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15.誘い水

 大急ぎで居間へ戻ったわたしを、イスラさんが「こっちこっち」と手招きをし、笑顔で迎えてくれた。

 竹製の小椅子に座っているイスラさんは、空になったブランデーの瓶を振っている。

「おかえり、ミズカちゃん」

 ほんのりと頬が赤らいでいるけれど、酩酊している様子はない。だけど、あのブランデーは、たしかまだ半分以上残っていたはず。……全部、しかもロックで飲み干しちゃったのかな、イスラさん……一人で?

「お待たせしました。ワインはユエル様、ですよね?」

 空いたワインの瓶がテーブルに置いてある。これも半分以上残っていたはずのロゼのワインなんだけど、ユエル様お一人で飲み干してしまったらしい。

 下戸の吸血鬼なんて様にならないかもしれないけど、お二人とも……飲みすぎなんじゃぁ……。

「それほどでもないよ、ミズカ。このくらいは嗜む程度というものだ」

「ユ、ユエル様、考え読まないでください」

 ユエル様は一人用のソファーに深く腰かけ、ゆったりと足を組んでいた。そしてわたしにやわらいだ笑みを向けてくれている。

「私の顔と酒瓶とを見比べて、そうしかめっ面をされてはね」

「それ、は、その……、だって……」

「心配せずとも大丈夫だから。この程度はどうということもない。正気は保っているよ、常にね」

「……」

 ユエル様は黒絹のナイトウェアの上に黒地のガウンを羽織っていて、その肩先に銀の髪が流れている。なんとも艶めいた雰囲気で、酒気帯びのせいでさらに匂い立つような色香がある。

 いつも以上に艶美な微笑を向けられ、とても平静ではいられなかった。

 きゅぅっと胸が締めつけられて、酔ってもいないのに顔が赤くなってくる。……正気でいられないのは、わたしの方だ。

 胸の痛みに耐えかねて、わたしはいささか強引に話を転換させた。

「あ、あのっ、イスラさんは、ロックですよね? おつぎします」

「お、ありがと、ミズカちゃん」

 今日イスラさんが贈ってくださった「メイド服」は着用していないけれど、メイドらしく給仕をしようと居ずまいを正した。けれどユエル様がすかさず口を挟んできた。

「ミズカ、イスラに構う必要はない。イスラも、何ちゃっかりグラスを出している。自分で注げ。ミズカ、こちらへ。そこに座りなさい」

「え、えっと……」

 不機嫌そうなユエル様の口調に、わたしはちょっと身をすぼませた。

「おいおい、そう脅すように言うんじゃないよ、ユエル。ほんと余裕ねぇのなぁ。あ、いいよ、ミズカちゃん、セルフサービスらしいから、自分で入れるし」

「……はい」

 にこやかに笑って、イスラさんはわたしの手から新しいブランデーを受け取った。

「お、これ、俺の好きなやつだ、カルヴァドス。ありがとね、ミズカちゃん」

 カルヴァドスはフランスのノルマンディー地区で造られる、リンゴを主原料とした蒸留酒だそうだ。お酒には詳しくないし、飲む機会もあまりないので、その味がいか程のものかは分からない。とりあえず高級そうで美味しそうだったから持ってきたのだけど、イスラさんのお好きなお酒のようでよかった。

 ホッとしたのもつかの間、少々不機嫌な様子で、ユエル様が横やりを入れてきた。

「ミズカ、イスラに持ってくるのなら安酒で十分だ。……いや、私が指示しなかったのがいけないのだが」

「で、でもユエル様、安酒は一本も置いてないです」

「まぁ、たしかにそうか。しまったな」

 心底口惜しげに眉をしかめるユエル様を、イスラさんは「おまえはほんといい性格だよ」と睨みつける。とはいえ、さほど険悪なムードにならないのは、やっぱりお二人が長年の知己だからだろう。

 それにしても、ユエル様とイスラさんは、見た目だけで言うなら、とても対照的だ。たとえば、今の服装にしたってそう。

 ユエル様は全体的にシックにまとめてて、佳人に相応しい装いが常だ。カジュアルなスタイルに決めることもあるけれど、ラフ過ぎず、美装は崩さない。

 一方のイスラさんは白いTシャツと綿パンツというラフな格好で、どうやら普段からそうした服を好んで着るみたい。堅苦しくなく、緩くて気軽な雰囲気がイスラさんにはある。明るい茶系の髪も、洗った後そのまま手櫛で梳いたような整え方をしていた。おおらかなイスラさんらしい形貌だと思う。

 ユエル様が、「堅苦しくて、緩さがない」というのではない。むしろ普段のユエル様は、けっこう緩くて、のんびりしすぎていると思うくらいだ。

 イスラさんに対してだけとげとげしい態度になる。でも、それだって本気で厭ってのことではないと……思う。

「出してしまったものは今更しようがない。ミズカ、イスラは放っておいていいから、こちらに座りなさい」

「あ、……はい」

 わたしは落ち着かない心持ちでユエル様とイスラさんとを見やった。「どうしよう」と迷ったけれど、ここはともかく、ユエル様の言葉に従うべきだと断じ、ユエル様が指示した椅子に腰を下ろした。


 ユエル様はワインを手に取ると、手早くコルクを抜いた。

 そして、

「ミズカ、グラスを持ちなさい」

 と、わたしを促す。断れる雰囲気でもなく、わたしは言われるまま急いでワイングラスを手に取った。

 グラスに、ワインが注がれる。

 やや黄色みのかかった白ワインで、甘いような、酸っぱいような香りがたつ。芳醇な香りというのかもしれない。

「飲みなさい、ミズカ。喉が渇いていたのだろう? 身体も温まる」

 ユエル様はそう言って、もう一つのワイングラスに自分の分を注いだ。

「おっ、いいね! やっぱ酒の席に女の子がいると!」

 陽気なイスラさんの声に、ユエル様は渋い顔を返す。わたしはというと、ちょっと困っていた。

 だって、ユエル様の「晩酌の相手」なんて、今までしたことがなかったもの。

 お茶を一緒に飲むことはあっても、お酒を一緒になんて、あり得ない。仕えている主人に給仕するのではなく、同席してお酒を飲むなんて……。いいのかしらって、とまどってしまう。

 そんなわたしの葛藤を知ってか知らずか、イスラさんは気軽な口調でさり気なく訊いてきた。

「ミズカちゃんはお酒、いけるクチ?」

「え? いえ、どうでしょう……分からないです」

 飲んだことのあるお酒といったら、梅酒と蜂蜜入りのホットワインくらいだ。寒い日に身体を温める目的で飲んだものだったし、アルコール度数も低かったように思う。

「そっかぁ。じゃ、まずはぐぐっと、飲んで飲んで」

 なにやら嬉しそうにイスラさんは言う。そしてユエル様は眉間に深い溝をつくって、イスラさんを睨んでいる。

 わたしはとまどいつつも、ワイングラスに口をつけた。まず、香りが鼻腔をくすぐってくる。

 ワインの正しい飲み方なんて知らないから、ちょっと口に含んで、そのまま嚥下した。

「これはなかなか良いワインだよ。1969年ものの、エアバッハー・マルコブルン。ドイツのラインガウ地域の白ワイン。甘口だから、ミズカでも飲みやすいだろう?」

 ユエル様が言ったとおり、酸味も低く、かといって甘すぎもせず、苦味を感じる前に、するりと喉をくだっていった。

 亜矢子さんが持ってきたドイツワインは高価なものだったらしい。

 わたしはワインにも疎いから、亜矢子さんが言っていた「シュペートレーゼ」というのは、てっきり地名か醸造元の名だとばかり思っていた。

 シュペートレーゼというのは、等級を示す語で、「遅摘みした葡萄から造られる」ワインを指すのだと、ユエル様に教えられた。濃厚で、どちらかといえば甘口寄りのワインとのこと。

 そしてドイツワインに限ったことではないけれど、ヴィンテージもののワインというのは、目玉が転げ落ちるほどに、高価だ。

 亜矢子さんが持っていらしたこのワインも、希少価値の高い品だという。

 貢がれたユエル様はというと、特別にありがたがるでもなく、もちろん迷惑顔もしない。

「ワインに罪はないからね」

 なんて、笑って言ってのける。

 わたしは知らず、ため息をつく。そのため息も、ワインの良い香りに染められていた。

「ミズカちゃん、そういえば具合良くなかったんだっけ? 大丈夫?」

 お酒を勧めておいてから、はたと気がついた様子で、イスラさんが尋ねてきた。

「雨、弱いんだって? ユエルから、さっき聞いたけど」

「雨というか、湿気に、なんですけど」

「ユエルもだもんな。力の種類からいってやむを得ないか。けど、ミズカちゃんの方に大分しわ寄せがいっちゃったんだな」

「でもわたし、もともと雨の日って……少し苦手でしたから、その影響かもって」

「へぇ? そうなんだ?」

 イスラさんは、黄みをおびたこげ茶色の瞳を、まじまじとわたしに向ける。

 わたしは曖昧な相槌をうって、答えた。背中が一瞬痛んで、顔をしかめてしまった。

 ――雨の日は、こうして背にある傷が疼くから苦手なんだ。

 わたしはユエル様に目を戻した。

 ユエル様は黙したままわたしの様子を窺っている。何か言いたげに唇が動いたように見えたけれど、ワイングラスが傾けられ、同時に瞳も伏せられてしまった。

 また、ちくりと胸が痛む。

 なぜだろう。なぜこんなに胸が騒ぐのか、切なくなるのか、自分が分からない。

 顔が熱くなり、動悸がし始めたのは、きっとワインのせいだ。

「あっ、あの、訊きたかったことがあるんですけど! イスラさんの力は、なんなんですか?」

 話の転換の仕方が下手なのは、我ながら、もうどうしようもない。

 ユエル様から視線を逸らし、イスラさんに向け、唐突に話を切り出した。

「え? 俺?」

「はい。魔力っていうんでしょうか? そうした力を持ってらっしゃるんですよね?」

「ああ、うん。でも、俺ら吸血鬼全員ってわけじゃないんだぜ?」

「そうなんですか? それは、知らなかったです……けど」

「古い血脈の一族だけが力を保ってる。ユエルとアリア、まあ、一応、俺もだけどね。一族ったって、一族の全員が力を受け継ぐわけじゃないし、なんていうのか、天賦の才ってやつだね」

 さりげなく……でもないように思えるけど、自慢しているようだ。

 やっぱりイスラさんって、こういうところなんか、ユエル様に似ている。……なんて、口に出せないけれど。

「俺とアリアは同じ属性の力だ。風使い」

 そう言って、イスラさんは指を鳴らした。

 するとユエル様のしなやかな銀の髪が、下からすくいあげられるように浮いた。

「やめろ、イスラ、うっとうしい」

 ユエル様は髪を乱した旋風を、軽く手を振って、散らした。

 イスラさんは右手の上に、風を乗せている。小さな風の渦が、うっすらと見えた。

「こんな具合。風を使って身体を浮かせたりもできる。疲れるからあんまりやらないけどね」

 ああ、それでなんだと、納得がいった。

 イスラさんもアリアさんも、来訪時、どうやって二階にあがったのだろうと思っていたけど、柱を伝ってよじ登ったとかではなく、つまりそういう“力”を使って、上がったんだ。

「それじゃぁ、イレクくんもそういう力を持ってるんですか?」

「いや。あいつにはないよ。俺もよくはわからねぇけど、もしかして生殖者限定なのか?」

 イスラさんに問われ、ユエル様はグラスをテーブルに戻した。

「違うな。生殖者ではない奴でも、力を持つ奴はいた」

「そうか、そういう奴に俺は会ったことないからな。生殖と同じくらいレアな能力だと思ってたけど、そうでもないのか」

「レアな能力には違いない。力加減も、その種類と同じくそれぞれだ」

 それからユエル様は、不思議顔をするわたしに、改めて説明をしてくれた。

「吸血鬼」である、自分達のことを。


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