19.名残の雨
雨はまだ降り続けていた。
目覚めてもまだベッドから降りられず、わたしは上半身だけを起こし、小窓から見える外の景色に目を向けた。
重なり合った薄雲の向こう側、ぼんやりと霞んで見える太陽は、地上にわずかな光をもたらしている。
小降りになってきているから、そろそろ雨も上がるだろう。昼前には青空が戻るかもしれない。
深々とため息をついたのと同時に背中の傷が痛んで、思わず肩を竦めた。
痛みをすり替えるようにして、下唇を噛んだ。
もちろんそれで背中の痛みが薄れるはずもない。……傷が、消えてなくなるはずもなかった。
――どうして忘れていたのか。あれほどの記憶を。
細い線状の傷痕がいくつも背を這っている。蚯蚓腫れの傷痕は、もはや治らず、消えることもない。
普段は痛みも痒みもなく、さして気にならない。ただ雨の日……湿度の高い日なんかに少しばかり疼くくらいだった。
どうしてこんな傷が背中にあるんだろう。
そう疑問に思ったこともあったけれど、短絡的に、子供の頃に何か不慮の事故があってついたものなんだろうと結論付けていた。
その“不慮の事故”がどんな事故だったのか、遠い昔のことだから忘れてしまったのだと、深く考えないようにしていた。
「……」
両手に顔をうずめた。
違う……忘れていたんじゃない。
忘れさせられていたんだ。……ユエル様に“幻術”よって。
幻術は人間に特化した力であるらしく、そのため、ユエル様の眷族となったわたしは、ユエル様の幻術にはかからない。
だけど、ユエル様の眷族になるまでに、二年の猶予があった。二年ほど、わたしは人間のままユエル様のもとで過ごしていた。
たぶんその間に、ユエル様はわたしの記憶を読み、忌まわしい過去を忘れさせてくれたんだ。
――感謝……しなきゃいけない。
ユエル様はわたしのためにそうしてくれたんだから。
それなのに、どうしてこんなに心が揺れるの? 心が、背の傷が疼くように、痛むの?
思いだした過去が辛いからじゃない。
たしかに、思いだすには辛すぎる過去だ。忘れたままでいた方が心も安らかだったろうと思う。
だけど……だけど思いだしてしまった。忘れてはいけないのだとでも言うように。
過去の記憶を引き摺りだしたのは、わたし自身の気の緩みのせいだ。
ユエル様の伸ばされた腕、広い背、怒りに燃える瞳、低い威圧的な声、……まるで見知らぬ男の人のようだった。ユエル様ではない別の“男の人”が眼前に迫ってきた。
あの瞬間に、胸に去来した感情はいったいなんだったのだろう。
怖さもあったけれど、……それだけじゃなく、ひどく苦しかった。動悸が強くなり、それが脳裏を叩いて、封印されていた記憶を呼び起こした。
でも、違う。
記憶が戻ってしまったのはユエル様のせいじゃない。ユエル様のせいだなんて思うのは、お門違いだ。
顔をあげ、わたしは両手に力をいれてこぶしを握った。
傷の疼きはやわらいでも、甦ってしまった記憶はもう消せない。
消すないけれど、……せめて、ユエル様の前では何事もなかったように振る舞うべきだ。
ユエル様にこれ以上の負担をかけたくないもの。
ユエル様は優しい方だから、わたしがあの辛い記憶を思いだしたと知ったら、わたしを気遣って、きっと心配げな顔を向けてくる。「どうしたものか」と困らせてしまうかもしれない。
そんな優しいユエル様を、わたしなんかのことで、あれこれと思い煩わせたくない。
ユエル様にはいつだって悠然と微笑んでいてほしい。
だってユエル様は、わたしを救ってくれた。わたしを、初めて「人」として扱ってくれた。
名を呼んでくれ、微笑みかけてくれた。
ユエル様はわたしのためを思って、あの苦い過去を忘れるべく、術をかけてくれたんだろう。
この上なく人道的な……吸血鬼という人外の存在ではあるけど……主人に、わたしも誠意をもって応えなくちゃいけない。
だからこそ、きちんと弁えていなくては。気を引き締めて、ユエル様にお仕えしなくちゃ!
それがわたしにできる、せめてもの“誠意”だと思うから。
眷族の意味を聞かされたおかげで少し(本当のところ、かなり)動揺したけれど、大丈夫、きっと自制心は保てる。保たなきゃいけない。
いままでだって、そうしてきたはずなのだから。
わたしは両手で両頬を軽く叩いて、気合を入れた。
まずは、謝ろう。
昨夜は失礼なことばかりしてしまったもの。
記憶が戻ったせいも手伝って、取り乱して無様な態度をとっちゃったから、ユエル様に不快な思いをさせたに違いない。
身体はまだ少し重い。けれど急いでベッドから降り、身支度を整えた。
まだ早いからユエル様は起きてないかもしれない。
だとしたらちょっと無作法になってしまうけど、それでもやっぱり、今日は一番に、ユエル様の顔を見よう。
ユエル様に、会いに行こう。
大急ぎで身なりを整えたわたしは、ユエル様の部屋へ向かった。
屋敷内で一番広い洋間がユエル様の私室になっている。わたしの部屋からも近く、同じ二階。
ドアの前に佇み、深呼吸をしてから、ためらう気持ちを押しやって、ノックをした。
返事はない。
やっぱりまだ寝てるのだろう。朝の六時。この時間にユエル様が起きていたことって、滅多にない。徹夜してた時は別として。
少しためらった後、静かにドアを開け、そっと室内を覗きこんでみた。顔一つ分くらい開けたくらいでは、ベッドのあるところまでは窺えない。
入っちゃっても良いものだろうか。でも、入らなければユエル様を起しようもない。
まさかこんな所から大声を張り上げて起床を促すのは傍迷惑だろうし、どうしたものかと二の足を踏んでいたら、ふいに声がかかった。
「いつまでもそんなところで覗き見していないで、入りなさい、ミズカ」
「……っ!」
不意をつかれ、髪の毛が逆立ってるんじゃないかってくらいに驚いて、思わずひゅっと息を飲んだ。
ユエル様は僅かに開けられたドアに手を添えている。
いつの間にやってきたものか、足音も聞こえなかった。
「お、起きてたんですか、ユエル様っ?」
「そんなに驚かなくてもいいと思うが」
「た、だってだって! ユエル様がわたしより先に起きてるなんて、数えるほどもないくらいですし」
「そういう時は“数えるほどしかない”という言い方が正しいね」
ユエル様はわたしの軽口を、軽口で応えてくれた。そしてわたしを部屋に招きいれてくれた。
ユエル様はすでに夜着ではなく、薄い浅黄色の綿シャツと着古した感のあるジーンズという、カジュアルな雰囲気の服装に着替えを済ませていた。……ううん、着替え途中、なのかしら。だって、シャツのボタンはどれひとつとして留められていなくて、胸元は全開にはだけてる。下着、というのか、タンクトップとかそういったものをシャツの下に着ていないものだから、なんとも目に毒な、丸見えの状態! 目のやり場に困るんですけど!
「えーっと……その、改めて。おはようございます、ユエル様。珍しく、本当に“お早う”ございます」
「嫌味なら、もう少し遠まわしに言った方がいいね、ミズカ?」
ユエル様は嘆息し、やれやれと肩を落とした。けれど、不愉快そうでは全然なく、力みのない微笑を湛えていた。
ユエル様は手櫛で髪を整えながら、窓辺へと歩む。その背を見つめ、わたしは安堵のため息をこぼした。顔はちらっとしか見なかったけれど、不機嫌そうではなかったし、声にも重苦しさはない。……いつものユエル様だ。
「あの、ユエル様」
「ん?」
ユエル様はカーテンを開け、それから窓辺に寄りかかった。
雨はもうやんでいた。窓辺に滴が光っている。
ユエル様は額にかかる髪をしなやかな指で梳きあげ、寝起きのせいで少しだけ気だるそうな顔をわたしに向けた。
物憂げな表情が似合う美貌を向けられて、危うく眩暈を起こしそうになった。
綺麗な顔も三日続けて見れば慣れる、なんてよく言うけれど、並外れた美貌の場合、それは適用外だと思う。毎日毎日、どれほど見続けても見慣れるどころか、近頃は目があっただけで心拍数が跳ねて、平常心ではいられなくなる。
ユエル様の濃艶な美貌は、どれほどの月日がたっても色褪せない。まなざしの優しさも。
呆けそうになっていた気を取り直して、わたしは居ずまいを正し、低頭した。
「昨夜はすみませんでした、ユエル様。ご不快な思いをさせてしまったこと、お詫びします」
「……ミズカ」
言葉尻に、ため息が重なった。頭をあげ、ユエル様を見ると、苦笑が浮かんでいた。
「律儀だね、ミズカは。それを言いに、わざわざこんな朝早くに、私のもとへ?」
「はい。すみません、朝はご迷惑かとも思ったんですけど」
わたしがそう言うと、ユエル様はまたため息をついた。けれど、迷惑顔ではない。苦っぽく口の端を上げ、眉を下げた。
「起こすついでとも思って来たんです。まさか起きてらっしゃるとは思わなくて、その手間は省けましたけど」
「ずいぶんと驚かせてしまったようだね。……それにしても」
ユエル様は苦虫を噛みつぶしたような顔をし、わざとらしい所作で再三のため息をついた。
「寝ていたらいたで、早く起きてください、いつまで寝てるつもりなのかと小言を言われ、起きていたらいたで、まさかだの珍しいだのと皮肉を連発されるとは。……やるせないね」
ユエル様の口調は、冗談口をたたくように軽くて、わたしを本気で責めているわけではないのは、わかった。わかってはいてもやっぱりうろたえて、わたしは身を竦ませ、頬を赤くした。
「すっ、すみません、いつも一言多くて……っ! あのっ、えっと……すみません、ユエル様」
「それがミズカだし、いつものことでもあるから、別段不快ではないし、気にしていないよ。昨夜のことも」
「…………」
ユエル様はさり気なく先手を取り、そして流した。
もう終わったことだと、ユエル様は静かな微笑を湛えて暗にそれを語った。
だから、昨夜のことはもう蒸し返さない方がいい。
謝罪しきれなかったという中途半端な気持ちが残ったせいで、心はすっきりとは晴れなかった。
けれど、もうこれ以上余計な口をきいて、ユエル様にため息を吐かせたくない。
わたしは口を噤み、視線を落とした。