「悲しみは、顔に美しさを刻む。」
彼は玄関マットの下へ手を差し入れ、何かを探るようにゆっくりと探った。
そして見つけ出したそれを、そっとピロトの掌の上に置いた。
「……試しに開けてごらん。これは、この家の鍵だよ」
ピロトは震える手でそれを受け取り、言われた通りに鍵を差し込んだ。
カチ、カチ——。
「……開きました」
その瞬間、彼の掌には小さな“力”が宿った。
——生まれて初めて、家の扉を自分の手で開けたのだ。
「偉いね」
父のその一言が、胸の奥に静かに染み込んだ。
あの日開かれた扉は、家への入り口だけではなかった。
ピロトの心の奥深くにある、ちいさな扉——
自信、責任、そして“自分もこの家の一員なのだ”という確かな感覚。
ベルノールはただ鍵を与えたのではなく、
彼に“信頼”という重みを託していた。
ベルノールは館の中へと踏み入ったが、ピロトにはそこで待つよう言いつけた。
「安全のため、まずは中を調べてくる」
そう彼は告げた——。
――ベラルーシ北西部
青布市場ドゥヤ(Duja)の商業地区
ピロトが荷物をまとめ、仲間たちに別れを告げたその日のこと——
彼はベルノールと共に旅立った。
“父と呼べ”——そう言った男と。
だが、ピロトはまだその言葉を口にすることができなかった。
二人きりで過ごすのは初めて。
これから先も、ずっと。
目の前の男の、どこか自分とは違う空気に、ピロトは思わず心に壁を作ってしまった。
今の二人は、かつて共に学校を造り上げたあの頃のような
信頼の中心にはいない——。
ただの、金で自分を買った
“冷たい養父”のように思えた。
「ほら……歩け!」
首に繋いだ鎖を握りしめ、怒鳴り声をあげながら、
人々の視線の中を進む“冷酷な父”。
「ちゃんと歩けって……」
現実には——
無言で口をきかない息子に必死で機嫌を取る、みっともないほど不器用な父だった。
ベルノールは小さくため息をつき、
その幼い顔をじっと見つめる。
その表情が、かつて誰かを長く待ち続け、
そして永遠に失ってしまった“あの日”を思い起こさせた。
彼は多くを語る男ではない。
だからピロトにこう聞くこともしなかった——
「その態度は、いったい何なんだ?」と。
ただ、黙って見守り、
心の底で静かに選んでいた。
——愛すべきか
——厳しくするべきか。
「ピロトは……悪い子なのか?」
風が一瞬、音を失った。
まるで、少年が心を開く瞬間を見届けようとするかのように。
早く答えなければ——
叩かれてしまうかもしれない。
「ち……違います。お父さん……」
ギシ、と馬車の車輪が止まり、
石の上で小さな音が跳ねた。
ピロトとベルノールは、大きく息を吸い込み、
目的の場所に到着したことを悟った。
広大な大地に、ぽつりと佇む大きな館。
村もなく、人影もない。
友と呼べるのは、森と川だけ——。
ピロトは、明日から新しい友だちを探そうと
ぼんやり思った。
「お父さん……! 月が昇ってますよ。もう、入っていいですか? 寒い……」
簡素な魚のスープに、炉から出したばかりのマッカロニパン。
香ばしい香りに、ピロトは待ちきれず舌を伸ばした。
できあがった夕食を暖炉の前のテーブルに運ぶと、
ベルノールは「寒いし、疲れた」と言って
分厚い毛皮の上で食べたいと言い出した。
そしてそのまま、本と薬草茶を抱え込んだまま眠ってしまいそうだった。
ピロトも隣のソファに腰を上げ、
父の好きな本を読んでとせがんだ。
低く、しかし包み込むような声が耳に落ちた瞬間、
ピロトのまぶたはゆっくりと重くなっていった——。
今夜は、このまま一緒に眠れると思った。
だが、ひとつだけ気になることがあった。
なぜベルノールは、館に来て一番に
“地下の厨房の下”へ向かったのか?
なぜあんなにも焦った顔で、汗を浮かべて戻ってきたのか……?
けれどその疑問を口にする前に、
父はピロトより先に眠りに落ちてしまった。
「お父さん……あの、台所の地下室を藁で塞いでいたのって……あれは、何なんですか?」
あの時、ぼくは思わず言ってしまった。
“ぼくも見たい” と。
分厚い藁で覆われた、あの“氷の部屋”。
父が人目を避けるように、必死に隠そうとしていた場所。
しかし父は、静かに、けれどどこか切迫した声で言った。
「……だめだ、ピロト。下へ降りてはいけない」
その声は厳しいはずなのに、耳に落ちた時には不思議と柔らかくて、
次の瞬間、父の手がぼくの頬をそっと撫でた。
まるで、冷たさを消し去るように。
「聞いてほしいんだ、ピロト……」
「……はい、お父さん」
あの日の父は、いつもよりずっと優しかった。
ぼくは、うすうす気づいていた。
——あの冷たい箱の奥に、父が“誰か”を隠していることを。
それでもぼくは、この温かな館で、
父と一緒に生きていくことを選んだ。
だって——
「ぼくは、お父さんが好きだから」




