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33.慟哭

 イスラさんの力を借りて、二階の寝室にユエル様を運び、どうにか人心地はついた。といっても不安が拭われたわけじゃない。

 イスラさんがいなかったらって考えると怖かったし情けなくて、気分は沈下していくばかりだ。

 ユエル様は一向に目覚める気配を見せない。息遣いは多少落ち着いたように思えるけど、顔色は蒼いというよりもはや白く、唇も血の気がない。

「そんなに心配しなくても、一晩寝てれば回復するって」

 どうしたらよいやらわからず右往左往していたわたしに、イスラさんは椅子と白湯を用意してくれた。

「そこに座って。で、ちょっと落ち着いて」

 促されるまま腰かけ、イスラさんからグラスを受け取った。

 イスラさんはにこにこ笑いながら、「大丈夫だって」というけれど、やっぱり気が気でなくて、すぐに行動を起こせるよう浅く腰かけ、ユエル様の様子を絶えず窺っていた。

 耐熱性のグラスからほのかに立ちのぼる湯気の向こう、ユエル様の寝顔はひどく儚く見えた。

「こんな風に昏倒するなんて、今までなかったんです。渇ききってる様子もなくて……」

「今まで、一度も?」

 イスラさんは念を押すかのように、訊き返してきた。

「今まで一度もこんな風に倒れることはなかった?」

「……あ、いえ、初めて逢った時には、こんな風に気を失っていて……」

「ああ、行き倒れてたんだって? アリアから聞いたよ」

「でも、それ以後はこんなこと一度だってありませんでした。渇ききってふらついたり立てなくなったりするのはいつもわたしの方で」

「そっかぁ。まぁユエルのことだから、ミズカちゃんに無様なとこ見せたくなくて踏ん張ってたんだろうな。で、結局この様か。よく持ちこたえられたもんだと感心はするが、こうなっちゃ本末転倒だろうに」

 イスラさんは心底呆れかえったようにため息をついた。それからわたしの方に向き直って、この状況の説明をしてくれた。

「さっきも言ったけどね、生殖者に限定された発作みたいなもんなんだよ、この症状は」

「発作?」

「そ。軽重はあるけど、急にくるんだよ、こういう発作的なもんが」

 イスラさんは顎に手を当て、顔をしかめた。どう言えばいいかなぁと思案に暮れつつも、わたしに解かりやすいよう、言葉を選びつつ話してくれた。

「生殖者はね、生殖するための“生命”を体内に溜め込んでるんだよ。それは自分だけのじゃない“生命”なんだ。そのいわば過分な“生命”が時々……う~ん、なんて言ったらいいのかなぁ、暴れるっていうのかな? 制御できなくなるんだよね」

「…………」

「そうだなぁ。例えるなら、人間の妊婦における“つわり”みたいなもんかな」

 わたしは目を瞬かせ、イスラさんを見つめた。

「つわり、……ですか?」

「うん、ちょっと違う気もするけど、まぁだいたいそんな感じ。急激に渇きが襲ったり、発熱したり、脱力して立っていられなくなったりするわけ。一種の警告みたいなもんだね」

「そ、んな……。初耳です、そんなの……」

「そう度々あることじゃないからね。だからユエルも言わなかったんじゃない? 無用な心配をかけることないだろうってさ」

「…………」

 胸に、重い痛みが走った。

 イスラさんの言う通りなんだろう。ユエル様はわたしを気遣って、隠していたのに違いない。

 わたしには何もできないから。わたしには……どうすることもできないから。

「それに一時的なもんだからね。手っ取り早く生気を飲んで渇きを癒しちまえばすぐ回復するし。っていうか、そもそも“生命”を解放しちまえばそれで済むんだけどなぁ。長く溜め込みすぎなんだよ、ユエルは」

 やれやれと肩を落とすのはこれで何度目だと文句をつけるように、イスラさんはユエル様を見下ろして、何度目かのため息をついた。

「生気を飲んだらこの状態は……治るんですよね?」

 胸の痛みを押しやり、イスラさんに尋ねた。

「ん? ああ、ま、そうだな」

「わたしのでも構わないんですか?」

「いや、それは……」

 イスラさんは言いよどんだ。

 やっぱり、「主」は「眷族」の生気を飲めないんだ。そう思ったのに、それはあっさり、否定された。

「そりゃまぁ、ミズカちゃんの生気でもいいとは思うけど……」

 イスラさんは顎を掻き、ユエル様に目をやった。

「ユエルがそれを望むとは思えないな。ユエルはそういうとこ変に潔癖だからなぁ。ミズカちゃんに負担かけたくないんじゃないかな。今こうなってる時点で負担かけまくってるとは思うけど」

「でもっ」

「いいよ、俺のをやるから。後で知ったらめっちゃ嫌な顔するだろうけど」

「イスラさん、でも、そんな……っ」

 わたしが遠慮すべきことではないはずなのに、申し出を断ろうとしてしまった。

 イスラさんはニッと歯を見せて、明るく笑った。

「いいっていいって。俺今飲んできたばっかりだから。それにユエルの嫌がる顔見るのはけっこう愉しいし」

 わたしを気遣ってそう言ってくれたのだとは思う。……本音も、半分くらいはあったろうけど。

 あ、でも意識を失ってるのに、どうやって生気を飲ませるのだろう?

 ユエル様の意識がなくても飲ませられるものなの?

「ん~、しっかしユエルも黙って寝てりゃ可愛いんだけどね。眠れる森の美女ならぬ美男だよね。美女なら目覚めのキスも悪くないけど、ユエルじゃなぁ……」

 イスラさんはユエル様の手を取り、苦笑いを浮かべた。

「あ、ミズカちゃん、今のユエルにはナイショにね。俺、まだ命は惜しいし」

 本当にイスラさんは、場の空気を和らげるのが巧みだ。

 イスラさんの明るい口調と笑顔につられるようにして、思わず口元がほころんだ。

「はい、黙ってます。わたしもイスラさんには消えてほしくないですから」

 そう言って、笑って返すこともできた。

 イスラさんは、ユエル様の手を取って持ちあげ、自分のうなじにあてた。イスラさんは僅かに眉をしかめ、しばらくそのままじっとしていた。ユエル様に生気を飲ませているのが分かる。飲ませるというより流しこんでいるという表現の方が正しいだろうか。

 ああ、ああして飲ませるのかと、得心した。

 生気をユエル様に流し込んでいる間は一言も発せず、イスラさんの眉間に力みが見られた。苦しそうではなかったけれど、やっぱり多少の労力がかかるみたいだ。

 やがてユエル様の唇に血の気が戻りはじめ、目覚めはしなかったけれど、息も静かで安らいだものになっていった。

「――もう、大丈夫」

「ありがとうございます。イスラさん、……わたし……」

「不安だったよね、ミズカちゃん。……もう大丈夫だから」

 そう言って、イスラさんはわたしの髪をくしゃくしゃと掻きやる。

 大丈夫、大丈夫と、繰り返して。

「……はい……」

 幼い子供に戻った気分だった。

 スンッと鼻をすすり、目頭に滲んだ涙を隠すために俯いた。

 イスラさんの優しさが心に沁みいってきて、その温かさについ涙腺が緩んでしまった。

 イスラさんだけじゃない。アリアさんもイレクくんも、出逢って間もないわたしにとても優しくしてくれる。こんな風に慰めてくれたり元気づけてくれたりする。

 ……ユエル様と出逢う前……まだ人間だった頃、他人からそんな風に接せられたことのなかったわたしは、そうした優しさに不慣れで、どうしたらいいのか分からず、無口になってしまう。ありがとうの一言を伝えるのが精一杯だ。

「まったく、ユエルのやつも不甲斐ない。ミズカちゃんに心配ばっかかけて」

 イスラさんは、「なぁ?」と同意を求めてくる。

「そんなことは……」

 そんなことないです。不甲斐ないのはいつだってわたしの方なのだから。

 ユエル様は……そりゃぁ時々はからかって、冗談半分に意地悪を言うこともあるけれど、本当はとても思いやりのある優しい方なんです。と、返したかったのだけど、何故だか気恥ずかしくなって、口を噤んでしまった。

 イスラさんから手渡された、今ではすっかり冷めてただのお水になってしまった白湯を飲み、口内と喉を潤した。

「だいたいもうちょっと焦るべきなんだよ、ユエルは。まぁまだ期間は残ってそうだけど、ギリギリには違いないんだし」

 ――あ、また“期間”、だ。

 なんだろう……。聞き流せない。

 顔をあげ、ためらいを押しやってイスラさんに尋ねた。

「……あの、期間って……、それって、眷族を持てる期間……ということなんですよね?」

「うん? ああ、そうだよ。ユエルの生殖期間、あとどんくらい猶予あるか知らねーけど、期限差し迫ってんだよな? だからこんな風に倒れもするんだし。とっとと解放してやんないと」

「…………」

 何故か、胸が騒いだ。

 だって、「差し迫ってる」なんて。生殖の期間を過ぎてしまったら、何か良くないことでも起きるの?

 イスラさんは気難しげな顔をして腕を組み、穏やかな寝息をたてて眠っているユエル様を睨みつける。そして、イスラさんは真顔になって言った。

「期限切れになって消えちまうなんて、赦されねーぞ、分かってんのか、おい、ユエル?」

「――……え……?」

 今、イスラさん、なんて……?

 全身が凍結したように固まった。けれど心臓だけがやかましく鳴りだして、指先が震えだす。

 イスラさんが何を言ってるのか……声は聞こえているのに、理解できない。

「種を残さずっていうか、溜まった“生命”を解放しないまま期限切れになったらそれで終わり、だろ? そうなったらミズカちゃんも一蓮托生なわけで」

 な、に……? イスラさん、何を言ってるの……?

 終わりって、どういうこと……?

「イスラさん……期限って……期限が切れたら終わりって……、それって……死ぬってこと、ですか?」

 わたしの声が、遠い。

 わたし自身が喋っているはずなのに、まるで他人の声を聞いているみたいに、ひどく遠い。

「ユエルだってそれは承知してるだろうに……って、え? ……ミズカちゃんっ!?」

「――……っ」

 わたしの手の中にあったグラスが床に落ち、砕け、派手な音を響かせた。

 膝は濡れ、白湯がぽたぽたと滴り落ちる。

 イスラさんは片手で口を塞ぎ、後悔に顔を歪めた。

 わたしは愕然とし、震える声でイスラさんに繰り返し問うた。

「このままだとユエル様、消えて……死ん……で、しまうんです、か……?」

「……ミズカちゃん……」

「嘘、でしょう? 死んでしまうなんて、そんな、……そんなっ!」

「…………」

 俺が言うべきことじゃなかった。イスラさんはそう言って、わたしに謝った。まさか聞かされていなかったとは、と低く唸るように呟いた。

「う、そ…………そんな、そんな……っ」

 イスラさんは否定しない。苦しげに眉をひそめ、わたしから顔を背ける。

「……そ……んな……っ」

 冷たくなった両手で顔を覆った。

 嘘。嘘、そんなのウソだ。

 ユエル様が消えて……死んでしまうなんて、嘘……!!

 全身が戦慄き、悲鳴を上げている。

 嘘だと言ってと、わたしの心は不乱に叫んでいる。


 ユエル様……! ユエル様、ユエル様……っ!!


 ガラス窓の向こう、闇は深く、夜風が梢を切りつけるようにして渡り、針葉樹の森をひしめかせている。

 昏々と眠り続けているユエル様のように、月のない幽寂な夜はまだ明けそうもなかった。

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