獲物に一歩で優位を凌がれた狩人
ヨーロッパ北西部の大地──
のちに人々が「ベラルーシ」と呼ぶようになる地。
この国の空気は濃い霧に包まれ、一年を通して小雨が降り続く。
特に秋から冬にかけては、雪と深い霧が街を呑み込み、
まるで影に覆われたように見える。
もし日本が「日出ずる国」だとすれば、
“ベラルーシ”は陰りを帯びた冷ややかな美の国である。
――太陽と月
十八世紀(1701年)。
啓蒙の時代の黎明期。
だが人の心にはいまだ暗闇が残り、
魔術と悪魔の存在を信じる者も少なくなかった……。
「僕……名前はピロト。
恋に破れ、絶望する“月”の役を与えられた者。
あの人の瞳には……
僕という顔が映らなかったから」
少年はかすかに微笑み、
闇の中でひとり立つ男へ視線を送る。
そして首を小さく振り、まるでこう告げるように彼をからかった。
『大丈夫だよ。僕には見えてる。
もう隠れなくていいんだよ』
闇の中に立つ男は、少年のからかうような眼差しを見ると、
口元だけで静かに笑った。
その無言の微笑みとは裏腹に、
瞳の奥では炎が静かに彼を焼き尽くしていた。
今日こそだ。
“月”への復讐を果たす日──。
「チェスで勝負しよう……。
もし私が負けたら、お前は行っていい。
だが私が勝ったら……お前は私と来るのだ」
古ロシア語のような響き──
薬草の匂いをまとい現れた男の声。
穏やかに見えるが、その内に潜む暴力性はよく制御されている。
彼の言葉は古いロシア語に似ていたが、どこか不自然……
少年にわかるよう無理に合わせているかのようだった。
そう、男は確かに“俺たち”に向けて話していた。
金でも権力でもなく、彼が差し出したのは
ただ一枚の「チェス盤」。
「僕、受けます。その勝負」
せめて頼れるのは勝敗という第三の審判。
そしてほんの少しだけ安心した。
その男が、思った以上に“正直な悪役”だったことに。
「黙ってるつもりか」
男は嘲笑した。
「俺のことが気に入らないか?
隣の“そいつ”に聞いてみろ──
どうせ何もわかっちゃいないんだろう」
男の侮蔑は徹底していた。
感情の底から湧き上がる嘲り。
『月のケツめ……』
少年は表情に全てが出てしまうタイプだったが、
その罵りだけは心の中で吐き捨てた。
結局、ピロトは目の前の男の機嫌を取るしかなかった。
だが――策略はすでに始まっていた。
「教えてくださいよ……打ち方を」
彼にだけ聞こえるよう、
わざと弱々しくつぶやく。
男はやむなく正しい駒の動かし方を教えた。
ただ一度だけ、厳格さを装い、公平さを演じるために。
しかしゲームが進むにつれ──
彼は“嘘”を、
ほんの少しずつ真実へ混ぜ始めた。
ところが――
たった一つの予想外が、男を霧の中へ弾き飛ばす。
少年の目に宿った小さな怒りの光。
それだけで、大男は背筋が凍りつくほどの衝撃を受けた。
「嘘だ……!」
最初の駒が倒れた瞬間、
周りで見ていた子どもたちの歓声が弾けた。
名もなき男の駒を取った少年は微笑み、
その勝負を心から楽しみ始める。
一瞬で、少年は誰と、どちらへ進むべきか理解した。
そして最後の駒が、
静かに倒れた瞬間──
ひとりの子どもの笑い声が消えた。
わずかな力を取り戻した少年は、
途端に相手を見下すような口ぶりに変わる。
やり直したいなら、相手してあげるよ。




