帰路の途にて
四時丁度に乗車した。汽笛を鳴らし列車が動き出す。
車内にはたくさんの人がいた。父は寝ていた。窓の外の景色を眺める。眼下には川が流れていた。昨日の台風で、川の水が増水し、土砂で、普段は透き通っているはずの水が濁っていて、心まで濁ってしまいそうになる。太陽はだいぶ西に傾いていて、夕焼けがきれいというよりは、恐ろしく輝いていた。
列車はトンネルに入る。
僕は父の方を見た。寝ている。そんな父になんだか腹が立ってくる。祖母がこんな状態になった時だというのに。
隣の座席に置かれた鞄から、僕は小さなお守りを取り出す。このお守りを見ていると、ああ、本当に久しぶりに、祖母に会うのだなと思う。
僕の母は僕が物心付き始めた頃には、すでにこの世にはいなかった。父は兄の喘息でしばしば東京の病院に通うように訪れていた。その時必ず僕は祖母のところに何日か預けられた。父は仕事や出張でしばしば家を留守していたので、祖母に僕を預けることがよくあった。祖母は僕にとって、いわばもう一人の親というもののようなものなのだろう。そんな祖母が体調を崩したのだ。
急に胃が縮むようにきゅんとして、息苦しくなった。僕は堪らず、お守りをカバンにしまった。
列車はトンネルを出た。
雲の隙間から光が漏れて、窓際の肘掛を照らすが、天からの不気味な洗礼のようで潔くは思えない。列車が下降しはじめて、橋を渡り、樹林を通りすぎ、隣を山に囲まれた海岸線沿いを列車は通過する。列車は徐々に減速し、閑静な田舎町の駅に停車した。こんなところに用があるのかと思うくらい多くの人が下車していく。そして、何人かが乗り合わせてきた。たまたま、乗り合わせた女性と目が合った。その女性は目を奪われるほど美人だった。そして胸を掴まれたかのように、きゅんと胃が縮んだ。女性は周囲を少し見渡してから、僕を見た。
「ここ、いいですか」
と、女性は、僕のカバンが置いてある座席を指差した。
「あ、はい」
僕は慌てて返事をして、カバンを自分で抱え、席を譲った。
「失礼します」
女性が座った時、微かな香水の匂いが僕の鼻を擽った。どこかで嗅いだことのあるような匂いだ。
「最近。暑いですね」
「はい。東京も猛暑が続いています」
「東京に住んでいらっしゃるのですか」
「ええ。故郷はこの近辺ですが」
「そうですか。今日はどうして?」
「祖母が体を悪くしていて、それが悪化したからです。それで、父と共に帰郷することになったんです」
「そうなんですか」
女性は両手を両膝に乗せている。なぜかその手には、血の気が悪そうな色をしている。その手を見ていたら、急に祖母のことが心配になった。
「あなたは、何処へ行くつもりですか」
僕は聞いた。
「ずっと遠くへ行くつもりです」
「遠く?」
僕は繰り返した。
「はい」
僕は、不意にこの人が遠くへ行ってしまうということが無性に悲しいもののように感じた。
女性は微動だせず、ゆっくりと落ち着いて口を開いた。
「そこには、娘がいるんです。数年前に、会えなくなってしまったんです」
僕はその〝娘″のことをよく知っているような気がして恐くなった。
列車がガタ、ゴトと音をたてて、鉄橋を通過する。窓の外は少し暗くなってきた。そこには、不気味な静けさが漂っていた。
そして僕はここで話が途切れたことを、後で後悔することになった。
トンネルを出たあたりで、父が起きてしまったのだ。父は小さく伸びをした。
すると、その時、隣で息を呑む声が聞こえた。女性は急に血相を変えて、立ち上がり、僕たちから逃げるように去っていった。
僕は突然のことで、しばし呆然としていた。
まだ、話したいことはたくさんあった。せめて、別れの挨拶くらいはしたかった。今生の別れの挨拶を。
「遼、あと、何駅だ?」
父があくびをしながら、僕に聞いてきた。父は今の出来事に気付いていないらしい。
「え、ああ。もう着く」
「そうか」
父はそう呟き、再び目を閉じた。
僕は彼女のことを考えた。僕は、カバンから、祖母から貰ったお守りを取り出した。
「なあ、遼」
突然、目を閉じたまま父が僕を呼んだ。
「不思議な夢を見た」
「夢?」
「そうだ。お前と、お前のおばあさんが話をしている夢だ」
僕は、父の言葉にハッとなった。
「笑ってしまうくらいに、変によそよそしく話していてな。そして、なぜか、二人ともとても悲しそうにしているんだ」
僕は胸が急に痛くなる感じがした。僕は持っていたお守りを、強く握り締めていた。
列車はだんだんと減速していって、窓の外には懐かしい風景が見渡せた。
列車が停車し、僕と父は下車した。
僕はホームに降り、周囲を見渡しその女性を探したが、彼女の姿はなかった。
「どうした。遼」
父の声がかかる。
「いや、なんでもない」
その時、僕は祖母がなんとなく、逝ってしまったと思った。
そして、その数時間後、僕と父は、祖母が亡くなったことを知ることとなった。
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