43.ベースメイク
まずはシャワーを浴びて汗を流していらっしゃい、というアリアさんの指示に従い、急いでシャワーを浴びて、その後アリアさんが使用してる個室へ向かった。
「……わ、ぁ……っ」
扉を開け、中に入ってすぐ、目の前に広がる光景に思わず感嘆のため息がこぼれてしまった。
鏡台の前の円卓にずらりと並んだメイク用品。鏡台の前だけじゃ足りなくて、テーブルの上にもずらりと並んでいる。メイク用品とは言っても、洒落た小瓶や可愛いケースに入っていて、まるで宝石箱の中身を並べたように絢爛だ。それに見たこともないようなメイク用品もある。何をするための用具か分かるのは、せいぜいコットンとかブラシくらい。小さなハサミもあるし、ヤスリみたいなものある。それにブラシにしても、何種類もあってそれぞれ何に使うのか思いもつかない。
わたし……何をされちゃうんだろう……。
不安もあったけれど、……なんだかとっても心が弾んで、ワクワクしてる……?
「さ、ミズカちゃん、こっちに来て、ここに座って。リクライニングの椅子があってよかったわ」
アリアさんに促されるまま、わたしは着慣れないバスローブ……アリアさんからお借りしたもの……の胸元を押さえつつ、皮ばりのリクライニングシートに腰をおろした。シートの背もたれにはおろしたての白いバスタオルがかかっている。
「楽にして、ミズカちゃん。背もたれ、ちょっと倒すわね?」
「はい」
濡れた髪を押さえつけるようにして巻いていたタオルを、アリアさんがぴっちりと巻きなおしてくれた。
「ふふ。ミズカちゃんの肌ってぷるぷるしてて柔らかそう。マシマロみたいね。あらあら、そんな身構えないで。リラックスしててちょうだい」
「……あ、はい……」
応えたものの、完全にリラックスはできない。
そりゃぁ……、リクライニングの椅子は座り心地いいし、辺りから漂ってくる華やかな甘い香りにうっとりともしてしまうけれど、やっぱり、なんだか落ち着かない。
アリアさんはわたしの後ろに立って、「さぁて、始めましょうか」と何やら道具を用意し始めた。
アリアさんは茶色の小瓶を取り出した。どうやら美容液らしいそれを、ぬるま湯の張った金属製のたらいに数滴たらし、指先で混ぜる。
「さ、まずはフェイスマッサージから始めるわね? ミズカちゃん、普段メイクどころか、お肌のお手入れも特にはしてないでしょう? こんなに瑞々しいからそれほど必要はないかもしれないけど、ちょっと手を入れてあげるだけで、お肌の艶はもっとよくなるし、ハリも出るわ」
アリアさんはわたしの頬を指先でつつき、その感触を楽しんでいるようだった。
「は、はぁ……」
顔のマッサージなんて初めてだ。痛いのかなって思ったけど、そんなこと全然なくて、陶然とするくらい気持ちがいい。たっぷりとつけてくれた化粧水……アリアさんがアロマウォーターだと説明してくれたそれは、甘いバラの香りがした。
自然と瞼がさがり、ほどよい力具合で動くアリアさんの指の感触のよさに身を任せていた。
ゆっくりと丁寧なマッサージが続き、ややあってからアリアさんのなだらかな声音が耳朶を優しく叩いた。アリアさんの手は緩慢に動いたままだ。
「あのね、ミズカちゃん。――ああ、楽にしてて。そのままちょっと聞いてほしいことがあるの」
「はい」
「ユエルのことよ」
ユエル様の名が出て、わたしはぱちっと目を開けた。わたしのその反応に、アリアさんは微笑した。
「ユエル、ミズカちゃんに自分のことをあまり話していないでしょう? だけどやっと決心したみたいだし」
「え?」
わたしは目を瞬かせ、アリアさんの青い瞳を覗きこんだ。
「だからね、あたしからすこぉしだけ、ユエルのことを教えてあげるわね? あたしが知ってることと、たぶんそうだったんだろうって思うことを、ほんのちょっぴり。ミズカちゃんに知っていてほしいことよ」
「…………」
どう返事をすればいいのかわからなかった。
アリアさんは穏やかな微笑を湛えて、返事をしかねているわたしを見つめ、言葉を継いだ。
「ふふ、心配しないでミズカちゃん。聞いたからって、ユエルに叱られるようなことはないわ。まぁ、ユエルがミズカちゃんのことを叱るなんて想像もつかないけれど。つまりその程度のこと。秘密でもなんでもない、ただの“昔話”だから」
「…………」
わたしの沈黙を諾ととったアリアさんは、ことさらに勿体つけることなく、語り始めた。
それはわたしの知らない、ユエル様の過去――わたしと出会うほんの少し前のことだった。
アリアさんは、どこから話そうかしらとちょっと首を捻り、けれどさほど間をおかずに語り始めた。
「そうそう、ユエルが生殖者になった頃のこと……生殖者になったと気づいてすぐだったわ」
アリアさんは思いだし笑いを口元に浮かべて言った。
「ユエルったらね、自分が生殖者になったのだと分かった途端、行方をくらませちゃったのよ」
その当時、ユエル様はアリアさんと行動をともにすることが多かったらしい。常に一緒だったわけではなく、必ず連絡がつくよう、所在を明らかにしていた。
アリアさんのこと、とても信頼してんだ、ユエル様……。
「なんの相談もなかったの。いきなりの出奔でさすがに焦ったわ。もちろん、とうに成人していたわけだし、一人旅に出たところで、別に心配するようなことはなかったのだけど」
それでもやっぱりあまりに突然で驚いたし、焦ったと、当時を思い返してアリアさんは言う。
きっと、アリアさんはわたしのために言葉を選んでくれている。慎重に話を進め、時折わたしの様子を窺って、にこりと優しく微笑みかけてくれた。
「ユエルは、まさか自分が生殖者になるなんて予想もしてなかったみたい。ひどく動揺していたわ。生殖者にはなりたくなかったようだから。ほら、ユエルってあの通り面倒くさがりでしょう?」
「…………」
返答に窮してしまう。
アリアさんはため息をつき、話を進めた。
「そんな自分が生殖者になるなんて、まったく考えてなかったんでしょうね。で、何を思ったのか――まぁ、何を考えてたのかは大体分かるけど……、ユエルったら、よりにもよって東の果ての島国にいたのよ。探し出すのに骨を折ったわ」
イスラさんにも協力してもらって、ユエル様の行方を探り当てたのだという。
ようやく見つけたユエル様は、東の果ての島国……つまり、日本にいた。よりにもよっての時代、激動の最中の、日本に。
「そう……あの頃の日本、ショーグネイト末期の頃で、えぇっと、なんていったかしら? ジョーイだのなんだのと言って、異国人を毛嫌いしていたローニンが横行していた頃よ。ミズカちゃんが生まれるより前の頃ね? それはユエルから聞いていた? いつ頃日本に来たのかってことは?」
「はい、それは聞いていました。えっとたしか……、アメリカの黒船よりも先に日本に来ていたって」
ユエル様から日本史を習っていた時に、それを聞いた。詳しくは語らず、「そういえば」と話のついで程度に教えてくれた。
まだ日本が一部を除いて鎖国している時代のこと。今で言う「幕末」、ユエル様は攘夷熱の沸騰している最中に、日本にやって来たらしい。
それは、わたしが生まれるより前の話。だからその時代の空気をじかに肌で感じるということはなかった。
わたしが生を受けたその頃には、“異人”に対する畏怖は徐々に薄れ、西洋化が当たり前になってきていた。だからといってわたしみたいな下々の民草が異人さんに接することなんてなかったし、西洋化なんてまったく縁のないことだった。
漠然と、時代が移り変わっているんだなと、他人事程度に感じていたくらい。
「ユエルってね、ほら、プライド高いせいもあってつまらないことで依怙地になったり、投げやりになったりするでしょう?」
「……?」
話が、それた?
けれどわたしは口を挟まず、黙していた。
アリアさんは立ち位置を、わたしの後ろから前へと変え、それから鏡台の前にずらりと並べてある化粧用品の中から一つを選び取った。
「まずは、潤いを与えるためのトナーから。お肌に浸透させるよう、たっぷりとね」
ベースメイクは大切なのよ、と説明を交えながら、アリアさんはわたしの顔から首筋にかけ、化粧水を沁みこませたコットンを、ぴたぴたと軽く叩くようにして当てる。
そうした“作業”を続けながら、アリアさんは話をユエル様のことに戻した。
「ユエルね、ひどく厭世的だったの。生きることに執着がないというか、自分を疎んじているようなところもあったわ。そうねぇ、あれは一種の思春期みたいなものかしら? ちょっとばかり遅めの」
アリアさんは片手を頬に当て、ちょっとわざとらしくため息をついて微苦笑した。
アリアさんは立派な……立派過ぎるほど豊満で色香漂う肢体の持ち主の……成人女性なのだけど、所作は少々子供っぽい。おこがましいけれど、「可愛いな」って思う。見た目とのギャップが親近感を持たせて、何でも話せてしまうような、もの柔らかな雰囲気がある。
アリアさんの寛緩な微笑は、広やかな海のようだ。優しい色のまなざしに吸い込まれそうにもなる。
アリアさんはクスッと小さく笑った。
「ユエルは、そういう自分が生殖者になるなんて思いもしなかったみたい。生殖能力が顕現して、それがわかった途端、切れちゃったのよ。相当ショックだったのね」
「切れちゃった?」
「そう。もう、ぷつっと。自暴自棄になっちゃったといえばいいのかしら? あの頃のユエルはずいぶんと気が荒れていたから」
「荒れていたって……ユエル様が、ですか?」
訊き返したのは、少し意外な気がしたからだ。
気が荒いなんて、今のユエル様からは想像がつかない。そりゃぁ、イスラさんに対する時のユエル様は大人気なくて少々荒っぽくはあるけれど……。
「ユエルはあれでかなりの激情家だから。怒りっぽいのは……今でもそんなに変わらないわね。年を経てずいぶんと落ち着いたようだけど。穏やかになったのは、ミズカちゃん効果ね」
「え、わたし……?」
「ええ、そう。ミズカちゃんのおかげよ。あたしはそう感じたわ。ユエルだってそう思ってるはずよ」
「……そんな……」
「ミズカちゃんがユエルの傍にいてくれて、本当に良かった」
「…………」
――胸が、きゅぅっとしめつけられる。
嬉しいような、切ないような、どちらともつかない疼きが走った。
アリアさんの声が、微笑みが、あまりに優しすぎて。
吸血鬼なんて言葉、アリアさんには似合わない。アリアさんだけじゃない。ユエル様もイスラさんも、イレクくんも。もっと相応しい言葉があればいいのにと思う。美しくて優しい方達を、わたしは知らない。
ふわりとやわらかく包み込むような、大らかで慈恵に溢れたアリアさんの微笑みに、胸がいっぱいになって、なんだか、泣きだしてしまいそうになった。
それをごまかすため、強引に話を戻した。
「あ、あの……っ。それで、あの、ユエル様は、生殖者になったと分かって、日本に来たんですよね?」
「ええ、そう」
アリアさんは穏やかに微笑んだまま、さらりと言った。
「ユエルはね、消されたかったのよ。自分をこの世から抹消して欲しかった。そのために、日本に来たの」