約束の中庭
フェスティバル目前の賑わいをよそに、ふたりだけが旧図書棟へ通い続ける——。
久遠瑠惟と天音結愛の距離が甘く縮まりながらも、“学生証のヒビ”という小さな不安が静かに広がり始める。
夕焼けの階段、胸ポケットで熱を帯びるカード、そして「もし私がいなくなっても覚えていてくれる?」という結愛の一言。
ほんの微細な違和感は、はたして恋の戸惑いなのか、それとも……?
翌週、縁理学園では春の中庭フェスティバル準備が本格化し、放課後も校内がにぎわっていた。
けれど僕と結愛にとって、その喧騒は少し遠い。準備委員に顔を出す程度で、あとはいつも旧図書棟へ通った。
「久遠くんって、どうして図書委員になったの?」
積み上げた本の間から結愛が尋ねる。
「別に大した理由はないよ。静かな仕事だって聞いたから」
「ふふ。私も似たようなものかな」
笑いながら、彼女は机を挟んで向かい合う僕のノートを覗き込んだ。
白紙ページの端に、無意識に彼女の名前のイニシャル――“Y.A.”を走り書きしていた。思わず閉じると
「隠しごと?」と茶化すようにウインクする。
僕は耳まで赤くなるのがわかった。
その日も陽が暮れかける頃まで過ごした。
帰り際、結愛がふとポケットを探ると、件の旧式学生証がないことに気づいたらしい。
「昨日、久遠くんに返したけど……もう一度落としちゃったのかな」
僕は胸ポケットの重みを確認したが、なぜか取り出せなかった。
代わりに「明日探そう」と言い、階段を降りようとする。
「ねえ」
階段の踊り場で結愛が小さく袖をつまんだ。
「もし私がいなくなっても、私を覚えていてくれる?」
突然の問いに足が止まる。
「……どうして急に」
「なんとなく」
それ以上は言わず、彼女は僕の袖を離した。
夕焼けで赤く染まる校舎を背に歩く帰路、胸ポケットのカードがやけに熱い。
寮へ戻る廊下で開くと、カードの表面のヒビが少し広がっていた。
落とした覚えもぶつけた覚えもない。
〈そのうち壊れそうだな〉
気にしていないふりをしつつ、カードは机の筆箱に隠した。
夜。
窓から見える校舎は、フェス準備の残業でまだいくつかの教室が明るい。
ベッドに横たわった僕は、なぜか胸がざわつき、机のペン立てからカードを取り出した。
カードの裏側に、きらりと黒い線が走った気がした。
目を凝らすとただのヒビ。けれど、カードを戻した瞬間、僕の手の中にほんのり熱が残った。
翌朝、グラウンドで朝練するサッカー部の声が聞こえる中、僕はカードを鞄に詰めた。
〈今日こそ返さなきゃ〉
結愛は二年C組。教室へ向かう途中、渡り廊下で声をかけようとしたが、彼女はすでにクラスメイトに囲まれていた。
笑う横顔を遠くから眺めるしかできない。
その日の放課後。
予想外のホームルーム延長で旧図書棟に着いたのは十八時間近だった。
夕陽はもう窓の端で欠け始め、室内は薄暗い。
「結愛?」
誰もいない書架の影で名前を呼ぶと、机の上に置かれた文庫本『忘却園』だけが視界に入った。
僕は文庫を開き、栞が挟まっているページを読む。
“取り消せないものを差し出すとき、人は愛を知る”
静まり返った旧図書棟。
僕はページを閉じ、胸ポケットのカードをもう一度確かめた。
ヒビは昨日より深くなっている。
〈大丈夫。明日こそ渡せば……〉
そう自分に言い聞かせ、文庫をそっと置いて廊下へ歩き出した。
階段を降りる途中、背後で誰かが名前を呼んだ気がしたが、振り返ると薄闇がたゆたうだけだった。
読了お疲れさまでした。
『忘却園』に記された “取り消せないもの” という言葉が、これからの物語でどんな意味を持つのか──