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黄昏の旧図書棟で

 ここから綴られるのは、“静かな学園の放課後”にはじまる、ごくささやかな出会いの物語。

 舞台は古い校舎を抱えた全寮制の縁理学園。

 ひと気の絶えた旧図書棟で、図書委員の久遠瑠惟が拾った一枚の旧式学生証──それは、新任の転校生・天音結愛との距離をそっと近づける鍵だった。

 ノスタルジックな赤煉瓦、夕陽を吸い込む大きな窓、そして二人きりの静寂。

 放課後のチャイムが鳴り終わるころ、縁理学園(えんりがくえん)の旧図書棟には人影がなくなる。

 古い煉瓦壁と木製の窓枠は、戦前に建てられた校舎がそのまま保存されたものだという。

 薄暗い廊下を歩くたび、蛍光灯がチカチカと瞬き、蛾の羽音のようなノイズが天井から降り注いだ。


 〈図書委員らしく、さっさと日誌の提出を済ませて帰ろう〉

 そう思いながら階段を下りかけた僕――二年A組、久遠(くおん)瑠惟(るい)は、踊り場の隅で銀色のカードが落ちているのに気づいた。


 旧式の学生証だった。

 今の学園ではICパスケース型が主流だが、これは表面が少し擦り切れ、磁気ストライプがむき出しになっている。

 「誰のだろう……」

 拾い上げた瞬間、背後から柔らかな声が届く。


 「それ、落としましたよね?」


 振り返ると、長い黒髪が薄い夕陽を吸い込み、真っ白な制服の袖口が風に揺れていた。

 転校してきたばかりの二年C組――天音(あまね)結愛(ゆあ)

 昼休みに学食で一度見かけただけだが、凛とした佇まいが目を引く生徒だった。


 「いえ、僕のじゃ……」

 と言いかけたが、結愛は僕の返答を待たず、カードをそっと包むように受け取った。

 「大切なものだから、失くさないで」

 笑みとも溜息ともつかない、かすかな微笑がこぼれる。

 どうやら彼女のものらしい。


 カードの角に小さなヒビが入っているのを見つけた彼女は、指でそっと撫で、

 「ありがとう。……久遠くんだよね?」

 と名前を呼んだ。クラスも違えば話したこともないのに。


 「え? どうして僕の……」

 問いかける間もなく、結愛は手のひらでカードを隠し、階段を軽やかに降りていった。

 薄闇の奥で振り返り

 「また旧図書棟で会えるといいね」

 とだけ残して。


 心臓が変な速さで跳ねる。夕陽が窓ガラスに映し出す彼女の影は、一瞬ぼやけて二重に揺れた。

 けれど僕は気のせいだろうと思い、提出日誌を抱えて階段を下りた。


 ――翌日。

 放課後の旧図書棟は相変わらず静かだったが、昨日より空気が澄んでいるように感じた。

 僕は何の用事もないのに、ふらふらと図書棟の扉を開いていた。


 「やっぱり来たね」

 二階ホールの窓辺に結愛がいて、僕を見つけるなり小さく嬉しそうに笑った。

 彼女は読むでもなく、一冊の古い文庫を胸に抱えている。背表紙には擦れて読みづらい題名――『忘却園』とあった。

 「転校したばかりで、友だちより静かな場所を見つける方が先になっちゃった」

 結愛はそう言ってから、いきなり訊ねてきた。

 「久遠くんは、ここが好きなの?」

 「……好きかどうかは分からないけど、落ち着くかな。生徒会室も賑やかだし、教室も放課後は部活で騒がしいし」

 「わかる。私も人の声は好きだけど、静かな方が考え事をまとめやすいの」

 窓の外で、野球部の掛け声が遠く反響し、薄い夕雲が西に流れていく。


 二人きりの空間に、何か説明しがたい心地よさが満ちていくのを感じた。

 結愛は僕の隣で文庫本を開き、柔らかな声で読んで聞かせてくれた。

 「“忘却は静かな湖面。投げ込んだ秘密は波紋を立てず沈んでいく”……きれいな一文だよね」

 朗読なのか独り言なのか判別できないその声を、僕は息を詰めて聞いていた。


 気づけば時計は十七時を過ぎていた。名残惜しさを覚えながらも、僕は教室に荷物を取りに戻ると言って別れを告げる。

 結愛は昨日と同じように、軽く手を振るだけ。

 けれど背中を向けて歩き出した瞬間、肩越しに小さく呼び止められた。

 「久遠くん、明日も来る?」

 曖昧に笑ってうなずくと、僕は階段を駆け下りていた。


 ――図書棟の入り口を出たとき、不意にポケットが重いことに気づいた。

 指を入れると、小さなカードが入っている。

 昨日の旧式学生証……? だが結愛が持っていったはず。

 〈たぶん返そうとして僕が先に出て行っちゃったのか〉

 安易にそう思い込み、カードを胸ポケットにしまう。


 背後では旧図書棟の二階窓が、夕焼けを浴びて赤く輝いて見えた。

 誰もいないはずの窓辺で、黒髪のシルエットが揺れた気がしたが、振り返ったときには雲が太陽を隠していた。

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 旧図書棟の薄闇で交わされた一冊の朗読、胸ポケットに舞い戻った学生証……。

 静かに重なるふたりの時間は、まだ校舎の片隅──あの夕焼けの窓辺に置き去りのままです。

 彼らが明日も旧図書棟で顔を合わせるのか、それとも別々の放課後を選ぶのか──


 学園祭の準備が本格化し、瑠惟と結愛の距離にほんの少しの「きしみ」が生まれます。

 静かな幸福の奥で、カードに刻まれた小さなヒビは何を告げるのか。

 またお会いできることを願って。

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