「深夜に戻ってきた微かな血の気配」
銀貨が老爺の顔に淡く反射した。
その瞳に宿る卑しい欲望は、彼に何度も何度も頭を垂れさせる。
だが──彼が忘れているのは、この劇場も、子どもたちも、
もはや“彼のもの”ではないということだった。
「だから、あなたにはもう子どもたちを叱る権利も、
この劇場にいる資格もありません……
子どもたちへの“正しいお礼の仕方”は、僕が教えます」
老爺はわずかにたじろいだ。
自分が静かに切り捨てられたことに、今さら気づいたかのように。
その表情は、欲深さから困惑へ、そして抑えきれない不満へと変わっていく。
「な、なんだと? わ、わしはただ──」
ぶつぶつ言いながら状況を理解できぬまま、
結局は不満げに背を向けて出て行った。
その顔を満足げに見送ったのは、ベルノールただ一人だった。
彼の背後には、小さな影がいくつも重なっていた。
まるで、大きな背中を“最後の壁”のように頼って隠れている子どもたちだ。
悪夢のような老爺は去ったはずなのに、
バタンと響いた木の扉の音に、数人がびくりと肩を震わせた。
その瞳に浮かぶのは安堵ではなく──骨の奥に染みついた不信。
まるで彼らはまだ信じきれないようだった。
本当に“危険”が去ったのかどうかを。
だが実際には、大きな男のその背中は、
不思議なほど温かさを与えてくれていた。
「今日は小さなキャンプでもしよう。
みんなで料理して、本を読んで過ごそう」
その言葉を聞いた瞬間、
長い苦痛の鎖がふっと外れたように、子どもたちの肩から力が抜けた。
この劇場──いや、“学校”こそが、
正しい学びを与えてくれる場所になる。
初め、子どもたちは興味を示さなかった。
生きるための金を稼ぐ方が大事だと信じていたからだ。
だが、ベルノールがピロットに諭すのを聞いたとき──
「そんなふうに言ってはいけませんよ……」
その丁寧な語尾が、やわらかな指導となって響いた。
普段から彼らが使っていた粗雑な言葉が、
尊敬すべき大人に注意されたことで、
子どもたちはそろって戸惑い、考え込んだ。
「知識も、外の世界も……とても面白いものですよ」
それはまるで、
“舞台を人生の幕開けに変える”宣言のようだった。
明朝の無料公演は、すべての子どもを“学び”へ招待するためのものだ。
孤児でも、貧しい子でも構わない。
鐘が鳴れば皆そろって朝食を食べ、そして授業が始まる。
《アカデミー・シアター》──学びと芸術が重なる場所。
「ヴェロノール・ザ・ピーニャ」
その名を持つ混血貴族は、ただ一つの肩書きで子どもたちを守るに足る存在だった。
そしてピロットが無邪気に尋ねる。
「モンゴル人なんですか?」
ベルノールは即座に否定した。
北東アジアの血──彼自身はただ“タタール”だと知っているだけで、
どこの国のタタールかは分からない。
ヨーロッパ北東の血は“リトアニア=ラトビア”。
ピロットと初めて出会ったときに話した古ロシア語は“第二言語”。
貴族が商談や上流階級との会話に使う、ごく普通のことだった。
特に中央アジアの貴族であるベルノールには必須の教養だった(歴史的に)。
「だから言葉がゆっくりで、やけに簡潔なんですね……
僕らみたいな田舎のベラルーシ語とは違って」
二人はじっと睨み合った。
ベルノールは少し眉をひそめる。
なぜだか分からないが、ピロットはこの“北アジアの貴族”をからかわずにはいられないらしい。
しばらくは「モンゴル扱い」を続けるつもりのようだ……。
朝の光が古い木枠の窓をすり抜ける。
舞う埃は、子どもたちの笑い声のようにきらめき、
小さな手が大きな手とそっと重なった。
月を隠した布は幕となり、
かすかな音楽は読み聞かせの声と笑い声を優しく包み込む。
眠たげで優しい女教師が、少女と共に本を抱えて歩み寄る。
文字を教え、丁寧な言葉を教え、広い世界を見せていく。
子どもたちは笑い、舞台を整え、互いの考えを交換する。
この部屋の空気すべてが、温もりで満ちているようだった。
ベルノールとピロットは市場へ向かい、
子どもたちのための日用品や食材を抱えて帰ってくるだろう。
そこから少し先の教室だけが、ひっそりと静かに佇む。
子どもたちは読書をし、こそこそ話し、
女教師はこっそりと居眠りをしていた。
彼女がここで働くのは、孫娘に無料で学ばせるためだ。
夜になると、子どもたちは毛皮のブランケットの上で思い思いに過ごす。
橙色の淡い灯りの下、読む者、話す者、眠る者──それぞれの時間が流れる。
あの老爺という悪夢が、謎の死を遂げてから……
子どもたちの恐怖はゆっくりと薄れ、
日々の“ふつうの生活”がようやく戻りつつあった。
しかし──
赤い瞳の男から、
血の匂いが、夜更けにそっと戻ってきた。
それに気づいたのはピロット、ただ一人。




