32.救い手
あの雨の日と、……あの雨の港で出逢った時と同じだ。
明け方だったか、日暮れ時だったか、季節も何も憶えていない。
ただ――、雨の冷たさだけは、記憶に留まっている。
苦しげに眉をひそめ、地べたに行き倒れている銀髪の青年の姿も……――
今、あの雨の日と同じように、ユエル様は意識を失い、倒れている。
柳眉をしかめ、その下では長い睫が僅かに震えている。血の気を失った唇の隙間から零れ出る絶え絶えな吐息は、いかにも苦しげなものだった。
握られたこぶしに力はなく、けれど、青い血管が手の甲に濃く浮き上がっていた。
ユエル様の下でもがきつつ、ユエル様の肩や背を叩いた。
「ユエル様! ユエル様っ!!」
苦しげに寄せられた柳眉や瞼は時折ぴくりと動くのに、目が開く気配はなかった。美しい湖水色をした緑の瞳を見せてはくれなかった。
ユエル様の白い面に薄い氷が張ったようだった。息は熱いのに、ユエル様の肌はどんどん冷たく蒼くなっていく。
「ユエル様、目を……目を開けてくださいっ! ユエル様っ!」
どんなに体を揺すっても呼びかけても、ユエル様は目を開けてくれず、何の反応も示してくれない。
ユエル様の肩を掴む手が震えだして、力が入らない。背筋が冷たくなっていくのは床が冷たいからだけじゃない。
怖くて堪らない……! ユエル様がこのまま目を覚まさなかったらって、そう考えただけで背筋が凍る。そんなことにはならないって否定しても不安は募って、それに押し潰されそうだった。
どうしよう……! いったいどうしたらいいの……っ!?
成す術もなく床の上に共に倒れこんで、わたしはユエル様を助け起こすことすらできない。
あの日も、そうだった。
あの日、あの遠い日……ユエル様と出逢ったあの雨の日のことは、はっきりとは憶えてない。だけど、港を行き交っていた見知らぬ人達に助けを求めたことはなんとなく憶えている。必死になって周りに助けを求めた。何人かの親切な方々が足を止めて、救いの手を差し伸べたくれた。そうして、奉公先の屋敷まで運んでもらった。
わたし一人ではユエル様を助けられなかった。他人の手を借りねば屋敷に運ぶこともできなかった。助けて下さいと声を張り上げるしかことしかできなかった。
今もまた、わたしはユエル様を助けられないでいる。ユエル様に何が起こったのか、それすら知らずにいる。
なんて……なんて無力なんだろう、わたしは……!
昔も、今も……!
「…………っ」
己の非力さが情けなくて空しくて、泣きそうになった。けれど口の端をきゅっと結んで、涙を堪えた。
泣いている場合じゃない! こんな時に泣いたってどうしようもないもの!
今は周りに誰もいなくて、わたししかいないのだから!
己の非力さを嘆くより先に、今はユエル様を、なんとかしなくちゃ……!
このままユエル様が気づくのを待っているなんて悠長なことはできない。
でも、どうしよう!? ユエル様の下敷きになったままじゃ、「なんとか」しようにも、「なにも」できない。
ユエル様は、わたしの左肩に額を乗せている。やわらかな銀の髪が、わたしの頬に、鼻先に、唇にかかっていた。
さっきまでドライヤーの熱を残して温かかった銀の髪は、霧雨のように冷たくなっている。
このままじゃどんどん体温を奪われていってしまう。
「んっ、ん……っ、くぅぅっ」
腕に力を入れて、ユエル様の肩を押し上げてみた。
ユエル様は目覚めない。肩はなんとか持ちあがったけれど、それだけではどうしようもない。
ユエル様の体をどかすだけなら、きっとできる。手足に力をこめて思いきり伸ばせば、ユエル様の下から這い出ることはできるだろう。
だけどそんなことをしてしまったら、ユエル様は床に叩きつけられてしまう。冷たい床にうつ伏せになってしまう。強引に押しのけてひっくり返せば、仰向けになった拍子に頭を床に打ちつけてしまう。……そんなこと、できない。
せめて、床にタオルを敷いて、そこに仰臥させられたらいいのに。そうすれば介抱のしようがあるのに。
――ああ、でも! 「介抱」って、いったい何をどうすればいいんだろう?
生気を飲ませればいいのかもしれないけど、昏倒しているユエル様にどう飲ませればいい? わたしの生気なんていくらでも飲んでもらって構わないのに。その方法が分からないなんて!
「…………」
……不意に気がついた。
ユエル様はわたしの生気を今まで一度たりとも飲んだことがない。その必要がなかったからとはいえ……もしかして、主たるユエル様は、眷族であるわたしの生気は飲めないの?
だとしたら、わたしはいったい何のための眷族なの? 何のためにユエル様の傍にいるの?
こんなにも役に立たないのに……! 今もこうして、ユエル様を助け起こすことすらできないでいるのに!
「ユエル様っ!」
半泣きになりながら、わたしはユエル様の身体を起そうと、再び全身に力を込めた。
やっぱり、まずはユエル様の下から這い出て、それからユエル様を仰向けさせた方がいい。
「……っ、ユエ…ル、様っ」
肘や肩甲骨や腰骨が硬い床にあたって痛かった。けれど、そんな痛みよりもユエル様を助け起せないもどかしさのほうが辛かった。
ふと、思い出した。
――そうだ、イレクくん!
イレクくんがいる。
アリアさんとイスラさんは出かけてしまったけれど、イレクくんは今この屋敷に残ってる。大声を出せば、二階の北端の部屋にいるイレクくんの耳に届くかもしれない。とても離れていて声が届く可能性は低いけれど、それでももしかしたら気づいてくれるかもしれない。
そんなことを頭の片隅で思いついたその時だった。
こちらへ近づいてくる足音に気がついた。もしかしてイレクくん? そう思ったけれど、違った。
「あ~あぁ、やれやれだぜ。アリアのやつ、こき使いやがって」
という暢気な声が洗面所の戸の向こうから聞こえ、直後、引き戸が勢いよく開けられた。
「しかもたいして美味くもない生気ばっかだったし……って、……あ」
洗面所の戸を開けたのはイスラさんだった。
イスラさんは重なり合って床に倒れているわたしとユエル様を見るや絶句し、一瞬硬直した。その後すぐバツの悪そうな顔をして目を泳がせ、そのまま後退って、そぅっと戸を閉めようとした。
「イッ、イスラさんっ! 待ってっ!」
わたしは声を絞り出し、イスラさんを呼び止めた。
「イスラさん、待って、行かないでっ! 助けて……助けてください! ユエル様を助けて!」
わたしの必死の叫びに、イスラさんは非常事態であることを察してくれたようだ。
「あ、ああ、ごめん。つい勘違いしちゃって」
「い、え、……あの、か、勘違いって……どんな勘違いを……っ」
ユエル様の身体の下でもがきつつ、イスラさんに訊き返した。悠長なことを言ってる場合じゃないのに、暢気顔のイスラさんにつられてしまった。
「こんなところで大胆な、というか、せっかちなとか、まぁ、そんな具合に」
眉尻をさげて笑いながら、イスラさんはユエル様の様子を覗き見る。そして、おそらくはユエル様に、「それどころじゃないらしいな?」と声をかけた。
「なっ、何のことですか? いえ、それよりユエル様を……っ」
「あ、そうだね。このままじゃ話しづらいし。……はいよっと。ミズカちゃん、ほら、出られる?」
イスラさんはわたしの訴えを聞き入れ、面倒くさげにではあったけれど、ユエル様の襟首を掴んで持ち上げた。
「苦しかったでしょ? 大丈夫、ミズカちゃん?」
「わたしは大丈夫です。それよりもユエル様が」
ユエル様の下から這い出たわたしは立ち上がることもできず、ユエル様のバスローブを掴んだ。イスラさんに襟首を引っ張りあげられたせいで胸元がはだけてしまっていた。
イスラさんに体を持ち上げられ、そのまま床に転がされても、ユエル様は意識を取り戻さない。低い呻き声が漏れ、蒼ざめた顔が僅かに歪んだ。
「ユエル様、突然倒れて……呼んでも返事をしてくれなくて、目を覚ましてくれなくて、わたし……わたしっ、どうしたらいいか……っ」
ユエル様の腕を掴む手が、わなわなと震える。
「う~ん、まぁ渇いてはいるみたいだけど。……そんな心配そうな顔しないで、ミズカちゃん」
「でもっ」
イスラさんはその場に片膝をついてユエル様の様子を窺った。ユエル様の額に片手を当てて、それから軽くペチペチと叩く。そうしてからわたしの方に顔を向け、笑った。
「たぶん、まだ大丈夫だよ。頻繁にあることじゃないけど、生殖者にはつきものの発作だからね、これ」
「え……」
「まぁ、こんなところに放っておくのもなんだし。仕方ないから寝室まで運んでやっか」
やれやれと呟いてからイスラさんは腰を伸ばし、立ち上がった。
イスラさんは指を鳴らし、旋風を起こした。狭い所だったから、その風の影響で洗面台の上や棚に置かれたブラシや小瓶などがカタカタと音をたてて揺らいだ。
風はユエル様の身体を浮き上がらせた。ユエル様の両腕がだらりと下がる。それでも目を覚まさず、ただ少しだけ身じろいだのが窺えた。
わたしもふらつきながらもなんとか立ち上がり、それからイスラさんに頭を下げた。
「お願いします、イスラさん」
風がユエル様の体を冷やしてしまわないか心配だったけれど、ともかくユエル様を床に横たわらせたままでいられずにすんだことにホッとした。
「どういたしまして。ミズカちゃんのお願いならなんだってきくから。遠慮なく言って?」
「…………」
どう返答してよいものやら分からず、口ごもってしまった。
イスラさんはユエル様の容態を案ずる様子もなく(もちろん、内心では心配してくれてるのかもしれないけど)、にこやかな顔を崩さない。
イスラさんはそうやって、わたしを不安がらせないよう気遣ってくれているのかもしれない。
「それに、こいつに貸しを作っておくのも、悪くない」
冗談めかして、イスラさんはにやりと笑った。