27.前夜
その日の夜は、わたし達は皆、それぞれ別の行動をとることになった。
朝から出かけていて、一旦戻ってきたイスラさんは、再び「ちょっくら栄養補給」に出ることにしたらしい。
だけどこんな時間にナンパ……じゃなくて「栄養補給」なんてできるのかな? 日もとっぷり暮れて、八時を回ってるのに。
「観光シーズンの別荘地だからね、それなりに皆、出歩いてるもんだよ。とくに駅周辺なんかはね。カフェバーも何件かチェック済みだし」
さすがと言おうか、イスラさんは抜かりがない。昼間にあちこち回って、深夜まで開いていそうな飲食店をリストアップしてきたらしい。
イスラさんは出かける目的を栄養補給のためだと言ったけれど、本当は避難目的なのかもしれない。
イレクくんが行う化学実験の事故による火災、家屋全壊か半壊するほどの爆発を一番恐れていたのはイスラさんだったから。もしかしたらイレクくんと一緒にいて被害に遭ったことがあるのかもしれない。イスラさんはあからさまに「巻き添えは勘弁」って顔をしてた。
当のイレクくんはというと、
「実験に失敗はつきものですが、爆発なんて余程のことがなければ起こりませんよ」
そう述懐した。そして、だから大丈夫です、と。
失敗はつきものなんだ……。余程のことがなければって……でも、今まで何回かはその余程があったわけだし……あまり言い訳になってないよ、イレクくん……。
「今回はいつも以上に慎重に、細心の注意を払って行いますよ。ミズカさんに怪我を負わせてしまっては申し訳ありませんから」
「今回に限らず、いつも気をつけた方がいいと思うんだけど……」
「そうですね。いつも気をつけてはいるんですよ? ですが、危険はないはずと思って混ぜたものが予想外の化学反応を起こしてしまうんですよ……我ながら不思議なほどです」
「…………」
化学実験で爆発騒ぎが起こる方が不思議だと思うのだけど。
「今回はそう危険な薬品は扱わないので万が一のことは起こらないと思いますが、十分気をつけます」
イレクくんはにっこりと笑って有耶無耶に流した。
それにしてもイレクくんの品の良い笑顔は、妙な押しの強さがある。――それで、ふと思いだした。
イスラさんが教えてくれたのだけど、イレクくんはユエル様達が持っている火や風に特化した能力がない代わりに、幻術の効力が非常に強いらしい。
とはいっても、基本的に同族同士では……わたしのような眷族も含めて、互いに幻術はかけあえない。
「ただし、人間も治療なんかに使ってる催眠術は別。で、イレクはその催眠術も使えるから、やろうと思えば俺達に術をかけることも可能なんだよ」
イスラさんはそう言い添え、さらに「俺はやられたことないけどね」と言って鼻先で笑った。
人間に対して幻術をかける時、イレクくんは催眠術も併用している。だから効き目が強く、長いのだという。
ユエル様は、
「ある意味で、イレクは最強と言えるね。幻術は防御にもなれば攻撃に転ずることもできる」
と言って笑った。嫌味でも皮肉でもなく、本心からの言葉のようだったけど、少しからかうような口調だった。ユエル様に最強認定されたイレクくんは、「そんなことありませんよ」と返し、少し困ったような照れたような顔をしていた。
ともあれイレクくんは、
「材料や器具もおおよそ揃えられたので、早速作業にとりかかります」
ユエル様にそう報告した後、バケツに汲んだ防火用水と小さめの消火器を持って、二階の北端の客間――そこに寝泊りしているわけなんだけど――へと向かった。
イレクくんはリビングでの話し合いが終わってからすぐ外出し、ほんのついさっき戻ってきたばかりだった。必要な物はどうにか買い揃えられたらしい。買い物の報告らしきものもユエル様にしていたようだった。
それはそうと、イレクくんはいったい何を精製するんだろう。
ユエル様の依頼があって、何がしかの“薬”を作ることになったようだけど……いったい何を作ってと頼まれたのだろう?
さりげなく、「これから何を作るの?」とイレクくんに訊こうとした。
けれど、この「さりげなく」というのが我ながら情けないほど下手で、結局は訊きそびれてしまった。
ユエルの目を掠めてそれを聞きだすのは褒められた行為じゃない。そう考えて思いとどまったというとこもある。
弁えなくちゃと自戒したばかりなんだもの。
ユエル様を失望させたくない。……せめて、嫌われるようなことだけはしたくない。
だからわたしがイレクくんに言えたのは、「くれぐれも気をつけてね」という、繰り返されたその一言だけだった。
ユエル様とイレクくんが部屋にこもってすぐ、アリアさんがエントランスホールに降りてきた。昼間とはがらりと雰囲気が変わっている。
長い金髪をぴっちりと後頭部にまとめ上げ、グレイのスーツに身を包んでいた。
白いブラウスの隙間から見える白珠の肌とタイトスカートから伸びる脚線美が、目を釘付けにさせる。けれど下卑た感はまったくなく、一流企業のトップでバリバリ働くキャリアウーマンみたいだ。胸元と耳、指に光っている透明な石はきっとダイアモンドだろう。
美女は何を着ても、様になるというか、美女然とした風体が崩れない。
ユエル様もそうだけど、立ち居振る舞いからして違う。
ええっと、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』だっけ。その言葉がぴったりとくる、匂いたつような華やぎがある。
卓越した美人って、目の保養になるけれど、心臓には悪い……かも。毎日見ていても、ユエル様の綽約とした仕草や目映いばかりの美貌には未だに胸が鳴るもの。動悸、息切れ、あと眩暈にも悩まされたりするから、頭にも良くないかもしれない。三日で飽きるなんてこと、全然ない。
わたしの視線に気がつき、アリアさんは優艶とした微笑みを向けてくる。そしておっとりとした口調でわたしを呼ばわるのだ。「ミズカちゃん」と。心がほわんと温かくなる優しいアリアさんの声だ。
アリアさんは階段を下りてきてから、イスラさんに目をやった。
「あら、イスラ、あんたも出かけるの?」
イスラさんはアリアさんの美貌に見惚れるでもなく、平常に応える。
「あぁ、まーね。アリアも出かけんの?」
「ちょっと下見と根回しを兼ねてね。それと、ついでに食事もよ」
アリアさんが言う「食事」とは、イスラさんが言うところの「栄養補給」だろう。
だけど、下見と根回しってなんだろう?
「それでスーツかよ。足に拳銃でも仕込んでそうだな」
「あいにく拳銃もナイフも手榴弾も仕込んでないわ。あたしは平和主義だもの」
アリアさんは不敵に、そして悪戯な女神のごとく艶然と笑んでみせた。
拳銃だの手榴弾だの、不穏な単語を二人はさらりと口にする。けど、違和感なくて、実際持ってても不思議じゃないような口ぶりだ。もちろん持ってはいない……はずだけど。
でも女スパイ的な雰囲気も、今のアリアさんにはある。タイトスカートをめくりあげたら、そこに拳銃かナイフかを仕込んでいるのがちらりと見えるのでは……なんて想像してしまった。
一方、イスラさんは着慣れた風な軽装だ。ジーンズにTシャツ、その上にブルゾンを羽織っている。イスラさんはカジュアルなスタイルが好きなようだ。気さくなイスラさんに似合った格好だと思う。
ユエル様やアリアさんとは違って、イスラさんの場合、「美しい」というより「ハンサム」って形容が合う。ええっと、「イケメン」とか言うのだっけ。
イスラさんは、ぱっと見だけで判断すらなら、ユエル様より年少に見える。だけど本当はどうなんだろう。あまりかわらないのかな?
たとえば年の差が三十歳ほどあったとしても、そのくらいなら「たいした違いじゃない」って言われそう。
こうした時間感覚には、まだちょっと慣れない。
わたしにしたって、ごく普通に生きていたなら「おばあちゃん」な年齢のはず。生きていられるぎりぎりの年齢だろう。そう思うとやっぱり不思議で、「人間以外」の存在なんだなぁって戸惑いながらも、実感してしまう。
でも、それを辛いとか悲しいとか嫌だとか思ったことはなかった。ただ慣れないだけ。
――どうしてかな。
ユエル様が傍にいてくれるからなの……かな。
わたしのこと気遣ってくれて、わたしのこと守ってくれて、わたしのことをただの「ミズカ」として見てくれて……――
「ミズカちゃん?」
「はっ、はいっ!?」
アリアさんに顔を覗き込まれ、わたしは弾けるようにして背を伸ばした。
いけない、またぼうっとしてしまった。
「ミズカちゃん、あたしちょっと出掛けてくるけど、……平気?」
「はいっ、大丈夫です」
「そう?」
アリアさんは優しげな青色の瞳を心配そうに曇らせ、わたしの様子を窺ってくる。わたしはもう一度「大丈夫です」と、笑って応えた。
「なるべく早く戻るつもりではいるけど、もしかしたら朝までかかっちゃうかもしれないわ」
アリアさんは昼間出かけた時とは違って、面倒くさげな様子だった。遊びに行くというより面倒な仕事を片付けに行くといった風だった。
「あぁ、そうだわ」
アリアさんは人差し指を軽く顎にあて、視線だけをイスラさんに向けた。
「この際だわ。イスラにも手伝ってもらおうかしら。あたし一人じゃ時間かかっちゃうし」
「唐突な申し出だな」
イスラさんは片眉を僅かに上げた。
「どうせ今から食事に行くところだったんでしょ? ついでよ、ついで。それに、まだちゃんとした説明されてないでしょ? あたしからちゃんと説明するわ」
「まぁ、だいたいの事情は掴めてるけど」
「イスラは察しがいいわ。なら、協力してくれるでしょ? ミズカちゃんのためだもの」
イスラさんは頭を掻き、「ま、いっか」と呟いて、アリアさんに付き合うことをあっさり承諾した。
「ユエルに恩を売っておく、めったにない機会だしな。あいつが他人に協力求めるなんて未だかつてなかったもんなぁ。よっぽど切羽詰まってんのか、単に愚図なのか」
「それ、本人の前では言わないようにね。ユエルをからかいたくなる気持ちはわかるけど、今はやめといた方が賢明よ?」
「まったくだよなぁ。なんでああも余裕ないかね、ユエルは。ケツ叩かねぇと期限切れになりかねないぜ?」
「大丈夫よ。余裕ないってことは、ちゃんと焦ってるってことでしょ」
「それもそうか。しっかし、あいつがめんどくさがりなのは知ってたけど、こうもグズグズするとは、ちょっと予想外だったな」
「本気だからこそよ。それ以外にもそうならざるを得なかった原因はあるんだけど。ユエルの場合は特に期限付きでよかったと思うわ」
「言えてるな」
わたしはアリアさんとイスラさんのやりとりを小首を傾げて聞いていた。話の内容はちっともわからなかったけれど、一つだけ、気になる言葉があった。
「期限」――それに「期間」って、なんだろう。
その言葉を、何度も聞いた。
眷族の存在理由を聞いた時、アリアさんの亡くなった旦那様の話を聞いた時、ユエル様とイスラさんの話を立ち聞きしてしまった時――……。
アリアさんが言っていた。
「眷族を持てる期間は決まってる」って。その期間を過ぎると、眷族は持てなくなるって。
今まで聞きかじったそれらを要約すると、ユエル様の「眷族を持てる期間」がじきに終わる、ということ?
それが、何なのだろう。
何かとても大切な……重要なことのように聞こえる。今のアリアさんとイスラさんの会話からは、少なくともそう感じられた。
「ミズカちゃん」
ふと、アリアさんがわたしの名を呼び、顔を覗き込んできた。
考えがぐるぐるめぐってるのに答えが出ず、もどかしい感情が表情に出てしまっていたのだろう。
アリアさんは「大丈夫よ」と言って微笑みかけてくれた。
「大丈夫よ、あたし達がうまく収まるようにするから。心配しないで。ね?」
「え、あの……っ」
何をどううまく収めるというのだろう?
それを聞き返したかったけれど、もうこれ以上アリアさん達に心配をかけたくない。それにそこまで立ち入っちゃいけない気がして、きゅっと口の端を締め、喉まで出かかった問いを飲み込んだ。
代わりに、ため息がこぼれた。
――……と、いけない。こういう「ため息」がまた余計な心配をかけちゃうんだ。
わたしは軽く頭を振って、ため息を散らした。
「ミズカちゃん」
ちょっと俯いたわたしの手を、イスラさんがいきなり掴んできた。わたしは驚いてびくりと肩をあげた。目の前に、イスラさんの真顔がある。
そしてぐっと顔を近づけてきた。