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17.抉《こ》じ放たれて

 息が詰まって声も出ず、心臓が破れそうな勢いで鳴り始める。

 や、だ……、何、これ……? 痛い、背中が……ズキズキと疼く。

 イスラさんの腕の力が強いせいじゃない。

 いやだ、何? 何か、思いだしそうな疼痛が、背を、全身を走ってく。

 どうしよう、何、何がこんなに、……こわ……い?

 釘を打ちつけてくるような激しい痛みが頭部にまで及んで、とても目を開けていられなかった。目を閉じると、瞼の内で小さな光が明滅した。

 ――何か、……何かが、じわじわと痺れるように全身に拡がっていく。

「イスラ」

 低く、威圧的な声が、耳に届いた。それと同時に身体が解放された。

 ユエル様が乱暴な所作でイスラさんをわたしから引き離したようだった。ふと見ると、イスラさんは顔をしかめ、不安定な姿勢で床に片手と片膝をついていた。

「……」

 わたしはソファーに座ったまま、イスラさんを気遣う余裕もなく、体の緊張も解けずにいた。

「わざとか、イスラ」

「…………」

 わたしに背を向けて立ちはだかっているユエル様は、右の手のひらをイスラさんに向けていた。表情は見えない。けれど、その口調はひどく冷たい。それでいて烈火のようないきれがあった。

 一方で、イスラさんは不敵な笑みを浮かべるだけで何も言い返さず、ユエル様を突き上げるようにして睨みつけている。

 イスラさんは上半身を起こし、片膝を立ててその場から動かない。

「さすが風使いだな、イスラ。炎を煽るのが巧い」

 ユエル様の冷笑じみた声音が空気を張り詰めさせていく。こんなにも荒々しい怒気をまとっているユエル様を見るのは、初めてだ。

 緊迫感が高まり、同調するようにわたしの胸もざわついて、動悸がひどくなっていく。

 イスラさんは余裕綽々といった笑顔で、軽口をたたいた。

「いいね、ユエル。おまえのそういう顔見るの、好きだぜ、俺」

「うるさい、イスラ、黙れ」

 ユエル様は声を荒げない。静かに言い放ち、次の瞬間、青白い炎が渦巻く塊となってイスラさんを襲った。

「……チッ」

 イスラさんは間一髪で、その炎を止めた。風の盾が炎を止めている。炎はその形を歪ませるも、勢いは衰えない。やがて螺旋を描くようにして、イスラさんが両手をかざして作っている風の盾を押していった。イスラさんは苦しげに顔をしかめる。風と炎の勢いに髪が乱され、額に汗が滲んでいるのが窺えた。

 火が、爆ぜている。

 ユエル様はわたしの前で佇立したまま微動だにせず、イスラさんを抑えつけていた。

 空気が軋むような音を立てていた。あるいはそれは、耳鳴りかもしれない。こめかみが酷く痛んだ。

 イスラさんはなおも笑みを崩さず、ユエル様をさらに煽った。

「風使い冥利に尽きるね、火の勢いを増させる要因になれたってのは」

「……ではそれを冥土の土産にでもするがいい」

「ユッ、ユエル様! 待って……っ!」

 二人がどれほどの力を持っているのか計り知れないけれど、きっととても強い。本気で力を行使し、相手にぶつけたとしたら、無傷ではいられない。それほどの力だと、感じる。

 たとえ冗談だとしても、争い合うなんて絶対ダメだ!

 ユエル様を止めなくちゃ!

「ユエル様!」

 そう思って腰を浮かせたわたしを、ユエル様は振り返りもせず、片腕をのばして制した。そのユエル様の肘が、わたしの手に触れた。

 軽く触れただけだった。

「……っ」

 けれど手に痺れが走り、震え、力が入らなくなった。

 ワイングラスが、まずわたしの膝の上に落ち、それから床へ落ちて、パリンッと音をたてて、砕けた。ガラスの破片が散らばり、黄色みを帯びた白ワインが絨毯に染みをつくった。わたしの胸中に拡がる痺れのように、じわりと滲む。

「――……っ」

 立ち上がりかけて失敗したわたしは前のめりに倒れ、ソファーから崩れ落ちるようにして、床に両膝をついた。

「ミズカちゃんっ!?」

「ミズカ?」

 硬直していた体が、わなわなと震えだした。わたしは目をきつく瞑って、自分自身を抱きしめていた。

 ――痛い。

 背中と、ガラスを踏んだ膝が痛い。それよりももっと、甦った記憶が苦しくて、胸をひしめかせる。

「ミズカ? ミズカ、いったい……」

 弾かれるようにして振り返ったユエル様は、身を縮こまらせて震えているわたしの肩を掴んだ。そのユエル様の手を、わたしはほとんど反射的に振り払ってしまった。

 その直後、自分が何をしてしまったのか気付き、愕然とした。

「……あ、……」

 自分がとったとっさの行為にうろたえ、声が出ない。

「す、すみ……ません、わたし」

 声が震えた。

 なんてことをしてしまったんだろう……!?

 ユエル様の手を払いのけるなんて、……どうして。

 手や腕の震えが治まらない。動悸は酷くなるばかりだ。頬も熱く、目頭まで熱帯びてきた。背中がずきずきと痛みだしたのは、雨のせいじゃない。古い傷痕が疼くのは……――

「わたし、……すみません、あの、驚いてしまって……すみません、本当に」

 その場を取り繕おうと、わたしは散らばったガラスの破片を集めようと四つん這いになった。手が震えて、うまくガラスの破片を拾えない。膝や指先から血が滲みでていた。

「――ミズカ」

 ユエル様がわたしの手を掴んで止めた。ユエル様の手は、炎を操った後だったからか、とても熱かった。

「酔ったのだろう、ミズカ。もう、寝たほうがいいね」

 ユエル様はどうしたのかと問い質すようなことはせず、わたしの手をとったまま、立ち上がった。さり気なく、手や膝に付いたガラスの破片を払い落してくれ、血も拭ってくれた。

 ユエル様の手が、わたしの血で汚れてしまった。

「部屋まで送ろう、ミズカ」

 ユエル様は小首を傾げ、わたしの顔を気遣わしげに覗きこんできた。深い湖のような緑色の双眸に、わたしが映る。

「…………」

 大丈夫です。そう応えようとして、失敗した。

 喉がきりきりと痛んで声が出なかった。眦が熱い。

 大丈夫です、すみませんと言おうとしたのに、声が喉の奥に詰まり、それが苦しくて、思わず顔を背けてしまった。

 肩をすぼませ、口の端をきゅっと締めた、その時だった。

「ミズカ」

 ユエル様の手が軽く背中に触れた。わたしの身体を支えてくれようとしたんだろう。

 それなのに、……――

「……――っ」

 わたしはまた反射的に身を捩って、ユエル様の手を拒んでしまった。

「すっ、すみませ……っ」

 背中がどくどくと脈打って、傷みが激しくなる。

「……」

 ユエル様は、わたしから手を離した。それからゆっくりと立ち上がった。

「あ、……わた、し……」

 一度ならず二度までも、わたし、なんてことをしてしまったんだろう!

 自分のした行為が信じられない。

 どうしよう。どうしよう……!

 不安げにユエル様を見やると、ユエル様は表情を消していた。目は、夜闇を映した濃紺色の窓に向けられている。

 ユエル様は物憂げな仕草で、銀の髪を指先で軽く梳いた。一度はかきあげられた銀の髪は、指を離すと同時に再び額にかかり、ユエル様の深緑色の瞳を隠した。

「ユエル」

 佇むユエル様に声をかけたのは、挑戦的な態度を取り続けていたイスラさんだった。さっきまでとは裏腹に落ち着き払った様子で、声も淡々としていた。

「ミズカちゃんは俺が部屋まで連れてく。傷の応急手当もしとくから」

 見かねてのことだったのだろう。

 イスラさんはわたしに近寄ると、添える程度の力具合で腕を掴んだ。さっきみたいな恐怖感は、もうない。

 イスラさんは申し訳なさげに、わたしに謝った。

「ごめんな、ミズカちゃん、怖がらせちゃって」

「…………」

 わたしは首を横に振って応えた。

 申し訳ない気分でいっぱいなのは、わたしの方だ。

 それなのに、せっかくの寛いだ時間を台無しにして、あまつさえイスラさんに「ごめん」なんて謝らせてしまうなんて……。

 ごめんなさいは、わたしが言うべきことなのに。

 なのに、声が出なかった。一言でも声を発したら、その拍子に泣いてしまいそうだった。

「ミズカちゃん、歩ける?」

 問われて、ぎこちなく頷いた。

 イスラさんはわたしの腕を掴んで、そのまま踵を返した。そしてユエル様の方に向き直って、赦しを求めた。

「ふざけて悪かったな。酒の席でのことだ。ここはひとつ、さらっと流して忘れてくれよな」

「…………」

 ユエル様はイスラさんとは目も合わさず、謝罪にも応えずに、再びソファーに腰をおろし、ワイングラスを手に取った。端正な横顔をこちらには向けてくれず、グラスを口につけるでもなく、ただ黙然と座っている。砕けた散ったガラスの破片もそのままに、まるで氷の彫像のような居ずまいで。



 ――雨は、まだ降り続いていた。

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