エピソード10
ガチャ、
病室の前で一瞬躊躇したが、春奈紗月は意を決してドアを開けた。
長い髪の男が後ろ姿でベッドに座り、窓から外を見ていた。
「あのー、綾部京一郎さん、ですよね?」
背中を向けたまま、返事は無い。
「あたしは、春奈紗月と言います。あなたが白壁に描いた絵を見ました」
この男、綾部京一郎は外を見たまま動かなかった。
春奈紗月はベッドから回り込み、窓と男の間に立った。
目に被さった不揃いの前髪、顔は無精ヒゲで、
どこから見ても、浮浪者にしか見えない。
小顔で、病院服を着ているその身体は鎖骨が浮き出ていた。
「秋葉原の白壁の絵は、あなたが描いたんですよね」
「・・・」
「言葉、分かります?」
「・・・」
小さくため息をついた春奈紗月は、バッグからスマホを取り出した。
「この絵、あなたが描いたんですか?」
綾部京一郎は急に立ち上がり、驚く彼女からスマホを奪い取った。
床に座り込み、背中を丸めながらスマホを見ている。
彼女は膝を折り、綾部京一郎の肩をつかんだ。
「それ、あなたが描いたんですよね。そうだったら、返事してくれませんか」
「あー、あっ、」
彼は、言葉ではない声を発した。
「そうだったら、首を縦に振って。違うなら、首を横に動かして」
苦しそうな表情の綾部京一郎は、首を縦に動かした。
「よかった・・・やっぱり、あなたが描いた絵なのね」
スマホを握りしめながら身体を揺らしている彼を見て、春奈紗月は思った。
一度も絵を描いたことのない人が、あれほどの絵が描けるものなのか。
目の前の紙に描くならいざ知らず、5メートルはゆうに超える壁に描くなんて・・・
それはもう、天才という言葉しか出てこない。
凡人には、とうてい及ばない神の領域だろう。
春奈紗月は立ち上がり、ベッドに座った。
「もう時間が無いし、隠しても仕方のないことだから、正直に言わせてもらうわ」
綾部京一郎は、話しかけてくる彼女の顔を見た。
「あなたの命は、あとわずかしかない。でも、あたしは、あの絵を完成させてほしいの」
「・・・」
「絵を描くか、描かないかは、あなたが決めることよ」
「・・・」
「どうするか、あたしに教えて」
綾部京一郎は、迷うことなく首を縦に振った。
「絵の続きを描くのね?」
「・・・」
「あなたは、描いてる途中で死んでしまうかもしれない・・・それでも、いいの?」
綾部京一郎は、首を縦に振った。
安堵感と同時に、水にインクを落としたように広がる影が彼女の心に覆い被さった。
断ってくれた方が、自分は救われたかも知れない・・・
「・・・ごめんなさい・・・ヒドイ女だと思ってるでしょ・・・でも、あの絵は、完成させないと消されてしまうの」
春奈紗月は、床に正座して綾部京一郎と向き合った。
「あの絵を守りたい・・・なぜだかわからない・・・けど、あたしの本能が、あの絵を守らなきゃダメだって、そう叫んでる」
「・・・」
「あたしは、あなたの命より、あの絵を選択した」
「・・・」
「ねえ、聞かせて・・・あなたは、本当にそれでいいの?」
綾部京一郎は、ゆっくりと首を縦に動かした。
うつむいた春奈紗月の手に、涙のしずくが落ちた。
綾部京一郎は、涙が落ちた手に自分の手を重ねた。
思わず顔を上げた春奈紗月に、彼は微笑んだ。
春奈紗月は、彼に飛びついた。
止めどなくあふれる涙を、彼女は抑えることが出来なかった。
彼女が抱きしめたその身体は、
とても22歳の青年とは思えない程痩せていた。




