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38.知らない鼓動

 ――ユエル様に抱擁されてる……。

 な、に……? いったい何事……? どうしてこんな体勢ことになってるの?

 ユエル様との距離が近い。息使いも甘やかな香りも体温も。ユエル様の胸元に、わたしの頬が触れている。

 ふわりと緩く、ユエル様はわたしの体を両腕で包みこんでいた。触れるか触れないかの僅かな隙間を残して、ユエル様はわたしの背に両腕を回している。

「ミズカ、昨夜は心配をかけて、すまなかった」

 耳元で、ユエル様が囁いた。ひそめられた低い声に、思わず全身が粟立った。肩をすぼめてぎゅっと目を閉じ、顔を俯かせた。胸がどきどきと鳴りだし、顔のほてりがますますひどくなっていく。

 速い心音がわたしの耳朶を打つ。……けれどそこに耳慣れない速さの心音が重なってくる。わたしの鼓動だけではなく、もう一つの……。

「突然倒れて……驚いたろう?」

「あ……あのっ」

「不安な思いをさせてしまって、本当に悪かった」

 ユエル様は心底申し訳なさそうに謝罪をしてくる。

「い、え……そんな……」

 応えるわたしの声は堪えようもなく震えた。目頭が熱くなり、眦に涙が滲む。小刻みに戦慄いてしまうのをどうしても止められなかった。

 軽く、ユエル様の腕が背に当たった。たったそれだけのことに過剰なほど体が反応してしまう。びくりと肩を震わせて首を引っ込める。息が詰まりそう……!

 ユエル様が怖いのじゃない。だって……だってユエル様の腕の中は、こんなにも温かくて、囁く声も優しい。怖いなんて思えるはずがない。

 なのに震えが止まらない。心臓も破裂しそうに鳴ってる。

 歯を食いしばって口の端をきつく結んだ。だけどかえって震えがきてしまう。

 ……だめ……っ! 震えを、止めなくちゃ! 止めなくちゃ、ユエル様に誤解されてしまう。違うのに。怖くなんかない。ユエル様が怖いのじゃない!

 でも、どうしよう……。

 背が、痛い。

 背の傷が、痛くてたまらない……! 古傷から、疼痛がじわじわと全身に広がっていくみたいだ。鼓動が背に響いて傷を疼かせる。脈拍が速まり、胸を押さえても動悸は治まらない。

 顔を上げられなかった。

 ユエル様はわたしの顔を覗き込んではこない。そのままの姿勢で語りかけてくる。

「渇ききって昏倒してしまうなど、これからは、ミズカのことを叱れないね」

 ユエル様の声は柔らかかった。笑みが含まれ、おどけたような軽さがある。その口調のお陰で少し緊張がほぐれてきた。

 大丈夫ともう大丈夫と心の中で何度も繰り返し、わたしはそろりと顔を上向かせた。ユエル様は穏やかな緑の色をその双眸に湛えていた。

「うっかり、油断してしまったな」

「……きっと、疲れが出たんですよ。いろいろありましたから」

「そうだな。アリア達が来て、すっかり騒がしくなった。それで気疲れしたのかもしれないな。とくに、イスラには」

 嫌味のない口調でそう言って、ユエル様は浅いため息をついてみせた。

 体の震えはどうにかおさまりつつあったけれど、動悸はやまず、声も喉の奥で引っかかってうまく発せられない。

 ふうっと息を吐き、呼吸を整える。そして自分を励ますためにも、明るい声をつくって話を続けた。

「ともかく、風邪とか肺炎とかじゃなくてよかったです。――あ、でも、風邪をひいて倒れたのなら、史上初の風邪ひき吸血鬼になれたかもしれないですよね? ちょっと……惜しかったりしませんか、ユエル様?」

「風邪でなくて?」

 ユエル様はようやくわたしの背に回していた腕をほどいた。

 わたしとユエル様の距離は変わらず近い。

 瞬きをし、改めて視線を上げた。そこにはユエル様の温顔がある。わたしを、じっと見つめている。

 胸はまだどきどきと落ち着かなく鳴っている。でも、さっきとは違う。

 こんな胸の鳴り方は……知らない。

 ユエル様の腕が離れた瞬間にホッとして、同時に残念なような寂しさも覚えた。手を伸ばし、ユエル様の腕を掴みたい衝動にさえ駆られた。

 胸がきゅぅっと締めつけられる。――この思いは、この痛みは、なに……?

 自分でもよくわからない不可思議な感情を、とりあえずは胸の奥底に押し込めて、「だって」と話を継いだ。

「だってユエル様、栄えある風邪ひき吸血鬼第一号になれたかもしれないじゃないですか」

「栄えある……ねぇ? もしかしてミズカは、私に風邪をひいてもらいたかった?」

 ユエル様はクスクスと笑っている。

「えっ、いえ、そんなことは……っ」

 わたしは慌てて首を横に振った。病に罹ってほしいなんて思ってないです、と。

 ユエル様は愉快げに微笑んで冗談口を返してくれた。

「ミズカの要望に応えられないのは残念だ。ひけるものならひいてみたいものだが、風邪を患わずにすんだのは、体質的な要因があるにしろ、ミズカのお陰だよ」

「え? でもわたし、何も……」

「髪を乾かしてくれたろう? それで湯冷めをせずに済んだ」

 ユエル様は優美な仕草で、白い指を銀の髪に通し入れ、さらさらと流した。

 形状記憶機能が備わっているとしか思えないユエル様の銀髪は、甘い微香を含んでいる。指から離れ、流れ落ちる様も綺麗だ。

 ユエル様の清艶な微笑に陶然と見惚れ、そしてまた顔が火照ってくる。

「……そんな、のは……」

 だって、風邪はひかないって、ユエル様言ったじゃない。

 だからやっぱりわたしのお陰なんてこと、全然ない。それなのに、わたしのお陰なんて言ってくれて、その上、どうして優しく笑いかけてくれるの、ユエル様……。

 ――何もできなかったのに。

 何もできず、ただうろたえていただけなのに。

 こんなに何もできないわたしなのに。

 胸が痛い。ユエル様の微笑みが優しい分だけ、胸の奥が苦しくなる。

 外傷の治りは早いのに、どうして動悸は即座にとめられないんだろう……!

 もどかしくて、苦しくて、……心が痛くて、また涙が滲み出そうになった。

「ミズカ」

 涙が零れるのを堪えようと、眉間に力を入れて再び俯いたわたしの頬に、ひやりとした白い何かが触れた。それがユエル様の指先と分かり、わたしは反射的に顔を上げてしまった。

 ユエル様の細められた深緑色の双眸が、わたしを見つめている。

「ミズカ、今夜のことだが」

「は、はいっ」

 ユエル様はわたしの頬から指を離してくれない。指がすうっと這い、顎に移動した。わたしを俯かせまいとする力があった。

「私の不始末にミズカを巻き込みたくはないのだが、ここに残していくのも気がかりだ。すまないが、つきあってほしい」

 ユエル様はため息をついた。

「あちらの会場では、私とはぐれることもあるだろう。面倒だが、片付けなければならないことがあるからね」

「……?」

 小首を傾げるわたしに、ユエル様はやれやれと肩を落として微笑みかけた。

 不始末とか片付けなければならないことって、なんだろう?

 訊きたかったけれど、訊かない方がいい気がして、口を噤んでいた。

「ミズカの傍にずっとついていたいのは山々なんだが、そうもいかない。その時はアリアの……この際イスラでも構わないから、できれば二人の傍にいるか、二人の言う通りにしていなさい」

 うっかり忘れそうになっていたけど、今夜は、亜矢子さんの招待を受けてパーティーに行くことになっていたんだっけ。そしてわたしはユエル様の「同伴者」として追従することになっていた。

「それからミズカ、あの我侭なお嬢さんの……」

「……亜矢子さんのこと、ですか?」

「そう、彼女には近づかないようにね。まぁ、向こうからミズカに近づくようなことはないと思うが……。とにかく近づかない方がいい。いいね、ミズカ」

「はい」

 念を押され、わたしは小さく点頭して応えた。わたしが頷くより先にユエル様の指は頬から離れていたけれど、わたしの目はユエル様から離れられなくなっていた。

 ユエル様は、アリアさんやイスラさんと違って、感情をありありとは面に出さない。感情表現が乏しいというのではなく、抑制がきいて、静水のように起伏が少ない。挙措の一つ一つが鷹揚で、それでいて威容を損なうことはない。

 典雅と優麗を人の形に模ったかのようなユエル様は、いつだって冷静沈着で、感情を露わにしない。

 たけど……ユエル様は内に炭火のような“熱”を抱えている……気がする。

 迂闊に触れれば焼け焦げてしまうような、炎だ。色を変えて揺らぐ炎ではない。音もなく静かに、けれど激しく燃えている。

 時折、その炎が深緑の瞳に宿る。

「ミズカ」

「はっ、はいっ」

 熱をはらんだ深緑色の熱視線を受けて、わたしは射すくめられたように、立ち竦んでいる。「わかりました」と応えるのが、精一杯。

 それでも、内心ほっとしている自分がいた。

 命じられることに、安堵していた。

 ユエル様は目を細め、鋭い視線を抑え込んだ。口角を僅かにあげて、微笑みの形をその唇に描く。

 わたしを安堵させるように、ふっと、やわらいだ笑みを見せてくれた。

「ミズカ、何も案ずることはないよ。……大丈夫だから」

「…………」

 大丈夫と、ユエル様も言った。イスラさんが、アリアさんが、イレクくんが言ったように、優しく。わたしを信じ込ませるように、繰り返す。

 大丈夫だと、不安がることはないのだと、わたしも思っていたかった。

 だから、わたしは頷いた。

 ユエル様にこれ以上の負担はかけたくなかった。だから笑って……上手く笑えなくてぎこちないものになってしまったけれど、「分かりました」と応えた。

 ユエル様は微笑みを返してくれた。

 その微笑は、落葉松からまつの枝からこぼれる旭光のように、眩しく美しい。

 微笑みの美しさに、わたしの心はまたも高鳴って乱れるのだ。

「大丈夫なんかじゃありません、ユエル様っ」

 頬を赤くして文句をつけるわたしを見て、ユエル様はさらに微笑みを深めるのだ。そしていつもと変わりない、悪戯めいた表情をして、わたしの心を解きほぐしてくれる。

 だから……、もしかしたらわざとなのかもしれない。

 ユエル様が、わたしにとびきり美しい微笑を見せてくれるのは。


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