34.繋ぎ止められたもの
素肌を打つ無数の水滴が痛い。
シャワーの湯が熱いのかぬるいのか、その感覚も遠かった。水音がひどく耳障りだった。
降り注がれる湯は、眦から伝って落ちるそれを流してはくれても消してはくれなかったし、止めてもくれなかった。
ただ、痛かった。
目頭が、鼻と喉の奥、そして胸が痛かった。
泣き腫らした目を小窓の外に向けた。
白々と夜が明けてゆく。空にかかる雲は多いけれど、雨の気配はない。
浴室の小窓から見える空は狭い。僅かに開けていた窓を閉め、シャワーの栓も締めた。
俯くと、髪からポタポタと雫が落ちる。
生気は足りているはずなのに、全身に力が入らず、気だるく、息苦しかった。
あたりが静かすぎて、耳鳴りがする。
「…………」
耳を塞いでも消えなかったそれは、耳鳴りなんかじゃない。
イスラさんの声が耳の内によみがえってくる……――痛みとともに。
* * *
イスラさんはより詳しい説明が必要だと思ったのだろう。
イスラさんは時折ユエル様を横目で見ながら、わたしに分かりやすいようにと言葉を選びながら語りだした。
「生殖者は、生殖の能力を与えられる代わりに死も与えられる。つまり……生殖者は種を残すという役割を果たせなければ、死ぬことになる。生殖者は、生殖者になった時点で生と死、その二つを同時に与えられるんだ」
イスラさんの口調は淡々としていた。きっとわざとそういう無機質とも言える口調にしているんだろう。茶化しもせず、深刻ぶりもしない。わたしをこれ以上動揺させないよう気遣ってくれてるのが話し方や表情から窺えた。
イスラさんの説明を聞きながら、わたしはアリアさんの話を思いだしていた。
アリアさんが言ったいた。
生殖者は体内に余分な生命が溜まっていくのだと。期間限定の能力なのだとも。そして眷族は、生殖者のみが持てる存在であるということも。
そうした説明を聞きながら、ユエル様の苦渋を滲ませた瞳を見ながら、何かが心に引っかかって、もどかしいような気持でいた。「生殖者」の全てを説明された気がしなかった。
それが、このことだったんだ。
気にかかっていたのに、……疑問に蓋を閉じていればいいと、そこから目を逸らしていたのは、わたしだ。すべてを知るのが、知らされるのが……怖かった。
目の端に映るユエル様は、寝返りをうつこともなく、氷の彫像のように静かに眠っていた。目覚める気配は未だ見られなかった。
「生殖者の体内に溜まる生命が、眷族を作る元になる……らしい。まぁ、科学的に立証されたわけじゃないけどね。そもそもこの体のつくりがどうなってるのかもわからない、あやしげな存在なわけだしね、俺達は」
歯切れの悪い口調と苦りきった表情に、イスラさんの心中を垣間見た気がした。ユエル様ほど自嘲的ではないけれど、イスラさんの茶色の瞳が翳りを帯びていた。
癒されることない孤独感や悲哀を、陽気な性質のイスラさんも、ユエル様と同じように胸中に抱えている。それを言葉の端々に感じられて、切なくなった。
イスラさんはとまどいを拭うようにして片手で顔を撫ぜ、一息ついてから、話を進めた。
「生殖者は生と死とを同時に与えられ、そのどちらかを選ばなくちゃならない。種を残すか、死か、それ以外に選択の余地はない。その上、期限付きだ。期限は生殖者によって長短の差があるけど、短くても百年はあるとみていい。ユエルは……もっと長いだろうな。俺とそう変わらないんじゃないかな」
「…………」
二百年近くの猶予はある、ということだろうか。
けれどその猶予期間を、ユエル様があとどれくらい有しているのか、わたしは知らない。
何も……知らない。ユエル様のことを、……何も。何も分かってなかった。
「繰り返すけど、この期間中に生殖者は眷族を持ち、種を残す。期間内であれば、眷族は何人でも持てるし、子供だって何人でも産めるし、産ませられる。生殖の期間が終われば子を作ることはできなくなるけど、代わりに、生殖者になる以前の状態に戻る。だから――」
イスラさんはわたしに微笑みかけて、「不安がることはないんだよ、ミズカちゃん」と言い足した。
だけど――、と、わたしは愁訴するような目をイスラさんに向けた。
期間内に種を残せなければ、たとえ眷族を持ったとしても、死は免れないのでしょう?
子を成さなければ、眷族には何の意味もない。ただのお荷物だ。
眷族であるわたしには、ユエル様は必要な存在だ。ユエル様あってこそ、わたしは今、ここにいる。
だけど、……だけど、ユエル様にとってわたしは――…………
「ミズカちゃん」
わたしの思考を断ち切るように、イスラさんが低い声でわたしの名を呼んだ。
「生殖者はね、生殖者になることそれ自体は選べないけど、生と死、そのどちらを採るか、その選択の自由はあるし、長い猶予も与えられてる。熟慮の余地は与えられてる。ユエルがミズカちゃんを眷族に選んだのは、ユエルなりに考えた結果のはずだ」
「…………」
頷けなかった。否定もできなかった。
だってわたしは知らない。
ユエル様に何度も訊こうとしたのに、ずっと、訊けずじまいでいたから。
なぜわたしを眷族にしたのですか、と。なぜわたしだったのですか、と。
理由を知りたかったのに、知るのが怖くて、逃げていた。
逃げながら、わたしは心のどこかで期待を持ってた。ユエル様の態度に言葉に笑顔に……何かを期待していた。
それがどんな「期待」だったのか、実のところ漠然としてて、わたし自身よく分からない。でも、禁忌に触れる思いだった。
わたしは顔を俯かせ、膝の上で組まれた手を見つめた。
力もなく、何の役にも立たない、小さな手だ。ユエル様を助け起こすこともできなかった、無力な手。わたし。
「ミズカちゃん」
イスラさんがわたしの名を呼ばわり、はっとして顔を上げた。
「ミズカちゃんはね、もっと自分を正しく見た方がいい」
そう言って、イスラさんはわたしに手を差し出した。その手の上に、クリスタルガラスのイヤリングが二つ、のっていた。それは、割れることなく、わたしの手に戻った水色のイヤリング。一つは失くしたと思い、ユエル様が拾ってくれていた。もう一つはさっき落としたものだ。
イスラさんの手からそれを受け取った。
ひやりと、冷たかった。
イスラさんから生殖者の話を一通り聞いた後、イスラさんに送られて自分の寝室へ戻った。
眠って、少し気持ちを落ち着かせた方がいいとイスラさんに言われ、しばらくは横になっていた。けれど眠れるはずもなく、思考が堂々巡りをするばかりで、何度となく寝返りをうってはため息をついていた。そうしている間に、日の出の間近い時間帯になっていた。
一睡もできず、わたしは重い身体を起こし、ベッドから降りてバスルームへと向かった。
途中、足を止めた窓ガラスに映った自分の顔を見た。
――ひどい、顔。
泣き腫らし、充血した目が痛い。頬は、流れた涙のせいでこごってる。髪もくしゃくしゃで、ユエル様に出逢う前の自分に戻ったみたいだった。
なんて惨めな姿なんだろう。
こんな顔のまま、皆には会えない。――ユエル様に、こんな顔、見せたくない。
シャワーを浴びることにしたのは、目の腫れをひきたかったからと、気を落ち着かせたかったから。眠気はもとよりなかったけれど、茫漠としてる頭が少しでも晴れればいいとも、思った。
でも結局、シャワーでは何も洗い流せなかった。まだ頭はぼうっとしていて暗い気持ちも晴れなかった。
シャワーを浴び終えたわたしは、夜着の上にカーディガンをはおり、今度はキッチンへ向かった。
薄暗い廊下に、ヒタヒタという湿った足音がかすかに響く。
ただ足を上げて踏み出すという単純な動作ですら億劫だった。
外はそろそろ陽の光が満ち始めていたけど、屋敷の中はまだ暗い。暗いといってもさほどでもなかったから、廊下の明かりは点けなかった。
陽の光を浴びると灰になってしまうという、お話の中の吸血鬼のように、このまま灰になって消えてしまえたらいいのに。そんな埒も無いことを自嘲気味に考えていた。
ぼんやりしすぎていたのだろう、背後から「ミズカちゃん」と声がかかるまで、人の気配をまったく感じとれず、飛びあがらんばかりに驚いてしまった。
慌てて振り返ったそこに、アリアさんがいた。
「――あ、お、お帰りなさい、アリアさん」
ちょうど出先から戻ってきたところらしかった。
「ただいま、ミズカちゃん」
アリアさんは小首をかしげ、にっこりと微笑んだ。
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら?」
「い、いえ……」
アリアさんの話し方は少し舌足らずなせいか、おっとりとして柔らかい。ほっとする懐かしさがある。
「ずいぶん早起きなのね、ミズカちゃん。まだ、やっと五時を回ったところよ?」
アリアさんは結い上げていた髪をほどき、軽く頭を振った。
ふわりと広がったアリアさんの豪奢な金髪は、まるで太陽の光を集めたかのようにきらきらと輝き、目を瞠るほどにキレイだ。それに、バニラみたいな甘い香りがした。
アリアさんは、その笑顔も声音も美しくて……心に沁みいってくるほど温かい。
アリアさんは青色の双眸を細め、じっとわたしを見つめてきた。
「ねぇ、ミズカちゃん? もしかしてミズカちゃん、眠ってないんじゃない? 目が赤いわ」
「――あ」
わたしはとっさにアリアさんから目を逸らしてしまった。
笑って、「そんなことないです」とごまかせばよかったのに。
下唇の内側を、きゅっと噛んだ。胸の痛みをそこにすり替えようとし、結局それも失敗した。
俯き、返答に窮しているわたしを、アリアさんはどう受け取ったろう。呆れたかもしれない。
それとも――……
ふいに、風が動いた。
甘い香りが近づいて、気づくと、わたしはアリアさんに抱擁されていた。
「いいのよ、ミズカちゃん」
アリアさんの手が、まだ湿っているわたしの髪を、ゆっくりと撫ぜる。
「言わなくてもいいの。無理をすることはないのよ、ミズカちゃん」
「…………」
「染み付いた癖や習慣ってなかなか抜けないものよ。性格はそう簡単に変えられるものじゃないわよね? それに、あたしはミズカちゃんのそういうところ、好きよ? もっとも」
アリアさんはわたしの身体をそっと離し、両手を握った。
「ミズカちゃん自身にしてみたら、ちょっと苦しいことかもしれないわね?」
「……っ」
不覚にも、ゆるんでいた涙腺からぽたぽたと大粒の涙が零れ落ちてしまった。両手をアリアさんに握られていたから、拭うこともできない。
「…………」
アリアさんはもう一度わたしを抱き寄せて、髪を撫でてくれた。
涙がとめどなく溢れて、嗚咽を堪えるのが精一杯だった。
「ねぇ、ミズカちゃん。あたしは今のミズカちゃんがとっても好きだから、性格を改めろなんて言わないし、改めた方がいいなんてことも、思わないわ。だけどね、我慢ばかりすることはないのよ?」
アリアさんは穏やかな音律で言葉を紡ぐ。
「ミズカちゃんの心が望むことを、ミズカちゃん自身が叶えてあげて? 心を縛りつけたままじゃ苦しいばかりで何もできないわ」
「……っ」
瞼をきつく閉じても喉を押さえても、涙が後から後から溢れてきて、止められなかった。
「大丈夫よ、ミズカちゃん」
アリアさんはわたしの背を軽く叩いて、励ましてくれた。
「大丈夫。何があってもあたしはミズカちゃんの味方よ? もちろんあたしだけじゃないけれど」
「……わたし……」
「だからね、ミズカちゃん。ミズカちゃん自身もミズカちゃんの味方になってあげなきゃ。そうして、ミズカちゃんの思うこと、したいことできることを、すればいいの」
「…………」
アリアさんの優しい声が胸に沁みいってくる。
アリアさんの温かな腕とやわらかな胸、甘い香りが、揺れ惑っていたわたしの心を宥め、落ち着かせてくれる。そして、気づかせてくれた。
――ああ、そうだ。
わたしはわたしのできることを、できうる限りですればいいんだ。
全てがふっきれたわけじゃない。だけど、肩の荷は少しだけ軽くなったような気がした。
ユエル様がわたしを必要としてくれる間だけでも、傍にいて、お世話をさせてもらおう。
そのために、眷族であることは……眷族の存在の意味は、忘れてしまおう。
ユエル様がわたしにそれを言わないのなら、わたしが知る必要のないことだったのだから。
わがままと分かっていても、わたしは望まずにはいられない。
ユエル様を失いたくない。――ユエル様の傍にいたい。
だから協力しよう。覚悟を決めよう。
もしかしたらユエル様は、わたし以外の眷族を持とうと決意したのかもしれない。生殖者として必要な“眷族”を得る決心を固めたのかもしれない。
そのために亜矢子さんのパーティーに行くと決めたのなら、わたしはそれに従うよりないのだから。