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44.賭けの行方

 アリアさんの言葉に弾かれるようにして体を起した。皮ばりのリクライニングシートが、ギッと軋んだ音をたてる。

「消されたかったなんて、そんな……っ!」

 ひゅっと息を飲む。声が喉の奥で詰まり、胸が苦しくなった。声が続かない。

 だって、そんな……消されたかったなんて、抹消なんて……!

 冷水を頭から浴びせられたようだった。体が芯から冷えてくる。髪がまだ少し濡れているからじゃない。みっともないくらいにうろたえて、動揺を抑えられなかった。

 それじゃぁ、あの雨の日、ユエル様が路上で倒れていたのは……? 人間に消されようと思っていた、その結果だったの? あのまま“死んで”しまうことをユエル様は望んでいたの?

 だとしたら、わたし……わたしは……――

 指先が痺れ、震える。

「ミズカちゃん、ミズカちゃん、落ち着いて」

 アリアさんは宥めるよう優しく笑い、膝の上で握られているわたしのこぶしにそっと触れた。

「それは過去のことよ。今はもう違うわ。そうでしょ? ね? だってほら、ユエルはちゃんとミズカちゃんの傍にいるでしょう?」

「でも……っ」

「ユエルの心が荒んでいたのは本当だけど、それは過去のこと。今は、そうじゃないわ。そんなこと、ユエルはもう考えてない。だってユエル、ずいぶんと穏やかに笑うようになったもの。見違えるほどって言ってもいいくらい。さっきも言ったけど、ミズカちゃんの影響よ」

 アリアさんの青い瞳が優しく細められた。小首を傾げ、やわらかなまなざしをわたしに向ける。迷子の子供を安心させるような、そんな温かな笑み。アリアさんはわたしの動揺をふわりと包み込むように受け止めてくれる。

 きゅぅっと、胸が切なく痛んで、こぶしを胸に押し当てた。

 アリアさんの寛闊な微笑みに、わたしはどうしてかいつも涙腺が緩みそうになる。目頭が熱くなる。泣きだしそうになるのを、口の端を引き結んでどうにか堪えた。

「ミズカちゃんと出逢う前のユエルはね、今よりもずっと怠惰で、ひどく自虐的だったわ。何事に対しても投げやりで、ただいたずらに日を過ごしていたの。その一方で、時には衝動的な行動に出て、無茶もしたわ。……そうね、ある意味で“吸血鬼”らしいといえる生き方だったと言えるわね。聖職者に退治されても仕方のないような、そんなことも数知れずしてきたわ」

「…………」

 アリアさんが言う吸血鬼らしさがどんなものか、訊く気にはなれなかった。ユエル様がした「無茶」がどんなことだったかなんて……。

 けれど想像はつく。小説や映画などに登場する吸血鬼そのものだったのかもしれない。

 人の生き血を啜り、闇に潜む吸血鬼……――

 そんな風に生きてきたユエル様を知らなくて、ほっとしたのか寂しいのか……。嫌悪の情なんて欠片も湧かない。けれど心が揺れている。

 アリアさんは声のトーンを少し落として続けた。

「そのユエルが“生殖者”になった。望みもしないのに命を繋ぐ役割を担わされた。ユエルは生殖者としての自分を厭ったし、運命も呪ったわ。よりにもよってこの自分が、って」

 アリアさんは頬に片手をあて、嘆息した。

「ユエルは長い間退廃的な生き方をしてきたけど、それはすべてユエル自身のナイーブさが原因なの。吸血鬼である自分をひどく厭っていたわ。なまじ魔力も強かったから、悩むところも多かったのね。幼い頃から、ユエルは繊細で傷つきやすい子だったの。当のユエルがそれを自覚しているかどうかは分からないけれど」

 アリアさんは肩を竦めて微笑した。

「結局のところユエルは、不器用で、純真なのよね。何事も一途に思いつめ、視野を狭めたあげく、自分を貶めてしまうの。それはまぁ、思春期独特の思考回路ゆえだったとも言えるでしょうね。ユエルはその思春期が異様に長かったの」

「…………」

 思春期って……、なんだかユエル様には似合わない言葉だ。

 でも不思議。アリアさんが言うと、奇妙なほどしっくりくる。アリアさんはユエル様の友人でもあり、母親的な存在であるのかもしれない。優しくもあり、厳しいまなざしでユエル様を見守ってきたんだろう。

 わたしは今のユエル様しか知らない。出逢ってからのユエル様しか知らない。

 だからアリアさんの語るユエル様とわたしの知るユエル様では、多少の齟齬がある。齟齬というよりは、単に情報量の差なんだろうけど。

 アリアさんはユエル様を不器用だと言う。だけどわたしはそんな風に感じたことはなかった。細やかな気遣いのできる、器用な方だと思っていたくらいだから。時代に適応するのも早いし、接客の仕方もこなれてる。順応力の高い方だって、いつも感心しているくらいだもの。

 確かに、アリアさんが言うように、ユエル様は時々ご自身に対して冷笑的になることがある。それは神経の細やかさから生じる負の感情なんだと思っていた。投げやりな物言いや億劫そうな態度は、そうした感情の表れなんじゃないかって。アリアさんの見解を踏まえて考えてみると、その推測はあながち間違いではなかったということだろうか。

「思春期というのは厄介ね。それまで以上に感情過多になって抑えもききづらくなる。とくにマイナスの感情はね。ユエルはそれが顕著だったわ。生殖者になったと分かってから、ユエルは切実に自分の“消滅”を望んでた。……まぁ、ユエルのその気持ちは……分からないでもないけれど」

 言ってから、アリアさんは翳りを帯びた微笑を浮かべた。

 それは、アリアさんだけじゃなく、ユエル様とイスラさん、そしてイレクくんも不意に見せる、寂しげで、憂いを含んだ微笑だ。

 アリアさんも、イスラさんもイレクくんも、吸血鬼という人外の存在である自分達に対して、悲観的な事はほとんど言わない。だけど、口にしないだけだ。きっとユエル様と同じような苦悩を抱えているのだと思う。

 だからユエル様の心緒を気遣って、こうしてやってきたんだ。ユエル様のことを心配して……。

「あらあら、あたしったら。ごめんなさい、話がちょっと逸れちゃったわね」

「い、いえ……」

 アリアさんは青天を映しとったかのような瞳をやわらげて、照れ隠しに微笑んだ。肩にかかる長い金髪を軽く手で払う。アリアさんの豪奢な金髪はまるで光輪のように尊く、美しい。

 アリアさんは一息ついてから、再び話し始めた。

「ユエルはね、自分の身を消したいって思ってたけど、反面……いいえ、それだからこそ、と言えるわね。生きることの意味をいつも欲していたわ。だから、生殖者である自分を受け入れるために、賭けに出たの。生きることの意味を得るための賭け。その賭けのために日本に来たのよ」

「賭け……?」

「ええ、そう。異人だからということでローニンに斬って捨てられるかもしれない。あるいは斬られずに済むかもしれない。生と死を、人間に委ねてみようと思ったのね。人間に忌み嫌われてきた存在だからこそ」

「…………」

「そうすることで自分の運を試したかったのよ。ちょっとばかり消極的な賭けだと分かってはいたでしょうけど」

 アリアさんはふふっと思いだし笑いをし、頬を緩ませた。子供の悪戯を見透かした母親のような、優しい微笑だった。

「ユエル様は……」

 わたしは息を呑み、ややあってからアリアさんを見つめ、尋ねた。

「ユエル様は、その賭けに勝ったんでしょうか」

 我ながら意気地のない声だった。知りたいと思う一方で、その答えを聞きたくない気持ちが口調をためらいがちなものにした。

「さぁ、それはどうかしら」

 アリアさんは曖昧に答えた。

「あたしからそれは言えないわ。賭けの結果は、ミズカちゃん自身がもう知っているはずだもの」

「……そんな……」

 わたしは驚いて、首を横に振った。

 わたしが知っているなんて、そんなはずない! ユエル様の過去のことを知りもしなかったのに。だってわたし、知らないことばかりだもの、ユエル様のこと……!

 情けない顔を晒しているわたしを、アリアさんは優しげに見つめる。

「ユエルはローニンに斬り捨てられるなんてこともなく無事に生き延びて、その後ミズカちゃんと出逢った。そうでしょう?」

「は、はい」

 わたしはこくんとぎこちなく頷いた。

「そうねぇ……。あたしが言うべきことじゃないんだけど、これだけは言ってもいいわね。――ユエルは賭けの結果を受け止めた。諦めからじゃなく、ね。だから後は確信を得たいんでしょう。できれば自然な流れに任せて、無理矢理にではなく。ユエルったら、妙なところで臆病なんだから。まったく短気なんだか悠長なんだか」

 ユエルにはずいぶんと気を揉ませられるわ、と言って、アリアさんはくすくす笑っている。

 結局笑ってごまかされ、わたしが知りたかった答えは得られなかった。

 そのことに少しだけ落胆し、……安堵もして、わたしはつきかけたため息を呑み込むために下唇を軽く噛んで口の端を引き締めた。

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