30.消えるもの、消えないもの
不老であり長寿な“吸血鬼”のわたし達は、人間よりは丈夫だとはいえ、不死身ではないし霞でもないから、怪我をすることも普通にある。
激しく殴打したり肌が裂けたりしたら当然痛いし、血だって出る。たんこぶだってできるし、足首を捻ったりすることだってある。
人間と違うのは、治りが早いということ。そしてめったなことでは死に至らないことだろうか。
小さな擦り傷程度ならものの数分で跡形もなく治ってしまう。骨折などはさすがに時間がかかるようだけど、人間よりうんと早く完治するらしい。
早く治るからといって、痛みがないわけではない。
以前、ユエル様に訊いた事があった。
「わたし達の致命傷って、なんでしょう?」、と。
ユエル様は僅かの間を置いてからわたしの質問に答えてくれた。
「そうだね……、首を斬られれば死ぬよ、確実に。銃で脳や心臓を撃ち抜かれ、大量に出血したままの状態を放置しておけば、これもさすがに生きてはいられない。人間の致命傷と、さほど変わりはないよ」
まるで他人事のように淡々とした口調でユエル様は語って聞かせてくれた。
「だが、死ぬ時の様子が人間とは違う。私達は、存在そのものが消えてしまう。異界に吸い込まれるようにして“消える”。あとかたもなくね」
ユエル様の口調は平淡なものだったけれど表情は少し険しかった。
「み、見たことあるんですか、ユエル様?」
声を上ずらせながら“消える”その瞬間を見たことがあるのか尋ねてみた。それは確認に近かった。答えは予想通り、「ある」だった。
塵となって消える、その例えの通りだったという。
一瞬にして体が細かな粒子となり、それが八方に広がったかと思うと渦を描くようにして急速に収縮し、その中心の空間がひずんで裂ける。その歪んだ割れ目に粒子が吸いこまれるようにして、一瞬のうちに“消える”のだという。
「“消える”直前の状況にもよるとは思うが、だいたいそのような感じで消えてなくなるようだ。私も、多くを目撃してきたわけではないから必ずしもそうだとは言えないが」
言ってから、ユエル様は少しばかり後悔したような顔をしていた。
「私が見たその瞬間は、人間に狩られての結果ではなかったよ、ミズカ。あれは、事故のようなものだった」
わたしはきっと不安と恐怖を露わにし、顔面蒼白になっていたんだろう。わたしの心緒を気遣ってユエル様は言葉を足した。怖がらせてしまったかな、と悪戯っぽく笑って。
ユエル様は、面倒くさがりで気まぐれなところも多分にあるけれど、そうした気遣いをさりげなくできる、優しい方だ。
からかうようなことを言ったり強引に話をそらせたりごまかしたりするのは、そういった気遣いからくる言動なのだと、最近になってようやく分かり始めた。もちろん、わたしをからかって反応を楽しんでいるだけの時もあるけれど。
* * *
ぼんやりと“吸血鬼”の致命傷について思いを巡らせていたわたしに、ユエル様はやや間を置いてから尋ねてきた。
「ところでミズカ、今時分、こんなところで……テーブルの下に潜り込んで、いったい何を?」
「……あ」
失せ物を探しているのだと即答できず、声を詰まらせてしまった。
何も悪いことをしていたわけでもないのに、奇妙に後ろめたかった。
「あの、え、と……、実は」
けれど、ごまかしたり隠したりするのは良くない。というより、すべきじゃない。すぐにそう思い至って、床に落としていた視線をあげてユエル様を見た。
この時になって、わたしはようやく白緑色の夜着の上に黒サテンのガウンを羽織っているユエル様の姿を見、そして銀の長髪がしっとりと濡れていることに気がついた。
「ユエル様、また!」
「ん?」
「また髪を乾かさないままで!」
「……ああ」
ユエル様は髪をつまみ、「そのうち乾くさ」と、面倒くさがりらしいことを言う。
髪はちゃんと乾かしてから寝んでくださいと、いつも口を酸っぱくして言っているのに!
「せっかくのきれいな髪が傷んだらどうするんですか」
と、容姿端麗を誇るユエル様の心理をついて窘めてみたのだけど、ユエル様は「大丈夫」と笑って応え、そして本当に「大丈夫」なのだ。
特別な手入れをしている風でもないのに、ユエル様の銀髪はいつでもツヤツヤサラサラで、美しい。
たまにはわたしが美髪を保たせるオイル等を用いてブラッシングをしてさしあげるのだけど、そんな必要を感じないくらいに、ユエル様の銀髪は常に美しく、枝毛も見つけたことがない。
ユエル様の髪は形状記憶の機能が備わっているに違いない。髪にまで「人外的要素」が含まれてるんだ、きっと!
だから傷むこともなくて、濡れたまま寝たせいでついた寝癖だって、ちょっと手櫛で撫でつければ直ってしまうんだ。
おさまりが悪いくせっ毛のわたしとしては、羨ましくて堪らない。でも、だからこそ、ユエル様の髪はいつまででも美しくあってほしい思う。
わたしはめげずに訴えた。
「髪が傷まないにしても、ちゃんと乾かさないままではシーツや枕も濡れてしまいます。風邪をひくかもしれないじゃないですか! 風邪は万病の元なんですよ、美容にもよくありません」
ユエル様は苦笑して応える。
「大丈夫、風邪などひかないよ」、と。
……それもまた事実だった。
* * *
いわゆる人外的存在のわたし達は、病気に罹ることはないらしい。風邪もひかないし肺炎にも罹らない。インフルエンザウィルスに侵されることもない。胃潰瘍や胃下垂に悩まされることもなく、虫垂炎の痛みを知ることもない。
ただし「具合が悪くなる」感覚に陥る事はあるし、稀には発熱し頭痛を患うことはある。この発熱や頭痛のおもな原因は精神的な疲労であるらしい。
「存外デリケートなんだよ、私達の精神構造は。肉体が頑健なだけに、そうなるのかもしれないね」
ユエル様は心なしか皮肉っぽい笑みを作り、ため息をついて先を続けた。
「だからね、ありがたいことに風邪をひく心配はないんだよ」
「でもですね!」
ちょっと強気な態度に出て、言い返してみた。
「もしかしたら、ユエル様が初の風邪っぴき吸血鬼になるかもしれないじゃないですか! 第一号っていうのは、聞こえはいいかもしれませんけど、風邪っぴきっていうのはいただけないです!」
ユエル様はなにやらくすぐったそうな表情をしてわたしの小言を聞いている。
「いざ風邪をひいてしまったらどう治せばいいのかわかりませんし。お薬も飲めませんよね、丸薬とか粉薬とかは。あ、シロップ状のものなら大丈夫かな……? でも肉体の構造が人間と違うなら、薬もやっぱり効かないのかな? 病院には連れていけないし……」
最後のあたりはもう、わたしの独り言になっていた。
足を挫いた時は患部に湿布をはった。切り傷には傷薬を塗って絆創膏を貼った。このあたりの対処は人間と同じだ。
けど、もしも風邪をひいたら? 発熱したなら額を冷やすとか、とにかく身体を温めるとか、そんな程度の処置しかできない。
「風邪はひかないから、それらは無用の心配だよ、ミズカ」
ユエル様はさも可笑しそうに笑って、ぐるぐる巡ってるわたしの思考を止めてくれた。
「それに、具合が悪い時はおおよそ渇いている時だからね。飲めば、すぐにとはいかなくとも治るよ」
「…………」
人間の生気を飲めば、治る。
そのことについても、ユエル様は語ってくれた。
「生きる力、エネルギーとでも言うのかな? それ自体を、私達は私達自身の体内では作れない。人間の生気を飲むというのは、つまり“生きようとする力”、それを無理無体に奪うということだ」
ユエル様は“吸血鬼”の存在に対して、どちらかといえば嘲笑的だ。全否定とまではいかないけれど、蔑み、自嘲めいたことを時々口にする。
「人間に寄生し、人間のまねごとをして存在をごまかしてしか生きていられない、弱き存在だよ」
そんな風に言われる度、わたしは大抵押し黙ってしまう。ユエル様の思いが痛ましくて切なくなってしまうから。
けれど時には控えめに反駁してみたりもする。うまく言い表せないのだけど。
「でも、ユエル様。人間だって動植物を食べて、その命を繋いでます。奪っているのではなく、分けてもらってるって言ってはいけませんか?」
存在のありようは違っても、やっぱりわたし達だって、今こうして生きているのだもの。人間とは別種の存在だからといって、わたし達がいまこうして存在しているそのこと全てを否定してしまうなんて……悲しすぎる。
そんな思いはもうしたくなかったし、ユエル様にそんな思いを抱えたままでいて欲しくなかった。
ユエル様には、不遜に、艶やかに、たおやかに、優しく穏やかに笑っていてほしい。
「それに、一方的に寄生しているとは限らないです、きっと。ユエル様の美貌を眺めては眼福だってため息ついてる女性達も大勢いるわけですし……。美しい物を観賞するのは心の栄養になるって、ユエル様、以前仰っていたじゃないですか」
我ながら無茶を言ってるなと思う。理屈も何もないし、説得力のかけらもない。
けれどユエル様はわたしの戯言を小馬鹿にしたり呆れかえったりもしない。
「……なるほど」
ユエル様はふっと相好を崩し、やわらかいまなざしでわたしを見つめて言った。
「たしかに、そうした得分はあると言えるかもしれないね。ミズカの記憶力の良さと純朴とも言える解釈の仕方には脱帽するよ」
「そんな……」
我知らず、頬が赤くなってしまう。
目も眩むような美麗な微笑は、多くの女性達(女性に限らないかもだけど)にとっては眼福といえるものだろうけど、……わたしにとっては目の毒だったりもするんです、ユエル様。
ユエル様が、吸血鬼史上初の「風邪っぴき吸血鬼」になる心配はないにしても、濡れ髪のユエル様をそのまま放っておくわけにもいかない。
「やっぱりそのままじゃだめです、ユエル様」
わたしはユエル様のガウンの袖口を掴み、歩き出した。
「ミズカ、どこへ?」
ユエル様は無抵抗だ。やれやれと嘆息しつつ、わたしの後をついてくる。
「洗面所へ! わたしが乾かして差し上げますから」
「ワインを取りに来たのだけどね、ミズカ」
「わたしが後で寝室にお届けします。髪を乾かす方が先です」
「はいはい」
ユエル様はこういう時、妙に聞き訳がいい。なすがままに洗面所に連れて行かれ、竹材の椅子に座らされている。
わたしは、少しだけ俯きかげんになっているユエル様の背後に立ち、肩に流れる銀髪を掬い取った。
緩やかなウェーブのある銀髪は、ふんわりやわらかくて、触り心地がいい。ずっと触れていたいと思ってしまうくらいに。それにとてもよい香りがする。
ローズオイルを少量手にとり、ユエル様の髪にしみ込ませてから、ドライヤーをかけた。
普段これといって特別な手入れをしていないにも関わらず、さすが形状記憶美髪。肩先にかかる銀髪に、枝毛一つもありはしない。ブラシでとけばとくほど、銀の髪はつやを増し、しなやかになる。
ユエル様は黙ったままじっと座っている。
頭皮を引っ張らないよう気をつけながらブラッシングをし、ドライヤーの風を当てすぎないよう注意を払って髪を乾かし整えていく。
ユエル様の髪を乾かすのは、……実は、昔からひそかな楽しみだった。
でもそんなことを口にしたら、ユエル様はにっこり笑って、
「それじゃぁ、これからは毎晩、ミズカに髪を乾かしてもらおうかな」
と言うに違いない。
それは困る。とても困る。
嫌というのではない。むしろ髪くらいなら毎晩整えて差し上げてもいいかなとは思う。それでユエル様が喜んでくださるのなら。
――けれどやっぱり遠慮したかった。
だってこんな風に密着時間が長いのは、心が落ち着かなくて困ってしまうもの。
こうして傍に居たいのに、傍に居ると苦しいなんて……。
もやもやとして、疼くようなこの気持ちの正体を、敏いユエル様はきっと見抜いて、悟ってしまう。
それも、――できれば遠慮したかった。