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14.予兆

 雨は、夜半に降り始めた。

 早めに床に就いたのだけど、なかなか寝付けなかったうえ、ようやく眠れたと思ったら、深夜に目が覚めてしまった。

 窓ガラスをたたく雨音と、背中に走る痛み、そして遠い日の“記憶”――……

「……」

 安らかざる眠りから覚めて、わたしは安堵のため息をこぼした。

 背が、微かに痛む。痛みはすぐに治まったけれど、体が酷く重かった。

 電気スタンドに手を伸ばし、スイッチを入れて時間を確かめた。卵を横に置いたような形のクリーム色の目覚まし時計の針は、一時をさしていた。

 両手で顔を覆い、背中を丸めた。

 ……憶えてなくて、よかった。

 一瞬過ぎった夢の記憶は、いつまでも脳裏に留まっていることはなかった。

 憶えていないのに、どうして? 酷い悪夢を見ていた気がする。動悸がして、冷や汗までかいている。背中の痛みは、胸が痛むよりもっと切実に……現実的にわたしを襲う。

 篠突く雨の音が、耳につく。

 室温の低さに体温が奪われていくようだった。

 ――何か、温かいものでも飲もう。

 ユエル様から生気をもらったばかりだというのに、渇きが癒えない。

 それはきっと雨のせいだ。

 そう思っていたかった。



 ユエル様の眷族になってから、わたしはなぜか雨に弱くなってしまった。雨、というより湿気、かな。

 そういえば、吸血鬼って「流れる水」が弱点だって本で読んだことがある。

 わたしの場合でいえば、流水自体は平気だ。だから蛇口から流れ出る水に驚いて腰を抜かすなんてことはないし、小川の辺で日向ぼっこをするのは好きだったりする。

 わたしのご主人様であるユエル様も、雨が苦手なようだ。

 ユエル様は、

「私の力の属性と反するものだから、こればかりはいたしかたないね」

 と述懐していた。

 苦手というだけでわたしほどに弱くはないから、雨の日でも普通に過ごしている。億劫がって外出したがらないというだけ。

 ――だけど。

 ユエル様と出逢った……というより見つけた……あの日は、雨だった。雨の中、ユエル様は行き倒れていたのだ。青ざめて、いかにも息も絶え絶えになって憔悴しきってた。

 なにがあったんだろう? どうしてあんなところで倒れていたの、ユエル様?

 これも、常々疑問に思っていて、そして訊けずにいたことだった。

 だってあれ以降、ユエル様が具合悪そうにしているところを見たことがない。

 生気不足のせいで前後不覚になり、道端で昏倒してしまうほど弱りきってしまうなんて、今じゃ想像もつかない。

 今日みたいに、渇ききってしまって倒れこんでしまうのは、いつもわたしの方だ。



 半袖のパジャマの上に薄手のカーディガンを羽織り、寝室を出た。

 廊下の小窓に映っているのは、濃紺の闇。窓ガラスはしとどに濡れ、幾筋も雫を垂らしていた。周囲に人家がないせいで外灯もなく、森は深い夜闇に包まれている。枝々をうつ雨音が暗い森に響き、さらに閉塞感を募らせていた。

 身を竦ませたのは暗闇が怖いからではなく、気温の低さのせい。夏とは思えないほど肌寒い。昼夜の気温差は、こうした高原地特有のものなのかもしれない。

 深夜ということもあり、足音を忍ばせて廊下を歩き、階段を下り、キッチンに向かった。

 階段を下りたところで、ふと、リビングから明かりがもれているのと、話し声がするのに気がつき、足をとめた。

 ユエル様と……イスラさんの声?

 キッチンへ向けていた体を、リビングの方へ向け、そろりと近寄った。

 ドアが少しだけ開いていて、そこから明かりと二人の話し声が漏れていた。

「ユエルさぁ、おまえいったい何考えてんの?」

「何とは、何だ」

 呆れたような声のイスラさんに、ユエル様は相変わらずつっけんどんに応えている。声だけでも、二人の表情が想像できる。

「どういう了見なんだ? まぁ、おまえさんらしいっちゃらしいが、ちょっとひでー気もするな。焦らすのも程度ってもんがあるだろ」

「余計なお世話だ」

「だって、おまえ、もう期限迫ってるじゃねぇの? だから俺達を呼んだんだろ?」

「おまえを呼んだ覚えはない」

「なんだよ、つれねーなぁ。心配して来てやったってのによ」

「心配? 嘘をつくな、嘘を」

「まぁ、実際のところはイレクが会いたがってたってとこなんだけどな。イレクが言ってたぞ? 余裕なさそうだってさ」

「…………」

 わたしはドアの影に潜むようにして立ち、息をひそめ、耳をそばだてていた。

 でも、これって立ち聞き……盗み聞きじゃない。

 だめだよこんな、失礼なこと! 早くここから立ち去らなきゃ!

 ――と思うのに、体が動かない。

 ユエル様とイスラさんの会話が気になって仕方がなかった。

「それにしても意外だな。昔はけっこう手当たりしだいで、無節操な方だったのによ?」

「人聞きの悪い。第一、おまえほどではない」

「そっちこそだろ? 人を浮かれ男みたく言うなよ」

「事実だろう、浮かれ者なのは」

「ユエルにだけは言われたくないなぁ。言っとくが、眷族に関してだけは、おまえにあれこれ突っ込まれる筋合いはないぜ?」

 不意に、イスラさんの声調子が鋭くなった。

「ユエル、おまえさ、もしかして別の相手探してんの? 占いとかなんとかいって物色中かよ? ミズカちゃんのことは……――」

 え、なに? 別の……相手……? それに、わたしのことって……?

 イスラさんの言葉にドキリと鼓動が跳ねた。

 どういう意味……? 先を聞きたくて、つい身を乗り出してしまった、その時だった。

 リビングの扉が大きく開けられ、照明の光が影を押しやった。同時に、わたしも光の中に身を晒すことになってしまった。

「……っ!」

 またしても鼓動が大きく跳ねた。途端、顔だけじゃなく、全身が熱くなった。

 ドアを開けたのは、ユエル様だった。わたしの立ち聞きに気がついて席を立ったのだろう。

「ミズカ」

 ユエル様は嘆息し、眉をしかめてわたしを見つめる。怒っている風には見えなかったけれど、気まずくて、目を合わせられない。

「すっ、すみませんっ、あのっ、わ、わたし、あの……っ」

 土下座をして謝罪したい気分だ。声が、どうしようもなく上擦ってしまう。

 肩をすぼませて、ひたすらに謝った。

「すみません、あのっ、わたし、あの立ち聞きなんてするつもりはなくて……っ」

 ――嘘だ。

 嘘だから、やましい気持ちに苛まれて、ユエル様の顔を見られなかった。

「ミズカ。顔を上げなさい」

「……っ」

「ミズカ」

「はいっ」

 ユエル様の平静な声が頭上に落ち、わたしは委縮したまま急いで顔を上げた。

 ユエル様はまたひとつ、小さなため息をついた。

「別に怒ってはいないよ、ミズカ。だからそう怯えなくてもいい。……だが、そうだな」

 ユエル様は肩越しに振り返り、わたしに向かってにこやかに手を振っているイスラさんを見やった。

 今度こそ呆れたように深いため息をつき、ユエル様は力なく肩を落とした。それからまたわたしの方に向き直り、表情を和らげて微笑みかけた。

「ミズカ、立ち聞きをしていた罰として、ブランデーと新しい氷、それからワイン……あのドイツワインがいいな。それとワイングラスを二つ、持ってきて」

「はっ、はいっ、分かりました、すぐにお持ちします!」

「ミズカ、慌てずにね。また躓いたりすると、せっかく治った足首を痛めるよ?」

「は、はいっ」

 ユエル様のからかうような笑みにちょっと安心したわたしは、慌てずにと言われたもの急いで踵を返し、小走りになってキッチンへと向かった。

 リビングから少し離れたところで一旦足を止め、ふと肩越しに振り返ってみると、ドアノブを掴んだままユエル様はまだそこにいて、わたしのことを見ていた。深緑色のまなざしが、わたしを捕らえている。

 わたしを眷族にしたあの日の、あの時の……哀しげな色と似ている気がした。

 胸が早鐘を打って、頬が熱りだした。

 頭を左右に降り、脳裏に焼き付いている深緑の切なげなまなざしを消そうとした。けれど、うまくいかない。それどころか頭の中がますますユエル様でいっぱいになって、息が詰まるほどだ。

 どうして? 何がこんなに苦しいの?

 ユエル様を見ていると……見つめられていると、苦しくて堪らなくなる時がある。

 どうしてなのか分からない。けれど、その苦しみは「いけない事」だという気がしていた。だからなるべく気に留めないようにしていたのに。

 ――それなのにまた苦しくなってしまった。しかも、今までにないほどの苦しさで胸を締め付けてくる。

 わけがわからず混乱して、わたしはまた向き直り、駆け出した。

 胸が締めつけられる。そして、鼓動の高まりに呼応するように、背がズキズキと痛みだした。

 その痛みは、忘れてしまっていることに対しての“罰”のようだった。


 忘れている……? 何を……? 思いだせない。……思いだしたくないような、けれど忘れてはいけなかったことのような。

 ……そう、たしかにわたしは大切な何かを忘れている。



 眠っていたはずの記憶の底から、冷たい断罪の声がした。

 ……――オマエノヨウナ、イヤシイモノガ、……ミノホドシラズナ……――

 ――……サレル、ハズガ、ナイ……オマエナド、ダレニモ……――


 その声は、どことなく亜矢子さんに似ている気がした……――

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