プロローグ ある夜、緑の庭で
青白い月明かり。
夏の盛り、生命力の発露とばかりに茂った木々の枝葉の影が、地面に不規則な模様を色濃く落としている。
静かな夜だ。
ウィリアム・グレイはふらつく足取りで、庭園の細い小径を辿った。
庭園といっても、ここは王宮の敷地の端で、普段はほとんど人の訪れがない。花がほとんど植わっていない、葉ばかりの樹木を主とした設えのせいだろう。
王宮にはもちろん、見事に手入れされた季節の花々が咲き誇る庭園が複数ある。
しかし、そうした庭園はえてして、夜になると、王宮勤務者たちの密かな逢引に利用されるのだ。木陰に潜む恋人たち――あるいはそうでない、ただ一時の遊びに興じる者たち――に散歩中に遭遇してしまった経験も一度や二度ではないし、それが知人だったときの気まずささえ、もはや慣れたものである。
ただ、今日だけは勘弁してほしい。少なくとも今日、この夜だけは。
ウィリアムは庭園の奥にあるベンチに着くと、腰を下ろして深く息を吐いた。
飾り気も背凭れもない白木のベンチは、夏のぬるい空気の中でも心なしかひんやりとして心地が良い。
独身であることや貴族であることを不幸だと思ったことはない。
しかし、自分ひとりになれる場所がないのは不便だ、としみじみ感じた。誰とも会わず、話さずにいられる場所が必要になる瞬間が、人生にはあるものだ。
空を見上げると、折り重なった枝の間から覗く漆黒のあちこちで、星がちらちらと瞬いている。
ああ。
そのまま目を閉じると涙が溢れそうな気がして、ウィリアムは慌てて姿勢を正し、目元を拭った。
そのとき――唐突に気づいた。
誰かがいる。
それも、自分のすぐ近く――自分の座ったベンチの向かいにそびえる大樹の陰に。
「誰だ」
ウィリアムの押し殺した声に、相手は一瞬間をおいてから、ゆっくりと答えた。
「……驚かせたなら、すまない。ただ、一人になれる場所を探していただけなんだ」
相手が姿を見せるそぶりはない。しかし瑞々しい声だ。悠然とした、そして夜を割くように透き通った声。
下働きの者がこの庭に立ち入ることは許されない。とすれば、騎士見習いだろうか。
声から判断する限り、ウィリアムより間違いなく年少だろう。
「……いえ。私こそ、後から現れて邪魔をしたようで、すまなかった」
いまさらながら、ベンチの前に置かれた小さな造り付けの木のテーブルに目をやると、栓を開けたワインの瓶と、飲みかけのグラスがひとつ置かれていた。
相手は先ほどまで、ここに座っていたのだろう。酒を飲む年齢ということは、声の印象ほど幼い少年でもないのかもしれない。
「いや、別に邪魔ということもない。そこに腰かけているよりも、ここからの方が星が良く見えるから、ここにいるだけだ。あなたがいたければ、そこにいればいい。ワインも飲んでくれて構わない。私も邪魔はしない」
ウィリアムが去ろうとする気配を感じたのか、声はそう言った。
「……そう、か」
ひとりになりたいと思ってここに来たのに先客がいた。しかも相手は見知らぬ、正体も知れない人間だ。
この場に留まるべきかどうか、ウィリアムは逡巡した。
しかし、相手はそれきり何も言葉を発しない。意識すれば気配は感じられるものの、それ以上ウィリアムと会話する気はないらしい。こちらに興味がないのかもしれない。
自分だけが相手を気にしているのもなんだか癪な気がして、ウィリアムは浮かせかけた腰を再びベンチに戻した。心を鎮めるように、静かに目を閉じる。
深く息を吸い込むと、草木の青い香りで胸がいっぱいになった。
ああ。
ここには、思い出がありすぎる。
懐かしさに喉が詰まって、ふいに涙が零れた。ひと粒零れると、その後は拭う間もないまま、次から次へと溢れて落ちる。
「……っ、く」
しゃくりあげそうになるのを懸命に堪えながら、ウィリアムは静かに泣いた。正体も分からない誰かが向かいの木陰にいることは、すっかり意識から抜け落ちていた。
どれくらい経っただろうか。
目が腫れぼったく熱を持ち、意識がぼうっとするまでひとしきり泣くと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
冷静になったとたん、はっとする。
そういえば、すぐそこに、自分より若い少年――と思しき人物――がいたのだった。
見知らぬ年上の男が、近距離で何の脈絡もなく急に泣き出すなど、気持ち悪いのではないか。あるいは、恐怖すら感じるかもしれない。
恐る恐る目を凝らすと、相手はまだ木陰にいるようだ。木の幹に隠れて姿かたちは確認できないが、月の傾きが変わったせいか、木の幹の影に寄り添って佇む華奢な体躯がくっきりと見える。腕を組んで幹に背を持たせかけているようだ。
何か非難されるだろうか。そうでなくとも、事情を詮索されるのでは――。
そう身構えたウィリアムに、低い声がぽつりと呟いた。
「申し訳ないことをしたな。私が立ち去るべきだった」
予想外の謝罪に、ウィリアムが「いや、それは、こちらが」と慌てると、声が静かに続けた。
「良ければ、一緒に一杯飲んでくれないか。私も泣きたい気分だったんだ」
「え」
「気分が向かなければ、もちろん気にしないでくれ。グラスもひとつしかないし」
ふふっと笑った気配は、どこか寂しげだった。
こちらに気を遣ってくれたのかもしれないが、泣きたい気分だというのは、あながち嘘でもないのかもしれない。
「あ、いや、ちょっと待ってくれ」
ウィリアムは卓に置かれたグラスにワインをなみなみと注いでから、顔を両掌で覆って俯く姿勢を取った。
「――このグラスを、君に。私は瓶からそのまま頂くことにする。良いと言われるまで顔を上げないから、心配しないでくれ」
相手が木陰から姿を現さずに会話をしているのは、素性を知られたくない事情があるからかもしれない。
知られても問題ないと思うなら、そのまま留まってくれればいいし、素性を隠したいなら木陰に戻ってくれて構わない。
目を瞑ったウィリアムのすぐ近くで、今度ははっきりと笑う声がした。
「貴殿は律儀だな。それに、面白くもある」
そう囁かれ、反射的にびくりと肩を震わせたが、合図はまだ出ていない。かすかな足音が遠ざかり、「もう目を開けても大丈夫だ」と言われて、ようやくウィリアムは背を起こした。
先ほどまでと同じ木陰に人影が戻っている。安堵するような、それでいて残念なような気持ちを覚えて、ウィリアムは自ら戸惑った。
「では――静かな夜に、乾杯」
「乾杯」
木陰から伸びた細い腕の影が、グラスを掲げる。それに合わせてウィリアムも瓶を持ち上げた。




