに。それに、このドレスはユエル様がわたしのために用意してくださったものだ。

 ユエル様、が。……――

「……っ」

 ユエル様を想うだけで、こんなにも、胸が締めつけられる。震える。

 こんな痛み……知らなかった。初めてなんだもの。分からない。分からなかった、この想いが、何か、なんて。

 それを、こんな時に、こんな風に思い知らされるなんて。

 ――恋。

 そう。これが、恋なんだ。

 亜矢子さんの言うとおり、イスラさんが言ったように、否定しようもない。

 わたし、……ユエル様に恋をしてる。好きで、恋しくて、どうしようもないくらいに恋焦がれている……!

 どうしよう、どうしたらいいんだろう。この想いは、不相応な感情だ。こんな想いを抱いちゃいけないのに。

 でも、どうしたらいいの。こんなにも溢れて、零れて、もう止められない。

 痛む膝を片手で押さえ、立ちあがった。スカートの裾についた土埃を払い、足を伸ばした。

 ずきずきと、膝が痛む。どうやら擦むいてしまったらしい。もう一度膝に手をあてると、ねっとりとした何かが手のひらについた。手のひらを見ると、僅かだけど、血がついていた。

 ――血。

 薄闇の中でも朱色と分かる、この血。

 これは、ユエル様のものだ。ユエル様がわたしに与えてくれた、命。

 わたしのすべてはユエル様のものだ。わたしはユエル様がいなければ存在することさえできない。

 それでもいいって、思ってた。ユエル様がわたしのすべてだから。

 だけど、どうしてって疑問はあった。どうしてわたしを眷族にしたのかと。

 ……簡単な理由なんだろう。わたしが期待するような、何かはなく。

 ユエル様は優しい方だから。

 わたしに身寄りがない孤児だと知って、憐れに思ったんだろう。だから「命の恩人」であるわたしを、恩返しの意味を含めて、眷族にしてくれたんだろう。そうして衣食住を与えてくれた。

 きっと、ただそれだけのことだったんだ。

 なのに、わたしは何かを期待してた。

 何か。……何かを、ユエル様に求めてた。

 それがまさか、恋、だったなんて。

 なんて大それた想いを抱いてしまったんだろう。

 そのうえ、それを知られてしまうなんて。

 亜矢子さんだけじゃない。出逢って間もないイスラさんやアリアさん、イレクくんにすら、気持ちを悟られてしまった。聡いユエル様が、気付かないはずがない。

 ユエル様はとうに気がついてて、それでも気付かぬふりをしてくれてるんだ。

 たぶんこれからも、ユエル様はわたしを疎んじて、突き放すようなことはしない。

 優しい方なのだ。とてもとても、わたしが勘違いをしてしまうほどに、ユエル様は優しい。

 ――どうしよう。

 わたしはこのまま、今まで通り、ユエル様の傍にいていいの?

 今までのようにユエル様に仕えられる? この気持ちを……すっかり知られてしまっているこの気持ちを押し隠して……? 気付かなかったふりをして、ユエル様の傍にいられるの?

 わたしは半ばぼう然としながら、歩きだした。

 どこへ向かうのか我知らぬままに、ただただ、足を動かして、石畳を辿って行った。踏みしめるたびに怪我をした膝が痛んだけれど、足よりも、心の方がずっと重かった。

 思考が堂々巡りして、夜の暗がりよりもっと暗い方へと沈んでいく。肌にあたる夜風の冷たさも、心を凍らせていく。涙を拭うのも忘れていた。

 目頭と頬だけが、ひどく熱かった。


 亜矢子さんは、何もかも知っているのかもしれない。

 ユエル様の……わたし達の正体を。吸血鬼であるということを。

 ユエル様も……?

 ユエル様もそれを察知してて、それで心を決したのかもしれない。亜矢子さんを眷族にしようと。真の意味での"眷族"に。

 だってイスラさんが言ってた。ユエル様の生殖者としての期限が差し迫ってるって。

 だからユエル様は亜矢子さんの招待に応じたんだろう。期限が近付いているから。早く子を成さねばならないから。

 わたしの勝手な憶測にすぎないけれど、そうに違いない。そうでなければ、億劫がってパーティーに出向いたりしない。

 ……わたしは、本当の意味での眷族ではなかった。

 今の今まで、何も知らされてこなかったのだもの。生殖者のことも、眷族の意味も知らず、ただユエル様の傍に居させてもらってるだけだった。

 ユエル様が眷族の真の意味をずっとわたしに話さずにいたのは……つまりそういうこと、なんだ……。わたしではユエル様の眷族にはなりえない。だから教える必要もないと、何も話さずにきたんだ。わたしが無理に訊いたから話してくれただけにすぎなくて……。

「……っ」

 認めなくちゃって思うのに、それを拒むように、涙がこみ上げてくる。

 ユエル様の傍にいられればそれでいいって思ってた。だけど、……本当に? 本当にそれだけでいいって、思えるの? これから、ユエル様の隣に並ぶ亜矢子さんを見ていかなければならないのに。

 ――どうしよう。わたし、これからいったいどうすればいいんだろう。

 わたしは、いったい……どうしたいの?


「それで、どうしようというのかな」

 突然聞こえてきたその声に、わたしはぎくりとして顔を上げた。

 前方から、その声は聞こえてきた。凛としてよく通る男性の声。聞き馴染みのある声だった。

 石畳の敷かれた小路は、池のある庭園へと続いていたらしい。視界が、少し開けた。外灯も増えていて、池の周りに植えられた紅のモミジを幻想的に照らし出していた。

 ――誰か、いる。

 わたしは咄嗟に木の幹に体を寄せ、身を隠した。

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