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第六十一環 「魔王に届くために」


——夕方。魔王城・闘技場。


リリスが立っている。


ただ、それだけで——闘技場の空気が歪んでいた。


重力が増したわけではない。温度が変化したわけでもない。


それでも、零の全身が警告を発している。


呼吸するたびに肺が軋む。瞬き一つにも隙を作れない。


目の前にいる白銀の女から、一瞬でも意識を逸らせば死ぬ。


そんな確信が、本能の底から湧き上がってくる。


リリスは何もしていない。


闘技場の中央で腕を組み、余裕の笑みを浮かべているだけだ。


しかし、その立ち姿には一分の隙もない。


攻撃を届かせれば零の勝ち。


条件だけを聞けば簡単に思える。


だが、対峙した瞬間に理解した。


リリスへ触れることは、起源回帰を解放したクオンへ一撃を入れるよりも遥かに難しい。


これが——魔王。


零の左腕で《夢幻抱擁(ウロボロスサーキット)》が激しく脈打つ。


通常状態のまま、様子を見る余裕などない。


最初から全力で挑まなければ、何もさせてもらえずに終わる。


「——起動」


零の腕輪から、漆黒の魔力が噴き出した。


蛇の形をした黒い光が左腕を這い上がる。肩から胸へ、胸から腰へ。全身を巡り、零の肉体を覆っていく。


黒い装甲が形成された。


禍々しくも美しい、蛇の鱗を思わせる意匠。


胸部には、己の尾を喰らう蛇の紋章が浮かび上がる。


神装第一位階の臨界点を超え、その先へ。


神装第二位階——。


「《無窮蛇装(ウロボロス・アペイロン)》」


漆黒の蛇装が完成した。


だが、零の魔力は外へ噴き出さない。


体内を巡る魔力が一つの輪となり、始点と終点を失った無限循環を形成する。


蛇が己の尾を呑み込む。


一周するたびに魔力は研ぎ澄まされ、肉体と精神を一つの存在として固定していく。


リリスの圧は、少しも弱まっていない。


それでも——零の輪郭は、もう揺らがなかった。


魔王の存在を押し返したわけではない。


魔王より強い圧を放ったわけでもない。


ただ、リリスの支配領域の中で、零は零として立っている。


膝を折らず。目を逸らさず。


己の意思で、魔王と対峙している。


「——へえ」


リリスの深紅の瞳が、僅かに見開かれた。


圧倒された様子はない。


しかし、そこには純粋な感嘆があった。


「外へ力を放つんじゃなくて、自分の内側に閉じ込めたのね」


リリスは零を包む漆黒の蛇装を観察する。


「誰かを支配するための力じゃない。何者にも支配されないための力」


唇が愉快そうに持ち上がった。


「面白いじゃない」


外周で障壁を維持するルシアも、《無窮蛇装》から目を離せなかった。


クオンとの戦いで一度目にしている。


だが、あの時よりも明らかに循環が安定していた。レイラとの訓練を経て、零は蛇装の本質を理解し始めている。


上空のシエラも翼を広げたまま、固唾を呑んで見守っていた。


「……零」


小さな声は、風の中に消える。


闘技場の中央で、零が右足を引いた。


漆黒の拳を握る。


夢幻抱擁は一を無限へ、無限を零へと変える神装。


零とリリスを隔てる距離は、約十メートル。


その距離を認識し、干渉する。


十を、一へ。


一を限りなく零へ。


零とリリスの間にある空間が歪んだ。


瞬間移動ではない。


零自身が空間を跳躍したわけでもない。


二人を隔てていた距離そのものが、限りなく消失へ近づいていく。


零が一歩を踏み出した瞬間、その姿がリリスの眼前へ現れた。


「——っ!」


漆黒の拳を放つ。


距離を失った場所から繰り出される、回避不能の一撃。


拳が、リリスの頬へ迫る。


だが——。


リリスの深紅の瞳は、最初から零を見ていた。


白い指先が動く。


零の拳が完成するよりも早く、その手首の側面へ指が触れた。


軽く、弾く。


ただ、それだけだった。


漆黒の拳がリリスの頬を外れ、零の体ごと横へ流される。


次の瞬間。


轟音。


零は闘技場の壁へ叩きつけられていた。


物理衝撃を吸収する障壁が激しく波打ち、一面へ蜘蛛の巣状の亀裂が広がる。


「物理障壁、損傷!」


ルシアが叫び、即座に魔石の出力を切り替えた。


予備術式へ魔力を流し込み、亀裂の走った障壁を再構築する。


零の体が壁から剥がれ、片膝をついた。


《無窮蛇装》に亀裂はない。


それでも蛇装の内側まで衝撃が届き、体の芯が激しく痺れていた。


攻撃を受けたという実感さえ薄い。


リリスは零の拳を殴り返したわけではない。指先で力の方向を僅かに変え、零自身の勢いを壁へ流しただけだ。


零は片手を地面につき、呼吸を整える。


リリスは元の場所から動いていない。


腕を組み直し、何事もなかったように立っていた。


「距離の概念操作、ね」


深紅の瞳が愉悦に細められる。


「悪くないわ」


リリスは、自分の頬のすぐ横を通過した拳の軌跡を思い返すように、白銀の髪へ指を通した。


「でも——遅い」


零が顔を上げる。


「距離は消したはずだ」


「ええ。九割九分はね」


リリスが人差し指を立てる。


「でも、最後の『一』が残ってた」


距離を零へ変える概念操作。


今の零では、世界に存在する距離を完全に消滅させることはできない。


まして、リリスという圧倒的な存在の周囲では、魔王自身の力が空間を固定している。


零が十を一へ近づけても。


一を限りなく零へ近づけても。


リリスの周囲にある、最後の僅かな距離だけは消しきれなかった。


その一瞬にも満たない隙を、リリスは見逃さなかった。


「それに、概念が切り替わる瞬間は魔力が揺れる。どこへ現れるか、教えてるようなものよ」


零は立ち上がった。


体の痺れは残っている。


それでも、金色の瞳は死んでいない。


正面からでは届かない。


ならば、死角から。


零の周囲で、無限循環が再び加速する。


今度はリリスの背後にある空間を認識する。


十メートル。


五メートル。


一メートル。


距離を限りなく零へ近づける。


零の姿が掻き消えた。


同時に、リリスの背後へ出現する。


白銀の髪が、視界いっぱいに広がった。


拳を振り抜く。


リリスは振り返らなかった。


「零、駄目!」


シエラの声が上空から響く。


リリスの左手だけが、背後へ伸びる。


零の拳が完成する直前、その手首を正確に掴んだ。


「——っ!」


指が食い込む。


万力のような力。


《無窮蛇装》の増幅を受けた零の腕が、完全に固定された。


リリスは背を向けたまま、零の拳を止めている。


「視界の外なら当たると思った?」


白銀の髪が揺れ、リリスがゆっくりと振り返った。


「私は目だけで戦ってない」


深紅の瞳が零を映す。


「魔力の流れ。空間の歪み。風の変化。地面を伝わる振動。それに——」


握る手へ、僅かに力が加わる。


「戦場で積み重ねた勘」


そのまま零の腕を引き、体勢を崩す。


零は即座に足を踏ん張った。


リリスの力へ逆らわない。引かれた方向へ自ら踏み込み、自由な左拳を顎へ向かって振り上げる。


だが、それも読まれていた。


リリスの右手が左拳の軌道へ添えられ、勢いを外側へ流す。


零の体が回転した。


地面へ叩きつけられる寸前、左手を石畳へつく。その腕を軸に体を跳ね上げ、リリスの側頭部へ蹴りを放った。


白銀の髪が靡く。

 

リリスは上体を僅かに傾けるだけで蹴りを躱した。


零の足が空を切る。着地と同時に後退し、距離を取る。


リリスは追撃しなかった。


むしろ楽しそうに零を眺めている。


「体の使い方は悪くない。クオンに教わったの?」


「ああ」


「力へ逆らわず、利用する判断もいい。でも——」


リリスは片手を上げた。


人差し指を、零へ向ける。


「今のあんたは、《夢幻抱擁》を便利な移動手段としてしか使えていない」


零の眉が僅かに動く。


「距離を縮めて近づくだけ。それじゃ、転移魔術と大して変わらないわ」


「……何が言いたい」


「分からない?」


リリスの笑みが、僅かに深くなる。


「夢幻抱擁は、距離を操るだけの神装じゃないんでしょ」


挑発。だが同時に、それは明確な導きだった。


「一を無限に。無限を零に」


リリスは零自身の能力を確かめるように、その言葉を口にする。


「それほどの力を持っていて、近づくことにしか使わないなんてもったいないじゃない」


零は黙った。


リリスの言葉が、頭の中で反響する。


距離だけではない。


夢幻抱擁が干渉できるものは、もっと広い。


零が一として認識し、循環を成立させられるもの。


それなら。


これまで受けてきた訓練が、脳裏に蘇る。


ルシアから学んだ魔術理論。


クオンから叩き込まれた体の使い方。


シエラとの空中戦で身につけた立体的な視野。

 

そして、レイラから教わった認識への干渉。


四座から受け取ったものが、零の中で一つに繋がり始める。


リリスは、その変化を見逃さなかった。


「そう。その顔よ」


深紅の瞳が、楽しげに細められる。


「概念を操えるなら——もっと使い方があるでしょ?」


零の内側で、無限の蛇が回転を始めた。


距離の先へ。


未だ触れたことのない概念へ。


魔王に攻撃を届けるための、新たな一手が形を成そうとしていた。


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