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29.曇り硝子

 ――心が重い。

 心の中に靄がかかったようだった。見通しが悪くなって、見えていたはずのものまで見えなくなってしまった。そんなもどかしさに苛立ちすら覚えて、焦燥感をも募らせていた。

 こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。

 ユエル様の憂いを含んだ美しい微笑に、なぜこんなに胸が鳴り、疼くんだろう。背の傷までが痛み、逃げだしたい衝動に駆られる。それでいて離れるのが怖い。

 こんなもやもやした気持ちを、いったいどうしたらいいのだろう。どうすれば治まり、元通りになるのだろう……?

 ユエル様の傍に居たいと願うのに、傍に居てはいけない気すらしてしまう。

 胸をひしめかせるこの感情の名を、わたしは知らなかった。

 知るべきではないと、思っていた。



* * *



 森を渡る夜風の音が窓越しに聴こえてくる。

 八月最中だというのに、少し肌寒い。昼間の暑さが嘘のようだ。

 ふと、部屋へ向かう途中、廊下で足を止めた。

 カタカタと窓枠の木が鳴っている。窓の外では梢が擦れ合う音がまるで細波のように辺りに響き渡っていた。

 日付が変わる時刻まではまだ少し猶予がある。けれど静寂な空気は宵の深さをいやおうなしに体感させた。

 屋内はしんと静まり返っている。ついさっきまでイスラさんやアリアさんがいて、多少なりとも賑やかだったのに。

 間接照明の合間合間にできる黒い影に、僅かな物音すら吸いこまれ、かき消されていくかのようだった。

 なんとはなしに、窓に目をやった。夜の闇を背面にした窓ガラスにわたしが映る。疲れ気味のわたしの顔にかわり映えはないのだけど、不意に違和感を覚えた。

 なんだろう。何か忘れているような……?

「…………?」

 首を傾げ、見たところでなんら嬉しくもないわたし自身の顔を、改めて注視した。

「……あっ」

 瞠目し、右の耳たぶを掴んだ。

 ――アリアさんに買っていただいたイヤリングが無くなってる!

 左耳にはある。

 細い銀の鎖の先で、水色のビーズが照明の明かりを受け、光を弾かせている。白やピンク、緑から紫へと、光の当たり具合によって、くすんだ水色のビーズは様々な色をみせる。ハートの形をしたクリスタルガラスのイヤリングだ。

 けれど、片方しかない。右耳にもたしかにつけていたのに、なくなってる!

 買っていただいたばかりなのに、もう失くしてしまったなんて、……どうしよう!

 体中をはたいて、衣服のどこかに引っかかってないかを確認したみた。着替えはまだ済ませてなかったからワンピースのままで、そこに薄手のカーディガンを羽織っている。どこにも、イヤリングはひっかかってなかった。

 どこで落としたんだろう……! 落としたという記憶もない。

 踵を返し、駆け出した。

 まず、寝室に戻って部屋中をくまなく探した。ベッド周りを重点的に探した。掛け布団もひっぺがし、枕の下もシーツの下も、全てめくって確かめてみた。箪笥や机や椅子、窓際も、目を皿にして探してみたのだけど、見つからない。

 帰宅した時には間違いなく、両耳にイヤリングが下がっている感触があった。つけ慣れないものだったから重たいとすら思っていたのに……! なのに落としたのに気付かなかったなんて!

 廊下、階段、エントランスホールから玄関周り、それからリビングにキッチン、ともかく今日歩いた場所をしらみつぶしに探そう。

 寝室を出て、廊下と階段の床を端々まで確認しながら、次はリビングへと向かった。



 広いリビングでの探索も、かなり骨折りだった。

 入り口付近から座ったソファーの周りを特に念入りに探したのだけど、見つからなかった。

 スワロ……ええっと、スワロフスキーだったかな? クリスタルガラスのイヤリングだったから、落とした拍子に割れてしまってるかもしれない。

 もしそうだったら、どうしよう……。

 わたしに似合うからと、アリアさんが選んでくれたものなのに。

「……っ」

 締めつけられるような痛みに耐えかねて、わたしは胸元を掴んだ。それで痛みが治まるわけもないのに、こぶしに力が入る。

 やっぱりわたしには不相応な品だったんだ。わたしなどが身につけていい装飾品ではなくて……だから消えてなくなってしまったんだ。

 でも、そんなことは失くしてしまった言い訳にはならない。どんな言い訳をしたところでアリアさんの好意を二重に踏みにじるだけだ。

 探しても探しても見つからない焦燥感も手伝って、気分はどんどん沈み、あんまりにも情けなくて泣けそうだった。

 じわりと視界が滲む。

「だめだめっ! 泣いてる場合じゃない! もっとちゃんと探さなくちゃぁ!」

 ひとりごち、わたしは目をこすって、頭を振った。

 諦めちゃだめだ! なにがなんでも見つけなくちゃ!

 屋敷からは出ていないのだから、屋敷内のどこかにあるはずだもの。

 リビングを出、エントランスホールを一通り見てから、今度はキッチンへと向かった。




 キッチン内の照明を全部点け、足元に用心しつつ、床を見回した。

「……ないなぁ……」

 それから水周りを一通り確認して、次はテーブルの上を探った。

 テーブルの上には銀製のトレイと、洗って布のカバーを被せられたポット、それから紅茶の缶が三つとお菓子受けの陶器の皿と、畳まれたランチョンマットがあるだけ。それらを全部どかしてみたところで、イヤリングは見つからなかった。

 それからテーブルの下にもぐりこんだ。けれど、やっぱりイヤリングは見つからない。

 這いつくばった姿勢のまま、わたしはがっくりとうな垂れた。床についている手が冷たくなって震えだす。

 ――見つからないままだったら、どうしよう。

 見つかったとしても、壊れていたら……割れてしまっていたら、どうしよう。

 どうしよう。そればかりが頭の中をぐるぐると回る。

 どうしようもない。それは分かってる。

 黙っているわけにもいかないから、見つからなくても、壊れたものが見つかっても、アリアさんにはちゃんと謝罪するつもりはある。

 それが嫌なんじゃない……怖いんじゃない。

 ――だって……。

 アリアさんは優しい方だから、せっかくの好意を無にしたことを怒ったりはしない。きっと「気にしないで」と笑ってくれる。

 それが分かるから、なおさらに困ってしまうし、辛い。申し訳なくて堪らない。

「……っ」

 溢れ出そうになる涙を堪えようと、ぎゅっと眉をしかめて目を閉じた。――その時だった。

「――ミズカ?」

 聞きなじみのある艶っぽく甘い声音。それがいきなり降ってきた。背後の、高いところから。

「ミズカ、いったいこんなところで何を?」

 わたしは条件反射的に、その声に応えようと―――

「……ッ!」

 立ち上がろうと手を床から離し、腰を伸ばした。そして思いきりぶつけてしまったのだ。それはもう……ゴンッと音が鳴り、テーブルが僅かに動くほどの勢いで。

「……いっ、つ……っ」

 激しい音をたてたわたしの後頭部に、当然の如く激痛が走る。

「……っ」

 あまりの衝撃に頭を抱えてうずくまった。痛さに声も出ない。引っこめようとした涙が眦に滲んで、瞼の内側で小さな星が点滅してる。

 痛い、痛すぎるよっ。

 もしかしてこれは天罰? 天罰が下ったの? 下っても仕方ないとは思うけど、これはちょっと……痛すぎる……っ!

「――大丈夫、ミズカ?」

 後頭部を打ちつける原因をつくった声の主が、まだテーブルの下にいるわたしの様子を窺ってきた。

「……ぅ、……っ」

 顔をあげると、ユエル様の深緑色の瞳とぶつかった。

 心配げに覗き込んでくるユエル様のまなざしは、衝撃のせいでチカチカしてるわたしの目を、さらに眩ませる。

 頭も痛くて目もチカチカして、その上さらに心臓までドキドキ落ち着かなく鳴りはじめて、もう収拾がつかない。

「本当に大丈夫、ミズカ? すごい音がしたけど」

 わたしの無事を確認したからだろう、ユエル様は目元をやわらげて忍び笑っている。

「そろそろそこから出たらどうかな? 動ける?」

 そう言って、ユエル様はわたしに手を差し伸べてくれた。けれどその手を取りはしなかった。伸ばしかけた手を引っ込め、それを後頭部に回して、のろくさとテーブルの下から出た。ふらつきながらもなんとか立ち上がり、ワンピースの裾を軽くはたいて埃を払った。それからようやく目線をユエル様の方に向けた。

「驚かさないでください、ユエル様っ! 後頭部、あまりの衝撃に割れるかと思いましたよ」

 照れ隠しとか、動揺とか、目の端にちょっぴり滲みでた涙をごまかすため、可愛げなく、文句をつけた。

「ユエル様はどうしてそう足音というか、気配がないんですか、もうっ! いつもびっくりするんですけど!」

「驚かせたのは悪かったけれど」

 ユエル様はため息をつきつつ、額にかかる長い前髪を片手で後ろへとかきあげた。その手は、わたしの手を掴もうとしてくれた手だった。

 困ったような寂しげなような、そんな微笑を湛えてユエル様はわたしを見つめる。

「頭、割れてはいなさそうだね。とりあえずは無事で何より」

「…………」

 無事じゃないです、ユエル様!

 と、言い返しそうになった。

 だって、優艶な微笑を向けられて、心が無事ではいられないもの。平静ではいられない。

 胸が鳴って痛いほどだ。後頭部の痛みよりもずっと激しく、苦しい。

 ユエル様の微笑を見、声を聞くだけで、こんなにも胸が震えるなんて。感情が波立つなんて……。


 ――この感情の正体は、何なのだろう。

 見極めたいけれど、やはり知るのが怖かった。

 だから、ユエル様の美貌があまりに眩しいせいだと、……それに動揺しているだけの感情だと、内心で自分に言い聞かせていた。

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