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31.指先の熱

 髪もちょうどいい具合に乾いてきたから、ドライヤーのスイッチを切り、脇の棚にドライヤーを戻した。一度は手を離したけれど、ブラッシングは再開させた。

 ドライヤーの音が消え、代わりにしんとしたしじまが落ちてくる。呼吸の音、髪を梳く微かな音すら耳に着くほどの静けさだ。

 何か話さなきゃ。

 そう思って顔をあげた。その途端、鏡越しにわたしを見やっていたユエル様と目が合ってしまった。

「ミズカ」

「ユエル様」

 声まで、重なった。

 わたしは肩を竦ませ、ユエル様は眉を下げる。

「す、すみません。なんでしょう、ユエル様」

「いや。ミズカ……、何?」

「いえ、あの、ユエル様からどうぞ」

「……そう?」

 ユエル様はふっとため息をつき、それから肩越しに振り返ってわたしを仰ぎ見た。

「ミズカ、さっきはキッチンで何を?」

 テーブルの下にもぐりこんで、地震があったわけでもあるまいにと、ユエル様はからかうような笑みを浮かべた。

 その笑顔のおかげで、少しだけ気が楽になった。

 ああ、いつものユエル様の笑顔だって、ホッとした。

 だけど、なんだろう……? ひっかかるものがあった。

 いつものユエル様らしい笑顔ではあったけど、なんとなく違和感を覚えた。

 照明のせいだろうか?

 深緑色の双眸は薄暗く曇り、白皙の美貌に翳りが落ちて蒼ざめて見える。儚げなガラスの彫像のようだ。

「ミズカ?」

 ユエル様は鏡の方に向けていた体をずらし、首を傾げてわたしの顔を覗き込んできた。

「――あ、えぇっと、実は……ですね」

 ほとんど無意識に、わたしの左手は、左の耳たぶにあるイヤリングを確認していた。

 よかった。まだこっちのイヤリングはちゃんとある。

「失せ物を探してたんです」

「失せ物?」

「はい」

 わたしは持っていたブラシをドライヤーの置かれているのと同じ棚に置いた。

 ユエル様も椅子をひいて立ち上がった。ためらって一歩足をひいてしまったほど、ユエル様との距離が近い。

 バスルームに繋がる洗面所は、他の部屋に比べたら何分の一かの狭さで、その分どうしてもユエル様との距離は狭まってしまう。背後はもう洗面所のドアだ。あと一歩身を引けば背中がぶつかる。

「失せ物って、もしかしてこれかな、ミズカ?」

「え?」

 ユエル様のてのひらに、水色のそれが乗っていた。わたしが探し回っていた失せ物だ。

 ハートの形をした、けれどまるでため息を模ったかのような、ガラスのイヤリング。

 光を受けて、ちらちらと色を変えていた。



 ユエル様はそれを、ここ……つまりバスルームで拾ったのだと言った。

 たぶん、お風呂の支度を整えようとしていた時に落としたんだろう。思い至らなかった自分の迂闊さが情けなくなった。

「すぐに返そうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。不安にさせてすまなかったね」

「……っ」

 ユエル様がわたしに詫びてきた。

 な、なんですか、ユエル様!? そんな風に優しいのは、神妙なのは、ちょっとズルイですっ!

 それにユエル様が謝るようなことじゃないのに! 落としたのはわたしで、ユエル様のせいなんかじゃないのに!

 赤くなった頬を隠したいということもあって、わたしは肩をすぼませて頭を下げた。

「とんでもないです! 拾ってくださってありがとうございました、ユエル様」

 とてもじゃないけれど真正面からユエル様の顔を見ていられなくて、落ち着かなく瞬くをして、ユエル様の手の上にあるイヤリングに視線を固定した。それを受け取ることもできずにいた。

「見つかってよかった。それに割れても欠けてもないみたいだし……。――あ、もうこっちの方もはずしておこうかな。また落としたりしちゃったらタイヘンだから……」

 左の耳に、再び手をかけようとしたその時だった。

「これは、アリアが選んだのかな?」

 ユエル様に尋ねられ、わたしは顔を上げた。

 どくんと、鼓動が跳ねた。

 憂いの含まれたユエル様の嫣然とした微笑が見上げたそこにあり、じっとわたしを見つめ返してくる。

「は、はい、そうです。今日、服とかアクセサリーとか色々と買ってくださって」

「そう。さすがアリアだね。いい見立てだ」

「えぇっと、その……」

 なんと応じればいいのか。わたしは曖昧に言葉を濁した。

 どきどきと心臓が痛いくらいに鳴って、体中が熱くなってくる。

 こんな静かな空間だ。鼓動がユエル様に聞こえてしまうじゃないだろうかって、そう思ったらさらに恥ずかしくて、息が詰まりそうだった。

 ユエル様はそんなわたしの動揺に気づいているのかいないのか、すっと手を伸ばしてイヤリングのない方の右耳に触れてきた。

「ミズカに、よく似合ってる」

「……っ」

 ひゃっ、と、声にならない声があがった。思わず眉間に力がこもって目を瞑ってしまった。

 身体ががちがちに強ばって、恥ずかしくて居たたまれないのに、身を退くこともできなかった。

 うっすらと瞼をあげると、ユエル様の優艶なまなざしとぶつかった。ユエル様はわたしの耳たぶを指先で抓む。そして囁くような声音で話を続けた。

「イヤリングは落としてしまいやすいからね。いっそ、ピアスホールを開けてしまおうか」

「は、……え、あの、ピ、ピア、ス、ですか?」

 平常心ではとてもいられず、声も上擦ってしまう。

 手を離してくださいと訴えることもできない。

「開ける時は少し痛むけれどね。その方が楽でいい。このイヤリングもピアス用の金具に付け替えればいい」

「はぁ……」

「私が開けてあげよう。ファーストピアスも私が用意するから」

「…………」

 ユエル様の声は耳に届く。鼓膜を叩いているのはわかるけれど、何を言ってるかはちっとも頭に入ってこなかった。それよりも、自分の心音の方がうるさくて、こめかみが痛んでくるほどだったから。

 だって、ユエル様の顔が近づいてきてて! ユエル様の深緑色の双眸がわたしを間近に映してて! ユエル様の両手が、いつの間にかわたしの頬を挟んでて! ユエル様の熱い息が、額にかかって……っ!

 心臓を殴られているみたいだ。鼓動は速まり、胸が痛くて堪らない。

 この状況は、いったい何……っ?

 いったい何が起こってるの? ユエル様は、何をしようとしてるの……?

「ユ、ユエ……ル、さ……っ」

 空間が圧縮されるように狭まってくる。――空気が違う。ユエル様がまとう空気が、いつもと違う。

 わたしは一歩、ユエル様から退いた。

 だけどそれ以上はもう後ろ下がれなかった。戸に肩がぶつかった。

 ガタッと戸が音をたてた。背が冷たい。背の傷が鼓動のせいで疼きだした。

「あ、の……っ、ユ、ユエ……ッ」

「…………」

 ユエル様の手は、まるで火そのものだ。焦げつくほどに熱い。その両手がわたしの頬を挟んで離さない。

 わたしの頬も熱いどころではなくなっていた。炎に炙られてるみたいだ。

 わたしは硬直し、ユエル様から目を逸らすこともできない。

 ユエル様はまじろぎもせずわたしを見つめている。ひそめられた柳眉の下、切なげな緑のまなざしがわたしを縛る。

「ユエル様……っ、あ、のっ」

 わたしはもうすっかりパニックに陥っていて、どうしたらいいのか分からなかった。

 ユエル様と呼ぶ声もみっともなく震えて、他の言葉も出てこない。

 ユエル様の様子がおかしいと、ここに至ってようやくはっきりと分かった。目の焦点も合っていない。わたしを見つめているようで見ていない。熱っぽく、それでいてひどく虚ろだ。

「ユエ……ル様っ」

 震えだした手をどうにか上げて、ユエル様の腕を掴もうとした、その時だった。

「……ミズカ……」

 熱い息とくぐもった低い声が耳朶に、甘い香りを含んだ銀髪が頬に、わたしの戸惑いを煽るように落ちかかってくる。

「ミズ……カ……」

 低くかすれた声がわたしの名を繰り返す。その声もやはり虚ろに響く。

「……ユエル様?」

 ユエル様の上体がぐらつき、傾いた。

「ユエル様……っ」

 途端、糸の切れたマリオネットのように、ユエル様の身体が前のめりに倒れ、足元から崩れた。

 倒れ掛かってきたユエル様の身体を支えきれず、わたしは戸に肩や頭をぶつけ、ずるずると崩れ折れる。そしてそのまま横倒しに倒れてしまった。わたしの体の上に、ユエル様の体がのしかかってくる。

「ユエル様……っ!?」

 突然昏倒したユエル様は、苦しげに眉根を寄せていた。目はきつく閉じられ、息も荒い。

「ユエル様? ユエル様っ!?」

 ユエル様は応えない。

 血の気の引いた唇は動いてくれなかった。わたしの名を呼んではくれなかった。

「ユエル様っ!」


 わたしの左耳から落ちたそれと、ユエル様の手から転げ落ちたそれが、冷たい床の上で僅かに触れ合い、光を弾いた。


「ユエル様っ!!」

 わたしの震える呼び声は、夜の帳に空しく閉ざされた。


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