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殺意10%OFF

作者: 御子柴 流歌
掲載日:2026/04/23

 割引というのは、基本的に良いものだと世間では思われているらしい。

 家計に優しいとか、お得だとか、同じ物を安く買えるだとか。

 けれど、法律事務所のビルの一階に貼ってある「殺意 10% OFF」というポスターを見て立ち止まる人の顔は、だいたい「得した」という顔ではなかった。


 そりゃそうだ。

 殺意を割り引かれて嬉しいのは、だいたい割り引かれる側ではない。


 で、その貼り紙を作ったのがうちのボス、(せり)(ざわ)弁護士である。


「どうだ、インパクトあるだろう?」


 初めてデザイン案を見せられたとき、僕――司法試験浪人中の事務員・()()()は、心の中でだけ全力で土下座した。

 ポスター中央には、でかでかと「殺意 10% OFF」の文字。下に小さく、ほんとうに申し訳程度に、


 ――殺人事件の“殺意”を、法的に一段階引き下げる可能性があります。


 と書いてある。

 どこからどう見てもキャッチコピーが悪ふざけだ。裁判所の前に貼ったら警備員に剥がされる自信がある。


「先生、これ倫理規定に引っかからないんですか」

「引っかからないように、ちゃんと“可能性があります”って書いてあるだろ。広告表示の王道じゃないか」

「そういう問題じゃないと思うんですが」

「大丈夫だ、“殺意 100% OFF”とは書いてない」


 ――などという、今思えば伏線めいたやりとりをしていたのが、事件の一週間前だ。


     ◇


 昼休み、コンビニの唐揚げ弁当をつついていると、事務所の固定電話が鳴いた。

 うちのような零細法律事務所に、昼休みを気にしてくれるような上品な依頼人はあまり来ない。だいたいのトラブルは時間帯を選ばない。

 受話器を取ると、やたらと無機質に聞こえる機械音声が僕に「この電話は拘置所からです」と告げた。


「あの、芹沢法律事務所さんでしょうか」


 少し掠れた、けれどはっきりした女性の声だった。


「はい、そうですが」

「ニュースで、看板を見ました。“殺意 10% OFF”って……あれ、御社ですよね」

「……ええ、一応、はい」

「だったら、わたし、お願いしたいです。わたしの殺意も、十パーセントだけでも、割り引いていただけませんか」


 電話越しでも、冗談ではないことくらいは分かった。

 その日の夕方には、僕と芹沢先生は、早々にニュースで見覚えのある拘置所の面会室に座っていた。


     ◇


 ガラス越しに現れたのは、四十前後だろうか、痩せた女性だった。

 名前は(あさ)()()()()。ニュースで「夫殺しの妻」として騒がれていた人だ。


 地方都市の一角にある古いマンションの階段踊り場から、夫が転落死。

 近所の住人の「夫婦げんかの声を聞いた」という証言、妻の手に残った軽い打撲痕。

 おまけに、現場近くの電柱に貼ってあったのが例のポスターだ。カメラが律儀にそれまで映してくれたおかげで、「殺意 10% OFF」は一夜にして全国デビューを果たした。


「正直、あのポスターのおかげでうちの電話は鳴りっぱなしだ。苦情でな」


 と、面会室に入る前に芹沢先生は飄々と言った。

 なのに、ガラス越しに彼女を見たとき、その目が明らかに嬉しそうに光ったのを、僕は見逃さなかった。


「初めまして。弁護士の芹沢です。こちらはうちの事務員の水無瀬」

「……朝比奈志穂です」


 朝比奈さんは、椅子にきちんと背筋を伸ばして座っていた。

 服装は拘置所の支給品なのに、どこか会社の応接で会うような雰囲気を纏っている。


「ニュース、ご覧になりました?」

「ええ、もちろん。テレビなんて普段見ないんですけどね。自分の事務所の名前がワイドショーで連呼されるとなると、さすがに」

「……すみません」


 朝比奈さんが小さく頭を下げる。謝られる筋合いはないのだが、たぶん習慣なのだろう。

 彼女は、メーカーの営業事務をしていたという。その仕草は、いかにも「誰かのクレームを毎日受けて来ました」という人のものだった。


「まずは、率直にお聞きしましょうか」


 芹沢先生は、メモ帳も広げずに言った。


「あなたは、ご主人を殺すつもりだったんですか?」


 そんなストレートな聞き方をいきなりするのはどうかと思う。

 けれど、朝比奈さんは少しも動じず、小さく首を振った。


「……殺すつもりは、ありませんでした」

「でも、ニュースでは“殺意を持って突き落とした”と」

「突き落としてなんか……ないんです。本当に」


 彼女の声は澄んでいた。

 ただ、ところどころで言葉を探して詰まる。その詰まり方が、むしろ嘘をついていないように聞こえた。


「わたし、あのポスターを見たんです。電柱のところで」

「“殺意 10% OFF”」

「はい。正直、最初に見たときはふざけてるんだって思いました。でも、そのとき……あ、笑わないでくださいね」


 彼女は一呼吸置いて、僕たちを見た。


「“ああ、わたし、いま殺意が九十パーセントくらいあるんだな”って、そう思ったんです」


 笑えなかった。

 彼女は、真顔でそう言った。


     ◇


 話を聞いていくと、おおよその事情はこうだった。


 夫・(あさ)()()(ひろ)()は、いわゆる小さな会社の課長で、自分の会社ではそこそこ偉い人。

 ただし、家ではその偉さを完全に間違った方向に使うタイプだったらしい。


 家事に口を出す。

 料理の味にケチをつける。

 妻が友人と飲みに行くと言えば嫌な顔をし、自分は飲み会では終電を逃す。

 ある意味で教科書通りの、じわじわと人を削るタイプの夫だ。


「それでも、すぐに別れるとかは考えなかったんですね」


 芹沢先生の問いに、朝比奈さんは首を横に振る。


「わたし、我慢がきく方なので。……それに、夫は外面が良かったから、誰に相談しても“そんな風には見えない”って言われるのが目に見えていて」

「で、“九十パーセント”まで来たと」

「はい。その日の朝、また朝ご飯に文句をつけられて。そんなに嫌なら自分で作ればいいのに、って心の中で思って。仕事に行く途中で、電柱にあのポスターが貼ってあって」


 ――殺意 10% OFF。


「十パーセント、引いてくれるなら。……八十パーセントになったら、まだ我慢できるかなって」


 百パーセントになってしまったら、たぶん何かを壊す。

 壊すのが人か、自分か、家かはそのときにならないと分からない。

 でも、十パーセントだけ引いてくれるなら、まだ日常に戻れる――そんな計算だったらしい。


「それで、うちに電話を?」


 そう尋ねると、朝比奈さんは首を縦に振った。


「はい。でも、仕事中だったので、昼休みに電話しようと思って……。その前に、事件が……」


     ◇


 その夜、夫婦げんかが起きた。

 きっかけは、夫が飲み会から帰ってきた時間と、その匂いだった。


「玄関を開けた瞬間から、分かるんです。今日も“機嫌が悪いお酒”だって。……嬉しいお酒の日も、たまにはあったんですけど」


 靴を脱ぎ散らかし、ネクタイを途中まで外したままの夫が、台所に立つ妻を見て言った。


「なんで、起きてんだよ。寝てりゃいいのに」


 それ自体はそこまでひどいセリフではない。

 問題は、その言い方だった。

 いつも通りの、小馬鹿にしたような声。


「わたし、つい、“あなたこそ、終電逃すなら事前に連絡してください”って言ってしまって……。それに“今月、飲み会多くない?”って」


 夫は、台所のテーブルをどん、と叩いた。

 味噌汁の入った鍋が揺れ、蓋がカタカタと鳴る。


「誰が稼いできてると思ってるんだ」


 テンプレート通りのセリフだ。

 問題は、その後だ。


「お前なんか、俺と結婚できてなかったら、どこにも行き場なかったくせに」


 その瞬間、九十パーセントだった殺意は、あっさり百を超えたのだろう。

 彼女は、鍋の柄に手を伸ばしていた。


「わたし、投げつけるつもりだったんです。鍋ごと、床に。割れてもいいから。そうしたら、きっと夫は言うでしょう、“何をするんだ”って。そこで、わたしも初めて大声を出して、“いい加減にしてよ”って」


 殺すつもりでは、なかった。

 ただ、何かを壊したかった。

 それが、十パーセントのはずだった。


「でも、そのとき、夫がわたしの手首を掴んで」


 台所から廊下に向けて、揉み合いながら二人は動いた。

 古いマンション特有の、妙に狭い廊下。

 左手には壁、右手には階段へ続くドア。


「夫が、わたしの肩を押して。わたし、よろけて。……そこで、わたし、思い出したんです。あのポスターのことを」


 ――殺意 10% OFF。


「“十パーセント、引こう”。そう思ったんです。全部、ぶつけるんじゃなくて、ちょっとだけ、減らそうって。だから、わたし……目をつぶって、身を引いたんです」


 夫の手から、彼女の手首がするりと抜けた。

 その瞬間、重心を預けていた相手が消える。

 酔っている人間の足元が、どれだけ脆いかは、転んだことのある人間なら知っている。


「……音がしました」


 彼女はそう言った。

 階段の下から聞こえた、鈍くて、取り返しのつかない音。


「わたし、何もしていないんでしょうか。それとも、九十パーセントまで上がった時点で、もう殺意って認定されるんでしょうか」


 そこでようやく、彼女の目に涙が滲んだ。


     ◇


 面会室を出たあと、僕は廊下で立ち止まったまましばらく考えこんでいた。

 殺意にパーセンテージがあるなら、たぶん僕にも常に数パーセントはある。電車で割り込みされるたびに、コンビニでおでんをぐちゃぐちゃにされるたびに、数字はこっそり上がったり下がったりしている。


「どう思う?」


 芹沢先生が、ポケットからガムを取り出しながら訊いてきた。


「……難しいですね。結果だけ見れば、突き落としたようにも見えるでしょうし」

「でも、本人の認識としては“身を引いた”」

「はい。ただ、その“引き方”がどうだったのかは、現場を見ないと」


 僕は、そこで言葉を切った。


「先生、現場って、もう警察の鑑識は終わってますよね」

「終わってるだろうが、マンションそのものは残っている。管理人に頼めば、階段くらいは見せてくれるさ。お前、行ってこい」


「やっぱり、僕ですか」


「うん。足で稼ぐのが仕事っていうもんだぞ。よく覚えておけ」


 ガムを噛みながら、先生はにやりと笑った。


     ◇


 マンションは、ニュースで見たときの印象よりも、さらに古びて見えた。

 外壁の塗装はところどころ剥げ、郵便受けの名前プレートには、何度も書き換えられた痕跡がある。

 管理人室には、新聞紙とカップラーメンの匂いが混ざっていた。


「朝比奈さん? ああ、あの人か。挨拶もしっかりしてるし、ゴミ出しのマナーも良かったんだがなあ」


 管理人のおじいさんは、そう言って首をひねる。


「階段をちょっと見せていただいても?」

「かまわんよ。もう警察さんも何度も来たし、今さら隠すもんもない」


 二階から三階へ上がる階段の踊り場。

 そこが、ニュースで映っていた現場だった。


 コンクリートの段差は、思っていたよりも急だった。

 踊り場の手すりの高さも、腰のあたりしかない。

 人ひとり、勢いよくぶつかれば、簡単に乗り越えてしまいそうだ。


「ここから落ちたんですか」

「そうらしいなあ。夜中に、ものすごい音がしてな。隣の部屋の奥さんが慌てて見に来て……」


 僕は、踊り場に立ってみた。

 手すりに軽く腰を寄せる。

 案外、不安定だ。酔っていればなおさらだろう。


 ふと、階段の隅に、黒い毛が一本落ちているのに気付いた。

 よく見ると、猫のものだ。

 管理人に聞くと、「ああ、下の階の人が猫飼っててね、すぐそのへんをうろうろするんだ」と教えてくれた。


(猫……)


 現場に猫がいたのだとしたら、酔った男が廊下で足を滑らせる確率は、ほんの少し上がるかもしれない。

 でも、証拠としては弱い。

 猫の毛程度では、裁判官の心証は動かない。


 僕は、踊り場から台所の方向を思い描いてみた。

 間取り図はないが、典型的な二DK。

 玄関から入ってすぐ右が台所、その向こうが和室、その左が階段という感じだろう。


(……鍋)


 朝比奈さんは、「鍋を床に投げようとした」と言っていた。

 鍋を掴んだ手首を、夫が掴んだ。

 そのまま廊下へ押し出された。


 そこで、ふと、ひとつ引っかかる。


 彼女は、鍋を持つとき、どちらの手で持つだろう。

 右利きなら、右手で柄を掴むはずだ。

 では、夫はどちらの手で手首を掴んだだろう。

 揉み合いながら廊下に出るとき、どちら方向へ身体は回転したか。


 ……頭の中で、何度かシミュレーションしてみる。

 何度かやっているうちに、廊下の角でぶつかったとき、自分の身体が自然に斜めにずれる感覚が出てきた。

 その方向は、階段ではなく、壁の方だった。


「お兄ちゃん、何してるの?」


 ふいに後ろから声をかけられた。

 振り向くと、小学生くらいの女の子が、猫を抱えて僕を見上げていた。


「ああ、ごめんね。お兄ちゃん、ちょっとお仕事でね」

「またテレビくるの?」

「……もう来ないといいね」


 女の子は首をかしげながら、猫の顎を撫でた。

 その手つきがやけに慣れている。

 猫は気持ちよさそうに目を細めている。


 僕は、踊り場からもう一度階段を見下ろした。

 あの高さから落ちれば、人は簡単に死ぬ。

 けれど、その死に、「殺意」という値札を付けるかどうかは、また別の話だ。


     ◇


「で、どうだった」


 事務所に戻るなり、芹沢先生が聞いてきた。


「階段は、けっこう急でした。手すりも低くて、酔っていれば簡単に転びそうです」

「うん」

「あと、猫がいました」

「猫か」

「はい。毛も落ちてました。でも、それだけじゃ……」


 僕は、踊り場で考えたことを、そのまま口にした。

 廊下の狭さ、鍋の位置、人の利き腕。

 身を引く、という動作の方向。


「つまり、お前のイメージでは――」


 芹沢先生は、僕の説明を数秒咀嚼し、それから言葉にした。


「本当に彼女が“身を引いた”なら、夫は階段側ではなく、壁側へ倒れる確率が高い」

「はい。だから、階段の方に倒れたのだとしたら、彼女が押したか、あるいは――」

「あるいは?」

「夫が、自分で、一歩踏み出したか、だと思います」


 怒っている人間が、「押す」ために半歩踏み込むことはある。

 でも、身を引こうとする人間は、基本的に後ろへ下がる。

 だとしたら、階段へ向かう方向に重心を移したのは、どちらだろう。


「まあ、そこまで細かく計算して動いている人間はいないがな」

「でも、裁判では、その“細かさ”が問題になるんじゃないですか」

「そう。そのための“10% OFF”だ」


 芹沢先生は、肩を竦めながら笑った。


「検察は、いつだって“殺意100%”で攻めてくる。俺たちの仕事は、その中から、合理的な疑いの10%を、20%を、削り取っていくことだ。最終的に“78%”くらいまで下げられたら、裁判官は“これは殺意とまでは言えないかもしれない”って悩み始める」

「先生、そのパーセンテージ、どこから来てるんですか」

「気分だ」

「気分ですか」

「刑事裁判なんて、最後はだいたい人の気分だ」


 法律家がそんなことを言っていいのかは別として、妙に説得力があるのが腹立たしい。


「ともかく、彼女の“十パーセント引こうとした”という認識は、きちんと証言させる価値がある。あとは、現場の状況と合わせて、“突き落とした”と断言できるのかどうか、争っていく」


 先生は机の引き出しから例のポスターのデザイン案を取り出し、しげしげと眺めた。


「にしても、“殺意 10% OFF”がまさか本人の内心を言い当てていたとはな」

「自分で書いておいて何を言ってるんですか」

「いやあ、広告というのは、たまに本当に効くんだよ」


     ◇


 その後の裁判について、詳細に語るのはここではやめておく。

 証拠のひとつひとつについて、検察と弁護側が淡々とやりあう、退屈な時間がほとんどだ。

 ニュースになるのは判決の日だけだが、その裏にある膨大なやり取りは、だいたい地味で、眠くなる。


 ただ、ひとつだけ印象に残っている場面がある。


「被告人は、“十パーセント引こうとした”と証言していますね」


 検察官が、冷たい声で尋ねた。


「はい」


 証言台に立つ朝比奈さんは、拘置所で会ったときと同じように、背筋を伸ばしていた。


「十パーセント引いた、ということは、残り九十パーセントは、そのままだったということでは?」

「……そうかもしれません」


 傍聴席がざわつく。

 “九十パーセントの殺意”という言葉は、数字の不気味さも手伝って、人の想像力を変な方向に刺激する。


 そこで、芹沢先生が立ち上がった。


「異議あり、そのパーセンテージの問題設定自体が恣意的です」


 裁判長が「許可します」と頷くと、先生はわざとらしく咳払いをした。


「九十パーセントとか十パーセントとか、数字を出されると、あたかもそれが科学的に計測された値であるかのような錯覚を覚えます。しかし、ここで問題になっているのは“被告人の主観的な怒りの度合い”であって、“殺意”という法的評価は、別次元の話です」


 先生は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。


「被告人は、“全部ぶつけるのではなく、少し減らそうとした”と言いました。

 その“少し”が十パーセントなのか、三パーセントなのか、あるいは零コンマ一パーセントなのかは、正直どうでもいい。

 重要なのは、“減らそうとした”という方向性です。

 人を殺そうとしている人間が、怒りを減らそうとするでしょうか?」


 傍聴席の空気が、ほんの少しだけ、こちら側に傾いた気がした。


「それに、“九十パーセントまで怒っていたら殺意になる”と検察は言うかもしれない。

 では、“八十九パーセント”ならどうか。“七十五パーセント”なら。

 その境目を、どこに引くつもりでしょうか。

 我々は、被告人の頭の中にパーセンテージメーターを埋め込んでいたわけではないのです」


 裁判長が、思わず笑いをこらえるように咳払いをした。


「本件で問われるべきは、“被告人が夫を突き落としたかどうか”です。

 怒りの度合いは参考にはなっても、決定打ではない。

 現場の状況、廊下の構造、被告人と被害者の位置関係、それらを総合して、“突き落としたとまで言えるのか”を、どうか慎重にご判断いただきたい」


 その言い回しは、どこかで聞き覚えのある広告文句のようでもあった。


     ◇


 判決は、殺人罪については無罪、傷害致死については有罪、執行猶予付き。

 法律の言葉はいつだって回りくどいが、要するに、「突き落としたとまでは言えないが、結果的に死なせてしまった責任はある」という線に落ち着いた。


 裁判所の出口で、朝比奈さんは僕たちに深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。……わたし、自分が完全に悪くないとは、思っていません。ただ」

「十パーセント、引けましたか」


 芹沢先生がそう尋ねると、彼女は少しだけ笑った。


「そうですね。今は……五十パーセントくらいです」


「まだ半分もあるじゃないですか」

「でも、それは夫に対するものじゃなくて、“過去の自分”に対するものですから」


 そう言って、彼女は真っ直ぐ前を見た。

 その先に何があるのか、僕には分からない。

 ただ、少なくとも階段の踊り場ではないことだけは確かだ。


     ◇


 事務所に戻ると、受付の前に、新しく刷られたポスターが立てかけられていた。


「先生、また刷ったんですか」

「うむ。裁判にも勝ったことだし、実績付きでアピールしないとな」


 デザインは、以前とほとんど同じ。

 真ん中にでかでかと「殺意 10% OFF」。

 ただし、その下に小さく添えられた注意書きが、ほんの少しだけ変わっていた。


 ――殺人事件の“殺意”を、法的に一段階引き下げる可能性があります。

 ――ただし、お客様自身の“怒り”をゼロにするサービスではありません。


「最後の一文、要ります?」

「クレーム予防だ。世の中、“全部OFFにしてくれ”って平気で言うからな」


 先生はそう言って笑い、ホチキスで端を留めた。


「それより、お前、自分の殺意は今何パーセントくらいだ」

「いきなり何聞いてるんですか」

「さっきの検察官の尋問を聞いてて、ちょっと上がってただろう。顔に出てた」

「……二十パーセントくらいですかね」

「じゃあ、あと十パーセントだけ引いとけ。残りは仕事の燃料にしろ」


 僕は、ため息をつきながら、ポスターをじっと見つめた。

 “殺意”という言葉は物騒だが、その横に小さく「10% OFF」と書かれていると、なぜかほんの少しだけ、現実味が和らぐ。


 世界から殺意を完全に無くすことなんて、きっと誰にもできない。

 だけど、十パーセントだけでも引けるのなら、その十パーセント分の人は、今日も階段から落ちずに済むのかもしれない。


 そう思うと、この悪趣味なポスターも、まあ、そんなに悪くないのかもしれない――と、ほんの十パーセントだけ思えたのだった。


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