4.風入《かざい》れ
二階の廊下の突き当たり、窓を開け放しておいたベランダに、紺色に白の水玉模様のトランクケースが横倒しになって放置されていた。そのトランクケースを起こして、その他に荷物がないか、確認した。
どうやら荷物はこのトランクだけみたい。
ずいぶんと大きいトランクだけど、これも持ってここまで登ってきたのかしら、アリアさん。ちょっと考えつかないけれど。
「ふぅ……」
ため息をついたのは、トランクが存外重たかったからだけじゃない。それに、キャスターがついていたから、移動させるのにさしたる労力もかからなかった。
ため息は、わたし自身の先走った発言のせい。
差し出がましいことを言ってしまった。
ユエル様のご友人だから、別段構わないだろうと思ったのだけど。
もちろん、迷惑といった風ではなかった。でも、ユエル様は一瞬躊躇したみたいだった。
「……そうだな。そうしたらいい。部屋は余っているから、……ミズカが良いように整えてくれるだろう。寝具等も一通り揃えよう」
とは言ってくれたものの、何か言いたげにわたしを見、嘆息した。
――立場を弁えなくちゃ。
わたしはユエル様に従属している眷族で、“仲間”というわけではないのだもの。
「気をつけなくちゃね、わたし!」
ひとりごちて、片手で頬を叩いた。
トランクのキャスターは軽やかに回ってくれたのだけど、わたしの足取りはちょっと重い。
ともあれ、ユエル様の寝室と同じ並びにある一室に入った。
二階には、客用の個室がいくつかある。どの部屋も一応は毎日掃除を欠かしていないから、汚れや埃はない。生活感がないだけ。
あとで、予備のお布団をベッドにセットしておこう。他に何か入用のものがあれば聞いて、用意しておこう。
そんなことを考えつつ、ウォークインクローゼットの脇にスーツケースを置いてから、閉め切った部屋の空気を入れ替えるために、フランス窓を開け放った。
緑色の芳香が部屋に入り込んでくる。
高原の風は、心地がいい。
苔や羊歯が多いに繁殖するほど、この高原地は湿度が高くて、吹きつける風にもしっとりとした湿気がある。緑色の粒子でできてるんじゃないかな思う程。きっと、ユエル様の瞳のような緑だ。優しくて、捉えどころがない。
白いレースのカーテンが風にはためいた。
襟元に髪の毛先が擦れて、こそばゆい。風に乱れた髪を撫でつけながら、踵を返した。
窓から離れようと背を向けたわたしの肩に、レースのカーテンが触れ、それを払おうとしたその時だった。
「かわい子ちゃん、みーっつけたっ!」
いきなり、そう、まったくもって突然っ! 何の気配もなかったはずなのに、背後から何者かに抱きつかれた。いえ、肩を掴まれたというのが正解かもしれないけれど。
とにもかくにも突然で!
だから、絶叫したって無理はないと思うのっ!
「きっ、きゃぁぁぁっ!!」
わたしの叫び声は、吸血鬼に襲われたヒロインのごとく響き渡った。
真昼の陽射し満ちる、夏の森に。
次の瞬間、わたしはその何者かに押し倒された。
うしろで、「わっ」と戸惑ったような声がして、その途端、足元がふらついた。
だから、単にバランスを崩して、後ろに倒れてしまっただけかもしれないけれど、ともかく、不可抗力的に、窓の側にあったソファーに倒れこんでしまった。
何者かの体の上にのしかかるような体勢になったみたいで、 その時に、首筋に何か……ちょっと冷たくて濡れてるものが、ぴとっとくっついた。
「……っ!?」
それが唇だって分かるまでには、三秒ほどの時間がいった。
頭の中はもう真っ白で、ほとんど反射的に、わたしはぎゅぅっと目を閉じて、思いきり「それ」を払いのけた。
手のひらに痛みが走ると同時に、バチンッと高い音が鳴った。
直後、――
「ミズカ!?」
わたしの絶叫を聞きつけて、ユエル様が駆けつけ、部屋に飛び込んできた。
「ミズカ!」
血相を変えたユエル様がこちらに向けて手をかざした。わたしの背後に入る人物を目にした途端、ユエル様の険相に凄味が増す。眉間を寄せ、手のひらに力をこめている。
「だっ、大丈夫ですっ」
はっとして、慌ててユエル様を止めた。
「大丈夫ですからっ」
膝の上まで捲くれ上がっていたスカートの裾を慌てて直し、大急ぎで立ち上がった。けど、足に力が入らなくて、膝ががくんと折れ、よろけた。傾いだわたしの体をさっと手を伸ばして後ろから支え立たせてくれたのは、わたしに絶叫をあげさせた不法侵入者だった。
「おっと、危なかった。セーフセーフ」
背後から声がする。妙に明るく、馴れ馴れしげな声だった。
「この通り大丈夫だから、そういきりたたんでくれよ、ユエル」
「えっ、えと?」
わたしはユエル様と侵入者の顔を繰り返し見やった。
侵入者は若い長身の男性で、にこにこと笑っている。そして相変わらずわたしの腕を掴んだまま離さない。
「えと、お知り合い……なんですか、ユエル様?」
わたしが問うと、ユエル様はあからさまに不機嫌な顔になった。けど、どうやら肯定しているらしい。
「ミズカから手をどけろ、イスラ。さもなくば」
「あーはいはい。しかしさすがにユエルの眷族なだけあるね。手の早いこと、早いこと」
「……っ」
改めて侵入者の彼の顔を見ると、左の頬が赤くなっていた。さっき思いきり平手打ちをしてしまった、その痕だ。
「すっ、すみませんっ、わたしったら! 思いっきりひっぱたいてしまってっ! あ、それに体の上に倒れ込んで……、お、重かったですよね」
「平気平気。それに驚かせちゃった俺が悪いんだしさ」
「でも、痛かったですよね……。あの、本当にごめんなさい」
平謝りするわたしに、侵入者の彼はにこやかに応対してくれている。
その一方で、ユエル様はますます不機嫌顔になっていった。
「謝る必要などない、ミズカ。こちらに来なさい」
「え、でも……」
「いいから、ミズカ」
「……」
侵入者の彼に軽く頭を下げてから、ユエル様の言葉に従った。
「久しぶりに会うってーのに、つれないなぁ、ユエル」
「招いた憶えはない。ミズカ、やつは放っておいて構わない。行こう」
「ユ、ユエル様、でもっ」
「そーかぁ。ミズカちゃんって言うのかぁ。その娘が栄えあるユエルの眷族で……」
「イスラ」
冷たく、ユエル様は彼の言葉を遮った。
「煩い、イスラ。私を怒らせるな」
「俺に対して怒ってないおまえさんなんて見たことないね」
「その通りだな」
「アリア、来てんだろ? 途中まで一緒だったんだけどなぁ。それとおまえさんに会いたいってやつがいて、一緒に来たんだが」
「彼でしょ? 玄関から入ってきたわよ、ちゃんと」
いつの間にか現れたアリアさんが、口を挟んだ。隣に、十歳前後と思われる男の子を伴って。
「初めまして」
ぺこりとお辞儀をしたその男の子は、続けて謝罪した。
「父が失礼をしたようで、ごめんなさい。よく叱っておきますから」
――ちっ、父っ!?
亜然愕然の単語が頭を叩く。
わたしは呆然と立ち尽くし、申し訳なさげな顔をしている男の子を凝視した。
――ともあれ、わたし達はリビングに戻った。
「こんなところで立ち話もなんでしょ? いいからまず」
と、アリアさんがその場を取り仕切り、みなをリビングへと急きたてた。
ユエル様は不機嫌顔で黙りこみ、一人掛けのソファーに腰を据え、不服げな様子で腕を組んでいる。
イスラと名乗った侵入者の彼は、窓の縁に手をつき、壁にもたれかかって立っていた。額にかかる茶褐色の髪をかきあげ、それからユエル様と同じように両腕を組んいる。ユエル様の不機嫌顔を面白がっているような……気がする。
そのイスラさんのいる場所に程近いソファーに行儀よく座っているのは、よくよく見ればなんとなく面差しがイスラさんににていなくもない、男の子。
「お初にお目にかかります。イレク・オーベリと申します」
イスラさんの一人息子だという男の子は、会釈をした後にそう名乗った。
わたしはというと、アリアさんに促されてイレクくんの、テーブルを挟んだ向かい側のソファーに腰をおろしている。へたり込んでる場合じゃないとも思ったのだけど、この唐突な事態に少なからず疲れてしまった。
「ミズカちゃん、少しは落ち着いたかしら?」
「……はい、……なんとか」
「イスラも、いったいどういうつもりでこの子を襲ったりしたの? 怖い思いをさせて!」
厳しい口調で、アリアさんはイスラさんを窘めた。
「いやぁ、別に襲ったつもりはないんだけどなぁ。でもあんまり可愛くて、つい」
「言い訳になってませんよ、父さん。その前に、きちんとミズカさんに謝罪なさるべきです」
「父さんって言うなって言ってんだろ? こんな若い男におまえみたいな子供がいるなんて、どう考えたって不自然だろ?」
「……」
その通りだ、とは思う。
兄弟というのならまだしも分かるけれど、親子と言うには見た目年齢にそぐわない。
イスラさんは見た目、二十代前半か、半ばくらいの年齢に見える。いかにも遊び人といった風体で、気安さと軽率さが絶妙に混じりあった人懐こい笑顔に、吸血鬼らしさはかけらも感じない。洗いざらしのTシャツに、着古した感のあるジーンズがよく似合っている。爽やかな好青年といった外見だ。
一方で、息子さんのイレクくんは、いかにもお坊ちゃん然としていて、綿シャツもきっちりボタンをしめている。年の頃は……十二、三歳といったところだろうか。けれど言動はとても落ち着いてて、おっとりとした雰囲気だ。茶褐色の髪は父親と同じだけど、瞳の色はややイレクくんの方が薄い茶色だ。イスラさんの方が濃くて、コーヒー色をしている。
「こいつ、また面倒な年頃で成長止めやがってさ」
「いつも一緒に行動しているわけではないのだから、父さんが面倒がる必要はないでしょう?」
「あら、そうなの? まぁ、そうねぇ。始終一緒にいて、イスラの面倒なんか見ていられないわよね」
「おい、アリア、それ逆だろ」
「どうせ親らしいことなんてしてないんでしょ、イスラ?」
「それでも一応は父親ですから。面倒事を起こさないよう、たまには見張ってなくてはいけませんし」
「まぁ、イレクは父親に似ない、真面目ないい子なのねぇ」
「おいおい、おまえら、勝手なことばっか言いやがって」
この会話に、ユエル様はまったく参加してこない。押し黙ったまま、じっとして動かない。
アリアさん、イスラさん、イレクくんに、それぞれに訊きたいことはあったのだけど、それよりもユエル様の事が気にかかって、わたしはおそるおそる、声をかけた。
「ユエル様、あの」
とはいえ、何を言っていいのかわからず、
「お茶、新しいものをお持ちしましょうか」
なんて、バカの一つ覚えみたいなことを言ってしまった。
「…………」
ユエル様は嘆息した。深く。そして、何かを諦めたか、あるいは覚悟を決めたみたいに。
「そうしてくれ、ミズカ。……皆の分も、頼む」
「はいっ」
応え、わたしは勢いよく立ち上がった。
「ミズカ、続きを話すから」
「はい?」
「こいつらを交えて話すが、それでも、良いね?」
「え、はい、それは。ユエル様がいいのなら、わたしは構いません」
「……そうか」
ユエル様はまたため息をついた。
わたしは首を傾げた。
なんだろう、ユエル様? 表情が、暗い。
気になったけれど、今はとにかく、新しくお茶を淹れてこなくちゃ。
わたしは大急ぎでリビングを出て行った。
背後に、三人の視線を感じながら。
話の続きというのは、“眷族”のことだった。そして、吸血鬼の子孫については、それに付随してくるもののようだ。
即座に口を挟んだのは、イスラさんだった。
「なんだおまえ、ミズカちゃんにまだ説明してなかったのかよ? ありえねー。ってことは、なんだおまえ、まだ」
「父さん、少し黙って」
「へーへー」
ふと気がついて、わたしは改めてイスラさんとイレクくん父子を見やった。
――そうだ、この二人は“親子”なんだ。
え、でも、吸血鬼は子孫を残せないって聞いていたのに?
「何事にも、例外というものはあるものだよ、ミズカ」
そう言ったユエル様の後に、アリアさんが続けた。
「例外というか、種族的な特徴なのよ」
「種族的特徴、ですか?」
「そう。ユエル? あたしから話しても構わないのかしら?」
ユエル様は黙したまま、けれど諾と目で頷いた。
アリアさんは言葉を継ぐ。
「あたし達の種族の中には、期間限定の“生殖者”がいるの。つまり子を成せる“力”を持った者が、時々現れるのよ。出現の法則はとくにないみたいで、つまりランダムね。あたし達は基本、群れない種族だから、どれくらいの生殖者が同時期に現れるかは把握できないのだけど」
「……はぁ」
「その上、生殖能力は期間限定なの。その期間は個体差があるから一概には言えないけれど、大体百年から二百年くらいじゃないかしら」
「個体差というのは、そいつの力具合とも言えるな。強ければ、期間は長い。……たぶんね」
いつまでも口を噤んではいられず、イスラさんが再び口をはさんできた。
「俺は二百年近く期間があったぜ? ギリギリのところで間にあったから良かったぜ」
「どうせ、その猶予期間中、遊んでばかりいたんでしょう、父さんの場合は」
「必要な品定め期間だったと言ってほしいね」
「ふぅん?」
イレクくんは何か言いたそうに、わざとらしく鼻を鳴らした。
アリアさんは話を元に戻した。
「ある年齢に達すると生殖者は生殖能力が発現するの。自覚症状は、あるわ。これはどう説明していいかわからないけれど、ああいうものは不思議と、ふっと気がつくのね。それに体内に余分な生命が溜まっていくのがわかるのよ。そしてもう一つ、生殖者は他の者とは違う“力”を与えられる。これは、とても重要な“力”よ」
はあ、と相槌をうった。
あまりに不思議な話にわたしは目を瞬かせる。
分かったような、分からないような。
分かったことといえば、“生殖者”という特別な存在が吸血鬼達の中にいるということ。そしてその“生殖者”だけが唯一、子孫を残せるのだということ。
「生殖者の相手は、大抵の場合、人間から選ばれるの。実際イスラの相手も人間の女性だったし、あたしもそうだったわ」
「人間から選べという決まりはないけど、同族の……つまり“生殖者”と出逢うのはまずないな。良くも悪くも、俺達は個人主義だからね、生殖者同士が一堂に会するなんてことはめったにない……どころか、無いに等しい」
イスラさんの言葉を受けて、アリアさんが小さく笑った。
「こうして、生殖期間が終わった後でなら会えるのにね。神様とやらがいるんだとしたら、きっととんでもない気紛れ屋さんなんだと思うわ。大体、あたし達みたいなモノが存在すること自体、神様とやらの悪戯みたいなものですものね」
「言えてるな」
アリアさんとイスラさんの会話にユエル様はまったく参加しない。黙して、表情を消している。淹れなおしたお茶にも手をつけていない。
わたしはそんなユエル様の様子が気になって、そわそわと、アリアさんとユエル様とを何度か見やった。
「ユエル? 眷族の説明くらいはあなたからしたら?」
落ちつかなげなわたしに気づいてくれ、アリアさんはユエル様に話をふってくれたのだけど。
「…………」
ユエル様は僅かに眉をひそめただけで、端正な唇を動かしてはくれなかった。
「まぁ、いいけど。そうそう、それで、“眷族”ね?」
アリアさんはわたしの方に向き直った。
「ほとんど説明がなされていなかったみたいね? 眷族という、とても重要な存在のことについて」
「重要って、眷族が、ですか?」
「そうよ。とても、大切な存在なの」
そういえば、ユエル様も言っていた。「とても大切な存在なのだ」と。
もう一度ユエル様に目を向けると、ユエル様は、今度はわたしから目を逸らさなかった。
けれど、深い湖水のような緑の瞳は、何も語ってはくれない。
沈黙を保ったまま、わたしの一挙一動を見つめている。
……思いだす、あの時もこうしてわたしを見つめてた。
わたしを眷族にしようとした直前。じっと見つめて、わたしに何かを見出そうとしているような――……
「あ、あの、それでっ」
話を進める前に、わたしは確認のため、訊いてみた。
アリアさん、イスラさんの両人は、生殖者なんですね、と。
答は、是だった。ただし、「だったのよ」と付け足して。
そして、さらに付け加えたのだ。
「ユエルもよ」、と。