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5.生殖者

 わたしの脳内は「一足す一は?」と訊かれたら、「三ですか」と答えそうなくらいのパニックに陥っていた。

 だって! 生殖者についての説明もいまひとつ呑み込めていない体たらくなのに、ユエル様がその“生殖者”だなんて!

 そりゃぁ、今までの説明を聞くからにして、たしかにユエル様はわたしという“眷族”を持っていて、それはつまり“生殖者”ってことなんだろうけど……!

 イスラさんは呆れたようにユエル様を見やった。

「なんだよ、おまえ、それすら話してなかったのか?」

「…………」

「なんだ、じゃぁ、ミズカちゃんは違うのか? 眷族にしておきながら?」

「……煩い、イスラ」

 凍りつくほどの冷ややかな声が、ユエル様の口から発せられた。けれどイスラさんはまったく動じない。

「酔狂でか? だとしたら、ずいぶんと悪辣な――」

「煩い、黙れ」

「イスラ、言葉が過ぎるわよ。だいたいユエルが――って、ユエル?」

 ユエル様は堪りかねたように立ち上がると、そのまま何も言わず、リビングから出て行ってしまった。リビングのドアは開け放たれたまま、そこから生ぬるいのか冷たいのか、どちらともつかない風が忍び込んでくる。

「ユッ、ユエル様っ!?」

 わたしは慌てて立ち上がったものの、足がすぐに動かず、もたついてしまった。。

「あーらら。怒らせちゃった。ああなると怖いっていうか面倒よぅ、、ユエルは」

 アリアさんは肩を竦め、大きなため息をついた。けれど言葉以上には困ったよう様子でもなくて、揶揄めいた微笑が口元を緩ませていた。

「知るか。自分が悪いんだろ? あいつの我儘は今に始まったことじゃないし」

 イスラさんは吐き捨てるようにそう言ったけれど、アリアさんと同じように、別段気にするでもなく、「いつものこと」くらいに思っているみたいだ。

「父さんも悪いよ。神経を逆なでするようなことを言うから」

 自分の父親が原因で、初対面のユエル様が機嫌を損ねてしまったことに、イレクくんは少々困っているようだ。

 そしてわたしはというと――、

「あのわたしっ、ちょっと様子、見てきますっ!」

 やっぱりユエル様を放ってなどおけなくて、急いで後を追ったのだ。




 二階へ上がっていく階段のその途中で、ユエル様をつかまえた。「ユエル様!」と声をかけたのに、ユエル様は足を止めてはくれなかった。

 階段を駆け上り、腕を伸ばした。

 とっさに上着の裾をつかんで、その拍子にユエル様の上体がぐらつき傾いだ。ユエル様はようやく足を止め、こちらに振り返ってくれた。

「すっ、すみませんっ」

 怒られるかと思った。「まったく乱暴な。私を突き落とすつもりか?」って。

 でもユエル様は一瞬険しい顔をしたものの、わたしを叱ったりはしなかった。それどころか――、

「ミズカ」

 ふと緑の双眸を細めて、わたしを見つめ、そしてわたしの首筋に手を当てた。

 突然のことで驚いたのと、ユエル様の手が冷たかったのとで、思わず肩を竦ませた。

「さっきは、大丈夫だったか?」

「え?」

 わたしを見つめるユエル様の瞳の緑が、いつもより濃く、深い。

「怪我はない? イスラに、生気を飲まれてはいまいね?」

「は、はい。大丈夫です。すみません、お騒がせしてしまって……」

「騒ぎを起こしたのはイスラだ。ミズカが謝ることではないよ」

「……あの、ユエル様」

 手が、離れた。ユエル様の冷たい手の感触だけが、触れられていたそこに残った。

「大丈夫ならいい。……私は少し休む。しばらく一人に」

「ユエル様」

 わたしはユエル様の上着を掴んだまま離さず、必死になって取り縋った。

「ユエル様、眷族っていったい何なんですか? 教えてください」

「…………」

 眉を曇らせ、ユエル様はわたしから視線を逸らす。

「……アリアにでも、聞けばいい」

「嫌です。ユエル様の口から聞きたいんです」

「ミズカ」

「だって、わたしはユエル様の眷族なのでしょう? それなら、ユエル様の口から教えてもらいたいんです」

 わがままを言ってるって、自分でもわかってる。

 でも、どうしてもユエル様の口から聞きたい。だって、とても重要な事だと思うから。

「たぶん……ですけど、ユエル様から聞かなかったら、きっと……後悔すると思うんです」

「ミズカ……」

「ユエル様だって、さっきはご自分から話そうとしてらしたじゃないですか。だからきっとユエル様も後悔します。自分が話すべきだったって」

 ユエル様はわたしの手を取った。その手は、やっぱりまだ冷たい。

「…………」

 そして、無言のまま苦笑した。

「ユエル様」

「わかった、話そう」

 もう一度、今度は深くため息をつき、ユエル様は観念したかのように微笑した。

 ユエル様の秀麗な顔にもう険しさはない。ただ、少し硬い。

「眷族というのはね、ミズカ」

 わたしの手を離して踵を返し、ユエル様は再び階段を登り始めた。わたしはその後を追う。

 ユエル様は歩きながら語った。いつになく淡々とした口調で、こちらを見もせず。

「端的に言うと、生殖者の子を宿すための存在なんだよ」

「え……?」

「人間は、そのままの状態では我々の子は成せない。姿形は似ていても、やはり私達は人間ではないからね。異種間の婚姻というものは、それなりのリスクを負うものだよ。――最悪の場合、死んでしまう」

「…………」

「しかし、私達が子孫を残すためにはやはりどうしても人間が必要になってくる。いや、こうして生存していくだけでも人間は必要なのだが、ともかく、それとは別に人間が必要になってくるんだよ。むろん同族間で生殖者が見つかればそれにこしたことはないが、その可能性は低い。イスラが言ったように」

 ふ、と息をついたユエル様の表情は、ここからは窺えない。わたしはただひたすらにユエル様の背中を見つめ、追い続けている。

 階段を登りきってもユエル様はこちらを振り返り見てはくれない。

「結局、“生殖”には人間の力を借りる方が手っ取り早い。だからそうするために、人間にこちらの生気を与えて、私達により近い存在にする。私達“吸血鬼”の子を成すための存在、……それが、“眷族”だ」

 子を成すための存在……それが“眷族”?

 それじゃぁ、ユエル様の眷族のわたしは、……――

 ユエル様が私室の前で立ち止まるより前に、わたしは歩みを止めていた。思考も停止した。

 ユエル様は振り返ってわたしを見、

「必ずしも、そうしなければならない、というわけではないんだよ、ミズカ」

 宥めるような口調でそう言った。

「眷族は、子を成すためだけ《・・》の存在ではない」

「……」

 何かを訊き返そうとして、けれどその「何か」が喉の奥に引っかかって声にならない。

 わたしとユエル様の間には、わたしの歩数で計るなら三歩分くらいの距離がある。狭いような、それでいて、ひどく遠く感じるその距離。

 たった一歩を踏み出せずにいて、ゆえに、距離は縮まらない。

 ユエル様は微笑んでいる。けれど、無理に作ったみたいな、不自然な笑みだった。

「眷族は我々の“道具”ではない。自分の意思があるだろう?」

「でも、あの、ユエル様……」

「あまり深く考えなくてもいい」

「でっ、でもっ」

 思わず声が上擦ってしまう。

 周章し、心臓がどきどきと高鳴っている。

「……そういうことだ。わかったね?」

 ユエル様はわたしから目を逸らし、疲れたように言った。

「すまないが、ミズカ。しばらく、ひとりに」

「ユエル様!」

 わたしが止めるのもきかず、ユエル様は断ちきるようにそう言って、寝室に入ってしまった。

「ユエル様……」

 鍵などないから入ろうと思えばたやすく扉は開けられる。

 けど、できなかった。

 ユエル様の無言の拒絶は、わたしにはあまりに重い枷だった。




* * *



 ――あの日。

 季節は憶えていない。少し寒かった。満月が中天にあって、月明かりの美しい夜だった。

 バルコニーにひとり佇んで、夜空を眺めている人を見つけた。

 呼ばれたのか、探していたのか、その記憶も曖昧だった。

 ただ、その人を見つけてホッとしたのと同時に、寂しげなその佇まいに胸が痛くなった。

 銀の髪が夜風に揺れていた。月光を受けて光るそれは、まるで天使の羽根のようだと思った。

 息を呑んで見惚れてしまうほど、鮮麗な、その人。わたしの雇い主の、ユエル様――

 わたしに気がついて、ユエル様は髪を梳きあげながら、ゆっくりと振り返った。

 ユエル様は微笑んでわたしの名を呼び、白い手をわたしに向けて伸ばした。

「ミズカ」

 切なげな甘い声がわたしを促す。もっと近くにと緑色の目で請われ、わたしはおそるおそる近づいた。差し伸べられた手を、どうしてか、取ってしまった。

 わたしのような者が触れていいはずないのに。

 こうして近づくことすらおこがましいというのに。

 ユエル様はまじろぎもせず、わたしの手を握ったまま、緑色の双眸のわたしを映している。

「ミズカ、聞いてほしい」

「……はい」

 ユエル様の指先の冷たさが、皮膚を破って浸透してくるようだった。

 怖い……のではない。でも何か……異質な何かをユエル様に感じた。

 目を逸らせない。鼓動が早まる。

「なんでしょう、ユエル様?」

 なんとか平静を装って、尋ねた。

 ユエル様はわずかに眉をひそめ、一瞬ためらった後に、告げた。

「これからも、ずっと、傍にいてもらいたい。……遥かな道程を、私と共に」

 漠然とした、その言葉。

「ミズカに…………ついて来てもらいたい」

「……」

 ユエル様の真摯なまなざしを受け止めるのが苦しかった。喉の奥が痛んで、胸が張り裂けそうだった。

 鼓動の高鳴りがユエル様に聞こえてしまっているのではないかしらと思う程、辺りは静かで、風の音すらしない。

 それは、どういう意味なんですか、ユエル様……?

 ――“傍にいてもらいたい”だなんて……

「…………」

 うっかり抱いた愚かな期待をユエル様に否定されるのが怖くて、訊き返せなかった。

 僅かに残っていた冷静さを取り出して、胸に咲いた期待をさっさと打ち消したわたしは、言葉の上っ面だけをそのままなぞり、「出かけるので、随従せよ」と言っているのだと勝手に解釈して、自分を納得させた。

「はい、お供いたします」

 わたしは答えた。それ以外の言葉なんて浮かばなかった。

 そう答えるのが最良なのかは分からなかったけれど、「お供します」という気持ちに偽りはなかった。だけど……――

 わたしの返答を受け、ユエル様は少し困ったような諦めたかのような……安堵したような、複雑な微笑を浮かべた。

 ユエル様の、わたしの手を握る手に力がこもった。そしてもう片方の手がすっと伸び、距離を詰めてきた。

 わたしはユエル様のまなざしに釘づけになり、立ち尽くしている。いったい何が起こっているのか、何が起こるのか、さっぱり分からずに途惑うばかりだった。瞬きすらできない。

「“目醒め”たら話そう。私のことも」

「え?」

「……ミズカ」

「……っ!」

 ユエル様の冷たい指先が、顎に触れた。

 わたしの顔を仰向かせ、ユエル様は囁いた。

「目を閉じて」

 けれど、すぐにはその言に従えず、瞠目していた。近づいてくるユエル様の顔を……緑の双眸と紅い唇を愕然と見つめていた。

 ユエル様の、この時異様に紅く色づいていた端正な唇が、わたしの首に触れた。噛みつかれたかのような痛みと熱が走り、小さな悲鳴を漏らして目を閉じた。

「……ユエ……さ……」

 頭の芯がぼうっとし、次第に意識が遠のいていくのが自分でもわかった。意識を奪われているのだと、わかった。

 ――意識が途絶えそうになる、その刹那。

「……すまない、ミズカ…………」

 ユエル様の声が聞こえた気がした。首に走った痛みが、僅かの間、途切れた。

 意識を手放す間際、わたしはうっすらと目を開けた。ぼやけた視界はすぐに暗闇に閉ざされた。

「…………」

 淋しげな影を落とす緑の双眸が、人間だったわたしが最後に視た色だった。


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