真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の話
真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の遠い思い出の話
「じっとしていてね」
柔らかく穏やかな声で、その女性は声を掛ける。風が吹き、窓枠がガタガタと揺れる。建付けの悪い扉がギシギシと音を立てた。女性を囲み、老夫婦と若い夫婦、そして幼い女の子が固唾を飲んで見守る。女性は床に直に座り、膝の上に小さな命を抱いていた。少し離れた場所に、場違いに整った身なりの執事然とした男性と、彼の手を握る赤いドレスの少女がいる。
「くぅーん」
女性の膝の上で寝そべり、苦しげに鳴き声を上げたのは一匹の犬だった。静かな室内に、すでに老犬と呼ばれる年齢になったその犬の息遣いだけが響く。飼い主家族の幼い女の子は目に一杯の涙を溜めていた。女性は女の子を安心させるように微笑み、犬をそっと撫でると、表情を真剣なものに変える。何かを見極めるようにじっと犬を見つめ、女性は犬の背を人差し指で軽く突いた。
――トン
ビクリと犬の身体が震え、硬直する。女の子はぎゅっと胸の前で手を握った。母親が女の子を抱き寄せる。女性は透徹した瞳で犬の足を、首を、頭を、突いていく。
――トン
女性は犬の眉間を指で突く。犬の両耳がピンと立った。女の子が大きく目を見開く。犬は自ら立ち上がり、女の子を振り向くと、
「わんっ」
力強く吠える。女の子は手を広げて犬に駆け寄った。犬は女の子の腕に飛び込み、抱えられて顔を舐める。女の子は犬をそっと抱きしめた。
「ありがとう、ございます――」
女の子の両親が女性に深く頭を下げる。
「――もう、ダメかと思っていました。自分で立つこともできなくなり、目もほとんど見えない様子で、このまま、死んでしまうのではないかと……」
女の子の祖父母が鼻をすすった。女性は立ち上がり、柔らかく微笑む。
「あなた方の家族を想う気持ちが私を呼んだのです。その心映え、充分に誇ってよいものですよ」
女性は女の子の父親に近付くと、水が高きから流れるような自然な動きで彼の左膝を軽く指で叩いた。
――トン
女の子の父親はハッと驚いた表情を浮かべる。女の子の母親が訝しげに眉を寄せた。父親は呆然とつぶやく。
「……実は、半年前から左の膝を痛めていたんだ。それが、嘘のように痛みが引いた――」
女性はふわりと身を翻し、女の子の母親の前に立つと、穏やかにその胸の中心を突く。
――トン
女の子の母親は目を瞬かせ、胸に手を当てる。女の子の祖父が「どうした?」と声を上げた。女の子の母親は呆然とつぶやく。
「……実は最近、胸が苦しくて。でも今、苦しさが嘘のように消えた――」
女性はゆらりと身を翻し、女の子の祖父の前に立つと、その腰を軽く叩く。
――トン
「じ、爺さんの腰が伸びた!?」
大きく曲がっていた女の子の祖父が背筋をピンと伸ばす様を見た女の子の祖母があんぐりと口を開く。女性は踊るように身を翻し、女の子の祖母の鼻を人差し指で軽く押す。
――トン
「婆ちゃんの肌がつるつるに!?」
奇跡を見るような目で女の子の父親が叫ぶ。皆を見渡し、女性は力強く告げた。
「健やかにあれ、我が民よ! 皆の安寧こそバゥムの喜びなれば!」
その威厳と美しさに四人の大人が自然と傅く。女の子に抱かれた犬が「わん」と鳴いた。女性は目を細めて犬を見つめる。憧れを宿した瞳で女の子は女性に言った。
「ありがとう、お姉さん!」
一瞬驚いたように目を見開き、すぐに嬉しそうに微笑んで、女性は女の子の頭を撫でると、
「では、参りましょう」
背を伸ばし、感謝と尊敬を受けながら家を出ていった。執事然とした男性が隣にいる赤いドレスの少女に囁く。
「よぉく御覧なさいませ。あの背中こそが、貴女様がやがて辿り着く頂でございます」
バゥム公爵令嬢スカーレット、六歳。赤いドレスがまだ馴染まぬその少女は、母にしてバゥム公爵夫人シャーロットの偉大な姿を、上気した顔で見つめていた。
――きゃぁーーーっ
家を出たシャーロットたちの耳に絹を裂くような悲鳴が聞こえる。シャーロットは眼光鋭く悲鳴が聞こえてきた方向を見据えた。蜘蛛の子を散らすように村人たちが逃げ惑い、自宅に飛び込んで鍵を掛ける。村の入り口には望まざる客――抜き身の太刀を誇示するように掲げた無頼の男たちがにやけた笑いを浮かべてゆっくりと歩いてくる。逃げ遅れた憐れな娘が荷物のように抱えられ、恐怖に身を強張らせて声もなく泣いていた。シャーロットの瞳が鋭さを増す。
「邪魔するぜぇ」
背後に手下を引き連れて下卑た笑いを浮かべ、男はシャーロットの前に立つ。シャーロットは娘を庇うように右手を広げた。
「バゥム公爵夫人シャーロット様、ってぇのは、あんたで間違いねぇか?」
男は舐めるようにシャーロットのつま先から顔までを見回した。シャーロットは答えず、横に控える執事然とした男性に呼びかける。
「オズワルド」
「はい、奥様」
執事オズワルドはシャーロットに深く一礼する。男が不快そうに口を開いた。
「おい、動――」
男の言葉が終わる前に、オズワルドの姿が掻き消える。風が吹き砂煙が舞った。男が腕で顔を覆う。砂煙が晴れたとき、オズワルドは元居た場所と寸分違わぬ場所に立っていた。傍らに捕まったはずの娘を連れて。娘はぱちくりと瞬きする。男は唖然と娘を見つめ、
「おい、なにやってやがる!」
振り返って手下に怒鳴った。
「い、いや、その、すんません!」
手下は訳が分からないと言いたげに自分の手を見つめる。オズワルドは娘に逃げるよう促し、娘は深く一礼して帰っていった。男は苦々しい顔で舌打ちすると、シャーロットに向き直った。
「まあいい。あんたがシャーロットだな?」
「ええ」
シャーロットは泰然と微笑みを返す。まるで怯える様子もない彼女に、男は苛立ったように顔をしかめた。
「大貴族の奥様がこんな山奥で、護衛も連れずにお散歩かい? 危機感が足りねぇんじゃあねぇのかい?」
男は威圧するように顔を近づける。シャーロットはおかしそうに笑った。
「心配してくださらなくて結構よ。こう見えて、大抵のことは自分でできますもの」
男はギロリとシャーロットをにらみつける。スカーレットが不安そうにオズワルドの手を握った。シャーロットは男を正面から見つめ返す。張り詰めた沈黙が降り――やがて男は吹き出すように笑った。
「大した胆力だ。そこらの貴族連中とは格が違う」
シャーロットは白けたように鼻を鳴らす。男はクククと喉の奥で笑い、昏い瞳をシャーロットに向ける。
「イシュガルの薔薇、奇跡の癒し手、聖女シャーロット・バゥム。あんたを『欲しい』って奴らはごまんといる。悪いが一緒に来てもらうぜ。俺たちの輝かしい未来のために、なんつってな」
自分のセリフを気に入ったか、男は再びクククと笑った。乾いた笑い声が広がる。その昏い瞳には擦り切れ果てた諦念があった。シャーロットは男の笑いが収まるのを待ち、はっきりとした口調で告げる。
「お断りいたしますわ」
男の顔から表情が消えた。
「お断りされたからって、そうですか、たぁ帰れねぇのよ」
男は軽く手を上げて手下に合図する。
「縛り上げろ。殺すなよ」
二人の手下が縄を手にシャーロットを左右から挟み込む。男はつまらなさそうに鼻を鳴らし、シャーロットに背を向けた。スカーレットがオズワルドの手を強く握る。オズワルドは穏やかに言った。
「ご心配なさいますな。貴女の母君は、お強うございますよ」
男は手下たちに向かって声を張る。
「聖女サマを売っ払や、向こう何年安泰だ。帰ったら宴といこうじゃ――」
「か、頭っ!」
手下が慄いたように身体を震わせて男の背後を指さし、男は訝しげな表情で振り返った。同時に
――どさり
重い物が地面に落ちる音がする。振り返った男の目に、優雅な所作で佇む貴婦人の姿が映った。貴婦人の足元に二人の手下が転がっている。
「……てめぇ、なにしやがった」
低く物騒な響きを帯びた声で男が問う。傲然とシャーロットは男を見据えた。
「私をただ、公爵閣下を彩る花と侮るなら、それは心得違いというもの」
シャーロットは半身に構え、挑発するように男を手招く。
「来るがいい。バゥムの女に触れる勇気が、お前たちにあるのなら」
男は憎らしげにシャーロットをにらみ、
「かかれ!」
鋭く叫んだ。
手下の一人がナイフを手にシャーロットに襲い掛かる。刃が陽光を反射し、弧を描いて振り下ろされた。シャーロットはわずかに身を引いてそれをかわし、
――トン
手下の男のこめかみを指で突く。ぐるん、と白目を剝き、手下の男は地面に倒れた。
別の手下が両手に手斧を持ってシャーロットに迫る。左右から、それぞれが別の生き物のように蠢く軌道を描く斧の刃を紙一重でかわし、
――トン
手下の男の胸の中心を突く。目を見開き、苦しげな呻きを上げて、手下の男は地面に崩れ落ちた。
――トン
――どさっ
――トン
――ばたっ
シャーロットが触れるたび、手下たちが地面に転がる。オズワルドとスカーレットを除けば、立っているのはシャーロットと頭と呼ばれた男だけになった。泥中の蓮のごとく、横たわる手下たちの中心でシャーロットは佇む。男が震える声で叫んだ。
「……な、なんなんだ。なんなんだ、てめぇ!」
落ち着いた声でオズワルドが答える。
「『気脈整えば即ち生き、気脈乱らば即ち死す』。奥様は遍く生物の体内を巡る気の流れを操る『柔拳』の使い手――その頂点に立つ御方にございます」
男は奥歯を噛み締め、シャーロットをにらみつける。己を鼓舞するように雄たけびを上げ、男はシャーロットに飛びかかった。太い右腕が風を裂いてシャーロットに迫る。シャーロットは半歩退いて腕を避ける。風圧がシャーロットの髪を弾く。
「どうすれば癒せるかを知るということは――」
シャーロットは男に顔を寄せ、耳元で囁く。
「――どうすれば壊せるかを知る、ということだ」
――トン
シャーロットは男の右腕の付け根を軽く指で突いた。男の右腕がだらんと下がる。
「――力が、入らねぇ!?」
――トン
シャーロットは今度は男の左腕の付け根を突いた。同じように左腕から力が抜けた。男の顔から血の気が引き、血走った目が大きく見開かれる。
――トン
シャーロットが男の顎に触れ、男は膝から崩れ落ち、地面に倒れた。シャーロットは男の傍らに片膝をつき、人差し指を彼の首に突きつけた。
「奪うことを決めたのならば、奪われることを覚悟せねばならぬ。お前が選んだ外道の理とはそういうものであろう?」
男は首をひねり、激しい憎悪を宿した目でシャーロットを見上げた。
「てめぇにゃ分からねぇだろう! 奪わなきゃあ生きられねぇ俺たちの気持ちが! 生まれたときから恵まれてる、てめぇらには!!」
シャーロットはじっと男を見つめる。わずかな沈黙の後、シャーロットは冷淡に答えた。
「分からんな」
男の目に宿る憎悪と憤怒が激しさを増す。シャーロットは凪いだ瞳で男を見ている。
「ゆえに、選ばせてやろう」
シャーロットは立ち上がり、西の方角に顔を向けた。男の表情に戸惑いが混じる。
「私は今、動物愛護の推進、啓蒙を行う組織をこの国に作ろうとしている」
シャーロットが高慢な美しさで男を見下ろした。
「選ぶがいい。今、ここで死ぬか、私に仕え動物愛護団体の職員となるかを」
男は何か言おうと口を開け、開けたまま何も言えずにシャーロットを見る。そして地面に目を落とし、辛うじて言葉を絞り出した。
「……手下どもは、助けてくれるんだろうな?」
「職員になってくれるなら」
葛藤するように沈黙し、男は目を瞑ると、小さく掠れた声で返答する。
「……わかった。あんたに従おう」
シャーロットは表情を和らげ、再びしゃがむと男の背をトン、と叩いた。男がゆっくりと立ち上がる。その顔にもう敵対の意志はない。ただ、表情はどこか気が抜けたようにぼんやりとしていた。
「悪いようにはせぬ。奪うのではなく慈しむ道を、お前たちにくれてやろう」
男は皮肉げに口の端を歪ませる。不穏の気配が去ったことを感じたか、家々から村人たちがおそるおそるといった風情で外に出てきた。
「シャーロット様――!」
村人たちが口々に名を呼び、平伏する。スカーレットがオズワルドから手を離し、シャーロットに抱き着いた。
「お母様!」
シャーロットは愛しい娘を抱きしめる。
「帰りましょう、スカーレット。きっとお父様が首を長くしてお待ちよ」
村人たちの称賛の声を受け、シャーロットは颯爽と歩き出す。幼いスカーレットは母に手を引かれながら、憧れと尊敬の眼差しでその横顔を見つめていた。




