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夜の寮室で

 春祭目前、慌ただしい学園の裏側で──。

 今回は “お風呂上がりの寮” という、少しだけ生活感のにじむシチュエーション。

 湯気の残る肌と素顔に近い寮着、心の距離がふっと縮まる夜の階段。

 けれど安堵のぬくもりと同時に、例の〈学生証〉のヒビは確実に深まり、なぜか熱を宿していく。

 とろけるような多幸感と、得体の知れない不安が同じ脈で鼓動する──

 週末の放課後、フェス準備を手伝った帰りに、寮の大浴場で結愛とばったり会った。

 女子浴場とは壁一枚向こうだが、脱衣所は男女共用の談話室で仕切られている。

 タオルを抱えた結愛は髪を結い上げ、いつもより幼げな表情だった。


 「準備、お疲れさま。手、絆創膏いる?」

 美術班の搬入で段ボールを運びまくった僕は、指の皮が少し剝けていた。

 差し出された救急セットに感謝しながら脱衣所の長椅子へ腰掛ける。

 「ありがと。結愛は怪我ない?」

 「私は平気。重いものは天愛(あまな)先輩たちに任せてたから」

 情報処理部のマネージャーである三年の天愛(あまな)結音(ゆいね)先輩――彼女が、結愛を気にかけている場面を何度か見た。


 湯上がり後。

 廊下の風がまだ暖かい。僕は結愛と並んで寮の階段を上る。制服ではなく寮着姿で歩く彼女は、どこか無防備に見えた。

 「ねえ、久遠くんの部屋、見てもいい?」

 不意を突く一言に足が止まる。

 「散らかってるけど……いいよ」


 部屋に入ると、さっきまで感じていた緊張が嘘のように消えた。

 結愛は机の上に並ぶ文庫とノートを興味深そうに眺め、僕は慌ててカップにインスタントの紅茶を用意した。


 「これ、借りてもいい?」

 彼女が手にしたのは、例の学生証。胸ポケットに入れていたつもりが、いつの間にか机に出していたらしい。

 「あ……返そうと思ってたんだけど」

 結愛は表面のヒビを見つめ、そっと親指でなぞる。

 「また欠けたね。でも、無くならなくてよかった」

 ヒビはさらに深く、カードは熱を帯びているようにさえ感じた。


 「ごめん、早く渡せばよかった」

 素直に謝ると、結愛は首を振った。

 「いいの。久遠くんが持ってるなら、安心できる気がするから」

 そう言って学生証を僕の手に戻し

 「失くさないでね」

 と指先をそっと重ね、室内灯の下で微笑んだ。


 その瞬間、僕の鼓動が大きく跳ねた。

 耳の奥で湯の残響のように脈が打ち、視界の端がぼやける。

 結愛の頬は湯あがりのせいか赤く、息遣いが少し早い。


 思わず視線を逸らし、窓を開けると涼しい夜風がカーテンを揺らした。

 「久遠くん」

 背後で呼ばれ、振り返る。

 結愛は半歩だけ近づき、

 「ここにいると、夢を見なくてすむの」

 と小さく呟いた。意味を尋ねようとしたが、次の言葉はなかった。


 夜の学園は静かで、遠くグラウンドの街灯が点々と霞んでいる。

 窓際に立つ結愛の髪が揺れ、影が床に落ちる。

 影は一瞬二重に重なって見えたが、僕が瞬きをすると元に戻っていた。


 「もう戻らなきゃ。門限過ぎちゃう」

 そう言った彼女を玄関まで見送り、階段を上る足音が消えたあと、僕は机に突っ伏した。


 学生証を握る指が熱く、ヒビの隙間に微かな赤い光が見えた気がする。

 夜風にカーテンがはためき、紅茶のカップが揺れて、小さな波紋を作った。


 ただの学園の夜のはずなのに、胸の高鳴りと、言い知れない不安が、同じ速度で脈打っていた。

 読んでくださり、ありがとうございました。

 湯上がりの柔らかい空気と、窓際に立つ結愛の影が一瞬二重に見えた描写──

 カードのヒビから漏れた赤い光、そして「夢を見なくてすむ」という謎めいた台詞。


 いよいよ〈時間の軋み〉が学園全体を揺らし始めます。

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