47.夜会へ
窓の外に目を向けた。
口から、無意識にため息がこぼれ出る。
夕焼けは見られず、木々の隙間から見えるのは薄藍色に染まる空と、その空を隠すような斑雲。刻一刻と、夜が迫ってくる。
日が西の空に傾くにつれ、心が、ひどく落ち着かなくなっていった。
不安なのはもちろんだけど、なんだろう、この胸の痛みは……?
怖れるような、怯えるような、もどかしいような。どうしたら落ち着けるのか分からず、戸惑ってしまう。
ユエル様のいつになく不機嫌そうな様子が不安を駆り立てているのだとは思うけれど、なぜなのか、それだけではない気がした。
* * *
ユエル様とアリアさん、イスラさん、そしてわたし。それぞれ身支度を済ませた頃には、すでに夕刻といっていい時間になっていた。のんびりしすぎたんじゃ……って、ちょっと焦ってしまったくらい。
イスラさんはというと、わたしの代わりに「占いの門」の後片付けをすべてすませてくれ、その後、急いで身支度を整えるや、一足先にパーティー会場へ行くと言い、急ぎ足で屋敷を出ていってしまった。まさか徒歩でと心配で声をかけると、タクシーを拾うから大丈夫と笑顔を返された。
所用があるとのことだったけれど、それがどんな用事なのか、イスラさんは話してくれなかった。ただ……なんとなく、昨夜アリアさんと出かけたのと同じ理由のような気がした。その「理由」も何なのかわからないのだけど。
「そんじゃ、現地集合な! 準備万端にして待ってる」
イスラさんはそれだけを言って屋敷を出ていった。まるでピクニックにでも出かけるような軽い口ぶりと足取りで。
あとは出発するだけの体でリビングにいるのは、わたしとユエル様とアリアさん。イスラさんが屋敷を出て、三十分ほどは経ったろうか。タクシー会社に電話を入れてからは、五分程。
そろそろ屋敷を出た方が良いのではとユエル様を促しても、「そう急いで行くこともなかろう」と返され、腰をあげてくれない。「タクシーもまだ着いていない」と、半ば呆れたようなため息を吐く。
ユエル様は一人掛けのソファーに深々と腰を沈め、長い脚を組んでいる。立ちあがろうとはせず、億劫そうに額にかかる前髪をかきあげ、嘆息した。
「それにしても迎えの車を寄越しても良さそうなものだが。……まったく、どこまでこちらを侮るつもりなのか」
不平を鳴らすユエル様を宥めてくれたのはアリアさんだった。
「まぁまぁ。いいじゃないの、たまにはこういうスリリングなのも。っていっても、ちょっと物足りなくはあるわねぇ。あのお嬢ちゃんときたら穴だらけなんだもの」
「放っておいても構わないのだが、一応釘をさしておく。まぁ、あちらの出方次第だが」
「そうねぇ。ああいったタイプは極端な行動に出やすいから、気をつけなくちゃだめよ、ユエル?」
「分かっている」
わたしは聞くとはなしに、ユエル様とアリアさんの話を聞いていた。
何の話をしているのか、よく分からない。だけどアリアさんの言う「あのお嬢ちゃん」が亜矢子さんだということは察せられた。
亜矢子さんと何か……一悶着起こすつもりなんだろうか? でも、何を起すのか、起きるのか、それが分からない。
同伴するようユエル様に言われたけれど、本当に一緒に行っても構わないんだろうか。
「ミズカ」
ユエル様がこちらに顔を向け直した。緑の瞳がわたしをとらえ、そして傍においでと促してくる。一瞬ためらったけれど、まなざしに引かれるようにして近寄った。「ミズカ」と、ユエル様が再びわたしの名を口にする。そして、徐にわたしの手を掴み、ソファーから立ちあがった。つられるようにして、わたしは顎を上げ、ユエル様の顔を見やる。
ユエル様は短く息を吐いた。
「ミズカを巻き込むのは本意でないんだが、……まぁしかし、晴れやかな場に行くのもいい経験になるだろう。何事も経験しておくにこしたことはないからね。たいしたパーティーではないだろうが、場馴らしにはちょうど良い」
「……はぁ……」
さっきからずっと思考がまとまらず、なんと返したらよいのか戸惑って、ぼんやりとした声を発してしまった。
ユエル様はわたしの右手を軽く握ったまま、少し心配そうな微笑を浮かべてわたしを見つめる。
ユエル様のまなざしは吸引力が強い。瞬きでごまかして、そっと視線を逸らしても、また気になって目を戻してしまう。
「ミズカは人馴れやすい分ガードが甘くなりがちだから、その点気がかりではあるが……」
「そ、そうでしょうか?」
「知らない人に酒を勧められても極力断るように。ああいった場では、強引に酒を勧めてくる無粋な輩もいよう」
「はい、気をつけます」
ユエル様と違って、わたしはお酒に弱いし、酔って前後不覚になるようなことになっては、迷惑千万だ。重々気をつけなくてはと、肝に銘じた。
傍で、アリアさんがくすくすと可笑しそうに笑っている。
「ユエルったら、ほんとに過保護ねぇ」
アリアさんの言葉にユエル様はわずかに眉根を寄せて、ちょっと決まりの悪そうな顔をした。それを見てアリアさんはまた笑う。アリアさんの笑顔は、光が弾けて花が開くような明るさがある。その朗らかな笑みで、場を和ませてくれた。
張り詰めていた心が、少し……緩まってきた気がする。
アリアさんは悪戯めいた笑みを浮かべて、語を続けた。
「ユエルの心配もわかるけど、大丈夫。不思議と悪い予感はしないの。いろいろとあるでしょうけど、きっと特別な夜になるわ。あたしの勘は当たるのよ?」
楽しみねと、アリアさんは青の双眸を細めて笑みを深めた。
高原の日暮れは早い。空の色は瞬きをする間に変わっていく。
少しひんやりとした夕風には雨の降りそうな匂いはしないけど、木々の隙間から見える空には雲が増え、西日を包み、残照を薄くしていた。落葉松林の中を風が静かに吹き抜けていき、時折忙しない鳥の囀りが響いた。夕闇が、細かな粒子になって辺りに降り注いでいるようだった。蒼色の影が足元に積っていく。
今夜は月も星も見られなさそうな空模様だなって、そんなことをぼんやり考えながら、呼んだタクシーに乗り込んだ。
「いってらっしゃい」
にこやかに手を振ってわたし達を送りだしたのは、留守を託されたイレクくん。
雑用で出かけていたイレクくんが屋敷に戻ってきたのは四時半頃だったろうか。その頃には朝見た時の寝不足顔はすでに消え、しゃんとした様子のイレクくんに戻っていた。
出かける直前も、イレクくんはユエル様と何か声をひそめて話しこんでた。何か打ち合わせ、確認し合っているような様子だった。別段深刻そうな面持ちには見えなかったけれど、なんとなく……何を話しているのか訊ける雰囲気ではなかった。
気にはなったけれど、わたしは他の気になってたことを、タクシーの中でアリアさんから聞くことができた。
それは、亜矢子さんのこと。
亜矢子さんのことを、わたしはほとんど知らないでいる。裕福な家のご令嬢ではあるようだけど、具体的な事は何も知らない。わかるのは、わたしを目障りに思い、嫌悪しているということ。
向かう先、パーティーの開かれているホテルは、「サクラ・ガーデンホテル」という名で、この辺りでは有名で、一流と言っていいホテルだそうだ。亜矢子さんの宿泊先はそのホテルだ。
わたし達の住んでいる屋敷から、車でおよそ二十分はかかる。駅からは離れているし、土産物屋が並ぶショッピング街からも離れているけれど、そのホテルの看板は何度か見かけたことがある。
「あの桜町亜矢子って子は、ホテル経営を含めた大会社、桜町トラスト・ホールディングスの役員の娘……現在の代表取締役の孫娘のようね。常務取締役が父親で、あと兄もグループ会社の役員になってるわ。今時珍しいのか、これが普通なのか、ともあれ縁故の強いグループみたい。つまり、お金持ちのお嬢様であるには違いないわね」
アリアさんの話を聞き、なるほどと頷いて応じた。
正直なところ、桜町トラストと聞いてもちっともピンとこなかったのだけど。それでも、アリアさんが教えてくれた傘下の会社に聞き覚えのある会社もあった。
株式会社・桜町トラストのメイン事業は不動産関係で、リゾート開発や都市開発を中心にビジネス展開をしている、とのこと。避暑地として有名なこの土地の開発も、別荘の分譲などをベースに、桜町トラストが多く携わっているらしい。
「彼女自身はまだ学生よ。どこの大学だったかは忘れてしまったけれど、八月から夏休みのようね。八月に入ってすぐにここへ来て、サマーバケーションを避暑地で満喫しているというわけ。今回のパーティーの主催者はあの子の父親よ。会社絡みの招待客がほとんどのようだけど、個人として招いた客も少なくないわ。あの子も父親の了解を得ているのかいないのか、それほど多くではないにしろ、個人的な招待状を複数送ってるみたい。人数制限はしていないようだから、あたし達みたいな不意の客もオッケーってわけね」
たった一度きりの面識しかないはずの亜矢子さんについて、アリアさんはいったいどこで情報を仕入れてきたものか、驚くほど詳しい。
わたしが目をぱちくりとさせていると、アリアさんはにこりと笑って訳を教えてくれた。
「あたしが顔を出した馬術の教室がね、桜町トラストの傘下会社経営なの。あの子もいろんな所に出しゃばってるようだし。だからリサーチは簡単だったわ」
ユエル様は亜矢子さんのことにほとんど無関心だったから、アリアさんの話にも興味ありげな様子は見せなかった。
アリアさんは、不本意そうにタクシーの助手席に座っているユエル様に向かって一言、「ちょっぴり迂闊だったわね」と言った。からかうような声ではなく、少し苦笑めいた色を含ませながら、優しく宥めるような、そんな声音だった。
アリアさんの話に口を挟みこそしなかったけれど、ユエル様は時折後部座席の方に顔を向けてくれていた。けれど、ふっと短く息を吐いて前に向き直り、あとはそのままこちらに顔を向けてくれなくなってしまった。何か考え込んでいる風にも見え、さらに声をかけにくくなってしまった。
「そんなわけで、あまり大仰なパーティーではないのは確実だし、あの子も目立った騒ぎは起こってほしくないはず。ああいった性格だし、キレて、何かしでかすかもしれないけど。それでもまぁ、なんとかなるでしょ。だからね、ミズカちゃん、そんな不安そうな顔しないで? あたし達がきっとなんとかするから。ね?」
わたしはよっぽど不安げな表情をしていたらしい。アリアさんは小首を傾げ、わたしの顔を覗き込んでくる。
アリアさんの青い瞳に見つめられ、慌てて「はい」と返事をした。
これ以上ユエル様やアリアさんに心配をかけたくない。……だから、気にかかっていたけれど、聞けなかった。
亜矢子さんがユエル様やアリアさんをパーティーに招待した本当の目的はなんなのか。それをユエル様達は気付いているようだった。
はじめは、単純に考えてた。
亜矢子さんは、占いにやってくる他の女の子達同様にユエル様の崇拝者で、ユエル様の気を惹くためにパーティーに招くのだと、単純にそう考えてた。
――だけど、それだけじゃない。
ううん。目的は他の所にある気がする。それが「何か」は分からない。
その何かをユエル様達は知ってるのだと思う。知っていて、けれどわたしには教えてくれない。それはきっとわたしを「心配」させないため。……そんな気がする。
本心を言えば、何も知らされないのがちょっと淋しくもある。でも、ユエル様達の気持ちを無下にしたくはないから、訊かずにおくのが一番いい。そう結論付けて、わたしは疑問に蓋をして、そうして口も噤むことにした。たとえ頭の中が疑問でいっぱいになっていても。
ところが、頭がいろんな疑問でいっぱいになってるせいで、わたしときたら肝心な事をうっかり失念してしまっていた。
それを突如として思いだしたのは、パーティーの会場である「サクラ・ガーデンホテル」に到着し、ホテルのエントランスホールでイスラさんと落ち合った時。
ユエル様、アリアさん、イスラさん、お三方が揃って、わたしは忽然と思いだした。
三人が三人とも、とってもとっても人目を惹く、超がつくほどに際立った美しい容貌の持ち主だとということを!