エルデからの旅人
楡の木亭は、ウィリアムの行きつけの酒場である。
王宮からほど近い市街地の裏通りにあり、地味な店構えだが居心地がいい。華美な装飾がないが、清潔で簡素な設えで、かえって長居したくなる。
しかも料理と酒が旨いのだ。
この店を営む初老の夫婦はかつて貴族家に勤めていた騎士と侍女だったらしい。たしかに振る舞いにどことなく品がある。平民が普段使いするにはやや高い価格設定も相まって、王宮勤めの官吏や騎士が主な客層だ。
今夜、普段は官吏としてシンプルな服装をしている彼が夜会用の正装で現れても、顔見知りの主夫婦はいつもどおりに彼を迎え入れた。あれこれと好奇心で詮索されないことがありがたい。
「奥は空いているか?」
「一番奥にはお客様がいらっしゃいます。一番手前にお入りください」
「ではそこで」
主人とのやり取りを言葉少なに終えると、ウィリアムは店の裏手側に回った。
王宮からほど近いだけあって、この店では下手をすると同僚や部下などとかち合うことがある。普段はそれでもいいのだが、今日は知人と酒を酌み交わす気分になれない。
この店には、紹介を受けた貴人しか入れない空間がある。
ウィリアムの執務室ほどのこじんまりとした部屋で、衝立で仕切られたテーブル席が三組分用意されている。
ウィリアムも上司から数年前に紹介を受けて出入りを許されるようになった。ひとりで時間を過ごしたいときにはうってつけの隠れ家なのだ。
閂の外された勝手口から再び店に入り、厨房の脇を通りすぎる。勝手知ったる足取りで木の扉を押し開け、一番手前の席に腰を下ろす。ほどなくして、主人がワインとつまみを持って現れた。
空腹は感じなかったが、ワインとつまみだけで席を占領するのも気が引けて、ウィリアムはいくつか軽めの料理を頼んだ。
主人が恭しく一礼して扉を閉めたのと、それはほとんど同時だった。
「失敬」
どこかから、凛とした声がした。女性だ。
「失敬。――いま、部屋に入ってこられた方。少し宜しいか」
「え」
そこまで言われて、ウィリアムはようやく状況を把握した。奥の席に座っている客が、自分に声を掛けているのだ。
この空間で他の客に声を掛けるのはマナーに反している。ひとりになりたいからこそ、あえて表でなく裏から入っているというのに。
そうはいっても女性を無視するというのもあまり気が進まず、ウィリアムは渋々と返事をした。
「……なんでしょう」
警戒心を隠しもしない彼の声色に、相手は気を悪くした様子もなく応じた。
「申し訳ない、ここでは他の客に声を掛けるべきではないと分かっているのだが、実は少し困ったことになっている。助けてもらえないだろうか」
「事情をお聞きしないと、何とも言えませんが」
「……実は、金がないんだ」
ウィリアムは素早く立ち上がった。食い逃げか。
「いや違うそうじゃない、ちょっと待って、落ち着いてくれ。正確に言うと、金は持っているんだが、この国の通貨がない。私は隣国から来たのだ」
店の者を呼ぼうと扉の取っ手を掴みかけた彼に、慌てた様子で女性が声を掛ける。
「隣国というと?」
「エルデ帝国だ。首都のエルデリアから来た」
『この国へは何の用でいらしたのです?』
エルデ語で問うウィリアムに、相手は一瞬驚いたようだったが、流れるようなエルデ語で答える。
『私はもともとこの国出身で、私の家族はこの国に住んでいる。今回は家族に会うために、久々にこの国に戻ってきたんだ。それにしても貴殿のエルデ語は美しいな』
「……分かりました。信じましょう」
「ありがとう。そちらに伺っても?」
「ええ」
「では、失礼」
そう言って衝立の陰から姿を現したのは、すらりとした体躯の女性だった。声から受ける印象では落ち着いた大人のようだったが、おそらくウィリアムよりもずっと若いだろう。
豊かな漆黒の髪が波のようにたゆたい、くっきりとした瞳は知性を感じさせる。
こざっぱりとした旅装で、化粧にもさほど凝っているように見えないのに、容姿を磨くことに余念のない貴族女性を見慣れたウィリアムでさえはっとするような、華やかな存在感がある。
念のためだが、と言いながら、彼女は懐から出した札入れを開き、しなやかな手つきで数枚の紙を抜き取ってこちらにかざしてみせた。たしかに隣国の高額紙幣だ。
ウィリアムが頷くのを待って、彼女はそれをまた懐に仕舞った。
「申し訳ないが、私の支払を貴殿が立て替えてくれないか。失礼ながら、その金額に相当する分を、エルデ札で貴殿にお渡ししたい」
もっともな提案である。
エルデ帝国は大国であり、ウィリアム自身も仕事で訪れる機会がそれなりにある。国内の両替商であればどこでもエルデ紙幣を取り扱っているし、交換率も悪くない。
しかし――。
「……つかぬことをお伺いしますが、あなたは今夜のうちにご家族のところへ向かわれるのですか?それとも宿などにお泊りで?」
「いや、今夜はもう遅いから、どこか近くに――あ」
ウィリアムの意図を察したらしく、彼女は気まずそうな表情を作った。
「宜しければ、お持ちのエルデ札を、多少余裕をもってグラシア札に両替して差し上げましょう。少なくとも宿の支払や明日の移動のための費用が必要でしょうから」
「申し訳ないが、そうしていただけると助かる。貴殿は親切な方だ。何か礼をしたいが、貴殿のような方に礼金を払うというわけにもいかないだろうな」
「礼をしたいと仰ってくださるなら――もし宜しければ、一杯、お付き合いいただけませんか?」
するりと、そんな言葉が滑り出た。
「え」
「あ、いや」
出会ったばかりの相手なのに。
ひとりで飲みたいと思ってこの店に来たはずなのに。
しかも、女性に自分から声を掛けて飲みに誘うなんて――。
そう思う一方で、この女性ともう少し話がしてみたい、という気持ちがたしかにある。
自分自身の思わぬ行動に戸惑って狼狽えるウィリアムの内心をよそに、彼女は唇の端を綺麗に持ち上げて、「喜んで」と笑った。




