18.疵
泣きだしたい衝動をどうにか抑えてはいたものの、背中の痛みは自分では抑えようがなかった。
蘇ってしまった記憶を、もう、消してしまえないように。
* * *
――雨が降っていた。あの日、あの時も。
わたしは、さる子爵家の使用人だった。物心ついた時にはすでにそこにいて、下働きの日々を過ごしていた。
その頃のことは、あまり憶えていない。
あまりに遠い昔のことだからというよりも、記憶に残るような事が少なかったからだと思う。機械人形のように与えられた仕事を、ただ黙々と、何を考えるでもなく、こなしていた。
両親もなく、頼る身寄りもないわたしだったから、働く場所があるだけでも幸運だった。飢えずにいられる現状に満足しなければならなかった。
身分の差というものが、まだ人の心に根付いていた時代。
わたしは「身分の卑しい下々のモノ」で、高貴な方々の目にとまるような娘じゃなかった。
ある日、……――
子爵家の跡取り息子の若様が、わたしを私室に呼びつけた。何用だったのかなんて憶えてない。何故呼ばれたのかも皆目検討がつかなかった。たぶん、用など無かったのだろう。
わたしを舐めるように看視し、若様はにやにや笑って言った。
「へえ、なるほど。これは迂闊だったな。……なかなかじゃないか」
言葉の意味が解からず、返答に窮した。
若様の私室に一人呼ばれて立ち入るなんて今までなかったから、わたしはひどく怯えて、まともに顔も上げられなかった。
若様に直接声をかけられたのもこれが初めてだった。
空豆のような顔形の若様は、いかにも両家の子息らしい傲慢さと横柄さを、そのでっぷりとした体型に現わしていて、正直、好感は持てなかった。
「おまえ、名はなんという」
「……水果と、申します」
「ふん。ミズカ、ね。おまえのような者には過ぎた名だな」
「…………」
「まあいい、名など必要ないしな」
では何故名を訊いたのですか。そう言い返すなんて、当時のわたしには思いつきもしないことだった。口答えをする“頭脳”すらなかった。わたしはただの“労働力”でしかなく、自分の意思すら微かにしか持っていなかった。
それでも、若様の不遜な態度に不快感を覚えていた。生理的嫌悪感とでもいうのか、些かの好意も持てなかった。
「しばらくの間、退屈しのぎができそうだ」
そう言って笑った若様の目が狡猾に光ったのに、その時は気がつかなかった。ただ怖いとだけ、思った。
それから、若様はわたし個人を指定して命令を下すようになった。
「着替えを手伝え」「酒を持って来い」「荷物を持て」「忘れ物をした取ってこい」「酒をこぼした、這いつくばって拭え」―――
若様はことあるごとにわたしを呼びつけ、用を言いつけた。もちろんわたしは唯々諾々と従うよりなく、そのたび、不可解な胃の痛みを覚えるようになっていた。
どうして? 他にも使用人は大勢いるのに、どうしてわたしを名指しにして用を言いつけるのだろう。
どうして、という疑問を初めて抱いた。それに、全身が粟立つような嫌悪感も。
若様の舐めるような目つきが、淫靡な粘りを含んだ声が、触れてくる手のいやらしさが、……嫌で嫌でたまらなかった。
どうしてわたしなどに、こうも執拗に構いつけてくるのだろう。
不審に思い始めていたわたしに、若様は気付いたのだろう。
若様はその理由を語らず、その代わり無体な用事を、さらに次々と言いつけてくるようになった。一向におもねろうとしないわたしを、無理強いにでも服従させようとしたのかもしれない。
あるいは、不快感を露わにしたわたしに、若様の嗜虐性が煽られたのかもしれなかった。
その日も、若様はいつものようにわたしを呼びつけた。私室にではなく、屋敷の敷地内にある温室に。――曇天の午後のことだった。
「御用向きはなんでしょうか」
そう尋ね、おそるおそる温室に入るや否や、いきなり若様に押し倒された。
あまりのことに思わず声を上げた。温室にわたしの掠れた悲鳴が響き渡ったけれど、若様はわたしの口を塞ごうともせず、舌舐めずりをしてほくそ笑んだ。
「泣き叫んでも無駄だ。誰も来やしない」
わたしを組み敷いた若様は喉を鳴らして笑い、身を捩って逃げだそうとするわたしの腕を地面に押しつけた。
「情けをかけてやるというんだ。有り難いと思え」
「……っ」
若様はもがくわたしの頬を叩き、服を剥ぐために胸元に手をやった。胸がはだけ、粗末な服はたやすく引き裂かれた。肘が擦り剥け、腿とふくらはぎが土にまみれた。
恐ろしくて、声も出なかった。喉の奥で声にならない悲鳴が詰まり、全身が戦慄いた。
「お兄様っ!? 何をなさっておいでですの?」
あの時若様の妹、お嬢様が偶然兄を探しに現れなければ、いったいどうなっていたか。
今思いだしても、ぞっとする。
お嬢様はわたしを助けてくださったわけではなかった。兄の所業に我慢がならないといった風で、「好き心もたいがいになさいませ」と兄を咎めた。それに辟易した若様は、一旦はわたしを解放してくれた。
けれど、若様は懲りなかった。
その後も若様は隙あるごとにわたしを手篭めにしようと機会を狙っていた。性的な嫌がらせは執拗に続いた。乱暴に腕をひっつかんで壁に押し付け、口をうなじに当てて噛んできたり、長椅子に押し倒してのしかかり、胸や足を揉みしだき、服を剥ごうとしたりした。僅かにでも抵抗すれば、容赦なく頬を打たれた。
大抵何らかの邪魔が入って事は中断され、わたしはほうほうの体で逃げだすことができた。
猫が、捕まえた鼠をなぶって弄ぶように、わたしをわざと逃がしていることもあった。わたしを玩弄して愉しんでいたのだろう。
若様は傲然と言い放った。
「可愛がってやろうというんだ、光栄に思え」
「……っ」
情婦にしてやると若様は言った。飽きるまでな、と。
その言葉の意味がわかっても、わたしにどうすることもできなかった。嫌ですとも言えず、ましてや「光栄に思う」なんて!
だけど拒みきれなかった。
だって、わたしには他に行く所なんかなくて、今ある暮らしを受け入れざるを得なかったから。ここを出たら、野たれ死ぬだけだ。わたしに選択しなんかない。みっちり仕込まれた使用人気質が、わたし自身を縛りつけていた。
それでも諦めきれず、若様の言いなりにはなれなかった。必死にもがき、あがいた。それがまた若様の加虐心を刺激することになろうとは、思いもしなかった。若様はわたしをいたぶることを愉しんでいた。
「――お兄様!」
だけど恐れていた最悪の事態は、回避することができたお嬢様のお咎めが入ったことによって、免れた。
乗馬用の鞭を持って現れたお嬢様は、頬を紅潮させ、怒りにわなわなと身体を震わせていた。
お嬢様はきつい吊り目をさらにきつくあげて、若様とわたしを烈火のごとく睨みつけた。
「お兄様、いい加減なさって!」
西洋風の乗馬服姿のお嬢様は革製の鞭を握っていた。それを握る手がぶるぶると怒りに震えている。
「そのように下賎な娘にうつつをぬかしているなど、子爵家の嫡男ともあろうものが、情けなくはございませんの?」
優位に立っているのは常にお嬢様の方だった。
気位が高く、意志の強いお嬢様は、放蕩三昧に暮らしている兄を苛立たしく思い、事に触れては叱りつけ、子爵家の嫡男である自覚を促そうとしてきた。
若様はいつものごとくお嬢様の叱咤に忌々しげに舌打ちをし、わたしから手を引いてくれた。
けれど――
お嬢様の怒りの矛先は、わたしにも向けられた。
「おまえのようなものが、よくもまあお兄様を誘惑できたものね! 薄汚い下女の分際で、なんと身の程知らずな!」
鬼のような形相でわたしに近づいて来るや、お嬢様は狂ったように鞭を振るってきた。
わたしは逃げだすことも叶わず、その場に崩れ落ちた。お嬢様は容赦なく鞭を打ちつけてきて、わたしは両腕を抱えてうずくまった。「お赦しをください」と、何度も赦罪を請うた。
「おいおい、見えるところに傷なんかつけるんじゃないよ」
若様が、わたしの背をはだけさせた。悦にいったような含み笑いが、鞭打ちの傷に沁みてくるようだった。
「……ッ」
抗うことも逃げることもできず、わたしは土下座の格好で、ひたすら苦痛に耐えた。
「おまえのような卑賤の者をいったい誰が真面に相手をするものですか。身の程を知りなさい! 汚らわしい淫女!」
若様の粘着いたせせら笑いの下、お嬢様の罵倒と鞭を、歯を食いしばって耐え忍んだ。
背の肌が裂け、血が床に飛び散った。
痛みのあまり失神しそうになりながらも、わたしは掠れた声で、何度も赦しを請うていた。お赦しくださいと、うわ言のように繰り返した。
内心では、悲鳴を上げて泣いていた。
――わたしが悪いのでは、ないのに……。
――わたしがいったいどんな罪を犯し、なぜこのような理不尽な罰を受けなければならないのか。
心の底に、怒りが湧いた。怒りというよりそれは悲しみに近かった。
どうして、と。どうしてこんな目に遭わねばならないのか、と。
惨めに這いつくばって赦しを請わねばならない立場にあることを、初めて辛いと、悲しく苦しいと、思った。
ようやく若様とお嬢様の下から解放されたわたしは、ほとんど衝動的に屋敷を出、闇雲に駆けていた。
――雨が降っていた。
どこをどう走ったのか、まったく憶えていない。
気付けば港町に来ていた。頃は、夕刻だったろうか。雨にけぶる港町は、寒々とした影に覆われているように薄暗かった。
そして、人影もまばらな路地で、わたし自身がそこに倒れているかのような憐れ姿の、だけどわたしとは比べ物にならないほどに美しい、憔悴しきった銀髪の青年を見つけたのだ……――