10.痛み
ざぁっと枝先を揺らす緑風が吹きつけてきた。
ユエル様の銀の絹糸のような髪が風に乱される。
銀の髪をしなやかな指で梳きあげると、ユエル様はわたしをじっと見つめ、意外そうに訊いてきた。
「日本を出たいの、ミズカ?」
「え? いえ、わたしではなくて。ユエル様は一つの国に留まるのはお好きじゃないって、イレクくんから聞いたのですけど」
わたしはためらいつつも、訊きかえしてみた。
「わたしを連れて海外へ出るとなると通訳とか、そういうのが面倒なのかなって。だからユエル様は日本に留まっていらっしゃるのかなって思って、それで」
「なるほど」
「え? なるほどって、それはどういう意味でのなるほどなんですか、ユエル様?」
「ミズカはそう思っていたのか、という“なるほど”だが」
「違いましたか?」
「違うような、違わなくないような……。まぁ、ミズカが教えてほしいというのなら、やぶさかではないよ」
「は、はぁ……」
わたしは首を捻った。
なにやら微妙で曖昧で意味深で、答えになってないですけど、ユエル様?
「西欧圏の言語を覚えようとするのなら、ラテン語から始めるのが手っ取り早いのだが」
ユエル様は腕を組み、そしてちょっとからかうみたいな顔をして、わたしを見る。……みたい、じゃなくて、間違いなくからかってる。
「どっ、どこが手っ取り早いんですかっ?! いきなりラテン語なんて!」
「大元の言語なのだから、基礎を知っていれば、他の言語を習得する際に、楽ができるのだけど?」
「ちょっ、それはいくらなんでもすっ飛ばしすぎです!」
「そう?」
「そうです! とりあえず、英語とかからで十分ですっ!」
「ミズカがそういうのなら、いたしかたないね。アメリカとイギリス、どちらがご希望かな?」
「……っ、わかりました、もういいです、ユエル様! 教えてくださる気、ないんですね」
わたしは踵を返した。
難癖つけてくるってことは、面倒だから教えたくないってことなんだ。
がっかりもしたし、からかわれてちょっと腹も立ったわたしは、勢いづけて歩き出した。ユエル様が後を追ってくる。
「ごめんごめん、ミズカ。待って」
笑いながら「ごめん」と言われたって、説得力ないですっ。
「知りませんっ」
――ヤダ。
……痛い。喉、痛い。胸も痛い。キリキリ痛んで、苦しくなる。
どうしよう。なんで……なんで、こんなことくらいで。
なんで泣きそうになんかなるの? 泣くようなことなんかじゃないのに。どうして、切なくなるの?
拒まれたわけじゃない。
いつもの悪戯心だって、わかってるのに。どうして拒絶されたみたいな、そんな身勝手な解釈をしてしまうの?
目が、熱くなってきてる。引き結んだ唇がどうしようもなく震える。
泣きそうになってることを悟られたくなくて、顔を俯かせ、小走りになった。
「ミズカ」
「……っ」
――ヤダ。
どうかしてるんだ、わたし。ユエル様の顔が見られない。泣きそうになってるこんなひどい顔、ユエル様に見せたくない。
「ミズカ、待ちなさい」
「……っ、やっ」
たまらず、駆け出そうとした。
ところが、気持ちと同様にもつれた足がそれを邪魔した。石を踏んづけ、それに足をとられてしまった。
「……った!」
ぐきっ、という擬音が聞こえてきそうだった。右の足首が不自然に曲がって、声をあげたのと同時に、ぺたんとお尻をついて、その場に座り込んでしまった。派手にすっ転ばなかっただけましだったけれど、情けないやら恥ずかしいやら、顔があげられない。
「ミズカ!」
「……っ」
踏んだり蹴ったり、という語彙が目の前で点灯していた。
捻ったらしく、ズキズキと釘を打ちつけてくるような痛みに眉をしかめた。
「ミズカ、だい……」
「大丈夫です!」
すぐにわたしに追いついたユエル様の差し出された手を取りもせず、顔を背け、立ち上がろうとした。けど、足に力が入らない。
「ミズカ」
ユエル様はわたしの前に片膝つき、そして捻った足首にそっと手を置いた。ユエル様の少し冷たい手が素肌に触れ、思わず身を竦めた。ユエル様が“手当て”をしてくれてると分かり、さらに申し訳なくなった。
「足首を、捻ったみたいだね?」
「…………すみません」
俯いたままだったけれど、非礼を詫びた。
仕える主人に対して、礼を失した態度をとってしまったのだから。
だけど顔を上げられない。眦に溜まった涙がこぼれ落ちそうだ。
「悪かったよ、ミズカ」
そんなわたしの顔を上げさせたのは、ユエル様の一言だった。
「からかったりして、悪かった。ミズカが望むのなら、英語でもスペイン語でもフランス語でも、きちんと教えるから」
「……ユ…ッ」
「それで、赦してはもらえないだろうか」
「……ッ」
思いもかけないユエル様の謝罪に、わたしは大いに周章し、言葉も出ない。迂闊にも、みっともない泣き顔をユエル様に晒してしまった。
涙が頬を伝った感触に気がついて慌てて拭ったのだけど、手遅れだ。
「わっ、わたし……」
「ミズカ、そのまま……じっとして」
「え?」
次の瞬間に起きたことは、わたしを驚愕させるのには十分だった。
ユエル様がさらにわたしに身を寄せ、背中と膝下に腕を回した。そして、体がふわりと浮いた。
「なっ、なん……っ?」
「じっとしていなさい、落ちる」
気がつけばわたしは抱き上げられていたのだ、ユエル様に。軽々と、横抱きにされていた。
「ユッ、ユ……ッ」
急な展開に頭がついていかない。
いっ、いったい何事がわたしの身に起きてるの? 何がどうなってるの?
胸が、痛いくらいに鳴ってる。顔中が熱い。
ユエル様はわたしを抱き上げたまま、歩き出した。
「あっ、歩けます、わたし……っ! おろしてください、ユエル様!」
「そうは思えないが?」
「でっ、でも……っ」
「どうしても嫌だというのなら、おろすが」
ユエル様は目を細めてわたしの顔を覗き込んでくる。数センチしか離れていないところにユエル様の美しすぎる微笑があって、目はチカチカするし鼓動は速まるばかりだし、おかげで涙は引っ込んだけれど、とにもかくにも落ち着かない。
「嫌とかじゃなくてっ」
「嫌ではないのなら、じっとしていなさい。……すぐに着くから」
「…………」
肩を竦め、わたしは小さく頷いた。頑なに拒んでユエル様の機嫌を損ねたくなかったから。
……ううん、違う。それだけじゃない。
恥ずかしくて申し訳ないと思いつつ、それでもこのまま、ユエル様の腕の中にいたかった。
――僅かの間だけでも。
* * *
帰宅したわたしとユエル様を出迎えてくれたのは、アリアさんだった。
「あらあら、お姫様だっこでご帰還とは。いいもの見ちゃったわ」
アリアさんはなにやら嬉しげににこにこ笑っている。
「おかえりなさい、ミズカちゃん」
「ただいま、です。……あ、あの、お姫様だっこって……なんのことですか?」
たぶん、それは間の抜けた質問だったんだろう。
アリアさんは一瞬目を丸くし、その直後ころころと笑い出した。
「今のミズカちゃんの状況のことよ? お姫様みたいな扱いでしょ、それって?」
「そんな……お姫様だなんて、わたしはそんな身分じゃ、全然……」
「ふふ。ミズカちゃんって、ホントに可愛いわ」
青い双眸に明るい光を宿して微笑むアリアさんは、悪戯好きの女神のようだ。神々しいだけではなく、近しさも感じる。そういうところがユエル様とよく似てる気がする。
ふと目線を上げると、ユエル様は表情を消していた。不機嫌そうではなかったけれど、少しバツの悪そうな顔に見えたのは、たぶんわたしの気のせいなんだろう。
アリアさんは小首を傾げ、ユエル様の顔を覗き込み、尋ねた。
「退屈だったから早く帰ってきたんだけど、手伝えること、ありそうね?」
それを受けて、ユエル様は「ああ、助かる」と短く応じた。
ユエル様はわたしを寝室まで運んでくれ、ベッドにおろしてくれた。ベッドの端に座るわたしの顔を、ユエル様は気遣わしげに窺ってくる。
「まだ痛むかい、ミズカ?」
「いえ、もう、だいぶいいみたいです。さっきユエル様に“手当て”をしてもらったから……」
「そう? ならば良いが」
「はい」
気恥ずかしくて、まともにユエル様の顔を見られない。胸の動悸も、さっきよりはだいぶん落ち着いたとはいえ、平常には戻らない。
かといってこのまま顔を背けてはいられず、平静なふりをした。もっとも、それはきっとうまくは出来ていなかったと思うけれど。
「すみません、お手間をかけてしまって」
「ミズカ、……――」
ユエル様は戸惑いがちな様子で、何かを言いかけた。けれどそれは扉の開く音によって遮られてしまった。
「入るわよ、ユエル、ミズカちゃん? 一応、湿布も持ってきたわ」
アリアさんが水の入ったデキャンターと湿布をお盆に載せて、部屋に入ってきた。
「ああ、すまない、アリア」
「すみません、アリアさん」
「いいのよ。それより、ミズカちゃん、足、痛まない? 湿布貼らなくても平気かしら?」
お盆をサイドテーブルに置き、アリアさんは青い目を何度も瞬かせて、わたしの顔を覗き込んでくる。
「ありがとうございます、アリアさん。痛みはもうひきましたし、大丈夫です」
「……ミズカちゃん、目が赤いわね? 何かあったの?」
心配そうな顔をし、アリアさんはわたしの頬に指を当ててきた。優しく触れてくるアリアさんの指の感触が、熱帯びた頬に気持ち良かった。
返答に窮して、わたしはちょっと目を逸らしてしまった。
ユエル様の方にも顔を向けられない。一瞬、微妙な空気が室内に漂った。
「…………いえ、その……、これはちょっと、ゴミが入って」
「両目に?」
「えっと、……そ、です」
「ミズカちゃん」
「……っ!」
唐突に、アリアさんはわたしをぎゅっと抱き寄せた。そして、おさまりの悪いくせっ毛を宥めるようにして、よしよしと撫でる。
アリアさんの豊満で柔らかい胸の谷間に顔を埋める形となってしまって、ドギマギしてしまった。
アリアさんは、とってもいい香りがする。鼻腔をくすぐる甘い芳香は、懐慕の情を誘うようだった。なんだか切なくなる。
「いい子ね、ミズカちゃん」
アリアさんの口調があまりに優しくて……。喉の奥がきゅっと締まったように痛む。
……どうしよう、また泣きだしてしまいそうだ。
「ミズカ」
アリアさんの後方に控えていたユエル様は、この時ばかりはアリアさんをわたしから引き離そうとはしなかった。
「ミズカ、このまま少し、休んでいなさい。昨夜は、あまり眠れなかったのだろう?」
「そうね。それがいいわ」
アリアさんはわたしを離し、前髪を撫でつけた。赤くなってる目元を隠してくれたのかもしれない。
「休めば気も落ち着くわ。ね?」
「……はい」
わたしは素直に頷いた。
余計な心配を、もう……これ以上かけたくない。
「じゃ、あたし達、行くわね? ユエル、行きましょ?」
「ああ」
アリアさんに促され、ユエル様も部屋を出て行く。
ユエル様はドアの向こうで一度足をとめ、わたしのことを振り返って見たようだったけれど、わたしはそれに気づかぬふりをして、布団にもぐりこんだ。
ドアの閉まる音がした。二人の足音も遠ざかっていく。
……ごめんなさい、ユエル様。
目頭がまた熱くなり、わたしはぎゅっと目を閉じた。
* * *
――心の奥にしまっておいた問いが、不意に浮かびあがってくる。
喉をせせりあがってくるのに、いつだって声にはならない、その問い。
生気の飲み方を教えられ、初めてユエル様の生気を飲んだ時のことだ。
「私のことを、恨んでいるだろうね?」
そう、ユエル様に訊かれた。微笑んでいたけれど、とても儚げだった。
わたしは首を傾げ、「どうして」と、訊き返した。
ユエル様はおうむ返しに、「どうして」と訊き返してきた。
「こんなことになってしまってとは、思わない?」
わたしは首を横に振って答えた。
人外の生き物になってしまったそのことに、たしかにとまどってはいたし、不安はあった。予想外の人生展開には違いなかったから。けれど…………
「恨むなんて、考えつきもしなかったです。ちょっと驚いてはいますけど。……まだ慣れないだけで、大丈夫です」
わたしの返答に、ユエル様はとまどったような笑みを見せた。「本当に?」とさらに訊き返してくるようなことはなかったけど、どこか不安なような、不審なような、揺らぎのある微笑だった。
「ユエル様には感謝してもしきれないほどなのに、恨むなんて……あり得ませんから!」
「……ミズカは、生真面目な性分だからね」
そう言って、ユエル様は苦っぽく笑って嘆息した。
ユエル様に引き取られてからずっと、わたしは自分の置かれた状況を把握するだけで精一杯だった。ユエル様の“眷族”になってからも、それはあまり変わらなかった。自分の身に起こった変化に無頓着すぎたかもしれない。
それでも、気になることはあった。
わたしに変化をもたらしてくれたユエル様に、ひとつだけ、どうしても訊けないことがあったのだ。
そして今もなお訊けずにいる。怖じている。
「どうして、わたしだったのですか」
と、ただそのひとつの問いに。