エピソード11
病院への支払いは、浜田静子が済ませた。
自分に支払いをさせてほしいと彼女は何度も言ったが、浜田静子は聞き入れなかった。
あの子の生き様を、最後まで見届けてあげて下さい
浜田静子は、静岡へ帰った。
春奈紗月はタクシーを飛ばし、JTR秋葉原駅へ向かった。
車内で道源専務と連絡を取り、絵の制作継続の了承を取りつけた。
タクシーを降り、電動の鉛筆削り機と6Bから2Hまでの鉛筆を近くの文房具店で購入。
秋葉原駅構内の職員部屋で、駅を自由に出入りできる臨時のパスを受け取った。
「あっ、すいません、春奈です。明日から1か月程休暇します。申請はネットからしますので、すみませんがよろしくお願いします」
一方的に連絡をして、彼女は支店長への電話を切った。
「あとは、彼の生活よね」
食事は、全て彼女が用意することにした。
トイレは、駅のトイレを使用し、
風呂と寝床は、駅当直職員用のシャワーと簡易ベッドを使わせていただけることになった。
これら全て、道源専務の取り計らいによるものだ。
二人は、白壁の近くにきた。
現場は銀色のパネルで囲まれ、暗証キーロック付きのドアが設置されていた。
警備員は、いなくなっている。
壁が見えなくなったせいか、周辺には人がいない。
教えてもらったドアロックの開け方を、彼に伝えながらドアを開けた。
春奈紗月と綾部京一郎は、白壁の絵と再び相見えた。
「ねえ、1か月で完成できる?」
「・・・」
彼女は、バッグからスケジュール帳を取り出した。
期限の1か月後は、来月8日の日曜日だ。
「あなたのやりたいようにして・・・嫌になったら、途中で逃げ出しても・・・いいから」
綾部京一郎は、絵を見たまま何も答えなかった。
「・・・あっ、そうだ。これだけあれば、足りるでしょ」
バッグから、鉛筆と鉛筆削り機を取り出した。
「鉛筆を削りたいときは、この穴に入れて押してね。そしたら、勝手に削れるから」
彼女は鉛筆を持った彼の手を取り、鉛筆削り機に突っ込んだ。
ガシャガシャガシャ、
音に驚いた綾部京一郎は、思わず手を引いた。
「ほら見て、こんなに尖ってる」
彼は、削れた鉛筆をマジマジと見た。
「その前髪、なんとかしなきゃね、」
春奈紗月は、持っていたヘアピンで彼のうっとおしい髪を整えた。
「これでどう?」
綾部京一郎は、視界の良くなった顔で彼女を真っすぐに見た。
ドキッ
自分のトキメク心臓の音が、彼女の耳にハッキリ聞こえた。
「・・・あっ、あたし、お手洗い、行ってくるね」
ドアを開け、外へ飛び出した彼女は、胸を押さえながら深呼吸した。
あたしったら・・・どうしちゃったんだろ・・・
手の甲で頬を触ると、顔が熱い。
・・・遅いよ、今さら
外の空気を吸うために、改札を出た。
腕時計を見て早足に歩くサラリーマン、
買い物袋を持って談笑する主婦、
スマホ片手に歩く女子高生、
そこは、いつも通りの雑踏だ。
いつもの駅前の、いつもの夕暮れが広がっている。
このまま、時間が止まってしまえばいいのにな・・・
先を考えれば、不安しかない。
きっと、未完成のまま、彼は死ぬ
根っからの心配性、
大事な時に限って悪い予感は当ってしまう。
彼女の中では、もはや予感というより確信だった。
そんな事なら、
残りの人生を、あの人の思い通りに生きてほしかった
彼は死に、
絵は消されてしまう
あたしは、一体何をしたかったのか
あたしの願いは・・・
彼女は胸を押さえた。
時間が経つのが、これほど恐怖に感じたことは無い。
ダメだ、怖い・・・
先に進むのが、怖い
自分が敗者になる未来が、見えている
誰か、
誰か、
あたしを助けて・・・
「大丈夫ですか?」
肩に触れられた手の感触で、我に返る。
彼女は、歩道に座り込んでいた。
ビジネスリュックを背負ったサラリーマンが心配そうな顔で、手を差し伸べている。
「あっ、すいません・・・大丈夫ですから」
彼女は立ち上がり、うつむきながら改札へ向かって歩き出す。




