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塾講師をしていたら生徒からめちゃくちゃ好かれてしまった、悪くない。

作者: 佐藤山猫

 大事な話がある、と幼馴染の赤崎千乃が訪ねてきた。


「おじゃまするわよ」

「狭い部屋だけど」


 千乃は微かに視線を巡らせて一言、


「実家の方が広かったでしょ」

「一人暮らしの方がのびのびできるんだよ」


 僕と千乃は家が近所で、ことごとくクラスは異なったけれど小学校から高校まで一緒だった。大学で分かれたものの、それでも僕たちは二人とも比較的近辺の大学を選んだ。実家からは電車で一時間くらい。だから、千乃は当然、僕が実家から大学に通うものだと思っていたらしい。


「別にいいだろう? 僕の好きにして」

「そりゃあそうだけど……」


 千乃は微かに不満そうだ。伸ばした人差し指をBPM120くらいの間隔で上下させている。わだかまりを覚えた時や考え事をしている時、千乃は右の人差し指でリズムを刻む癖がある。だらりと垂らした右手を僕は一瞥した。左手には膨らんだビニール製のトートバッグ。サテンのように艶やかだ。何が入っているんだろう。


「それで、今日は何の用? もうバイトに行かなきゃいけないんだ」


 千乃は左手に提げていた荷物をローテーブルに置いたところだった。目を丸くして、多分信じがたいと物語る目で僕をじっと見た。


「今日もなの?」

「家賃と学費があるしね。──それに」


 千乃がその瞬間、見たこともないくらいひどく悲しげな表情をするから、僕は慌てて言葉を継いだ。


「定期テストが近い子がいっぱいいるんだ。自習と補講がある」


 アルバイトは塾講師だ。始めて十ヶ月ばかり。個別指導の講師というのはだいたい大学生なのだということを、僕はアルバイトを始めてようやく知った。


「……熱心ね」


 千乃は眉を顰めた。


「でもそれ、給料が出るわけじゃないんでしょ?」

「そうだね。自主的な取り組みだ」

「出てあげる義理なんてないでしょ?」

「……はは。それを言われちゃ反論できないよ」


 僕が乾笑いをするのに、千乃は目を伏せる。でも力なく垂れた右手の指先は半秒を刻み続けている。


「それじゃあ、そろそろ出るからさ」


 千乃を促した。冬の日の入りは早い。遮光カーテンの向こう側はもう真っ暗闇だ。街灯の光が星のようにすら見える。


「一応、鍵はかけて出ないと危ないだろう?」


 千乃はまた顔を曇らせたように見えた。

 僕の気付いた限り、千乃は今日ずっと、右手の指をメトロノームのように打ち続けていた。





 ひとコマ80分。それが三つ。合間に休憩が10分。通常コマも補講も同じ。「テスト前の生徒には補講をひとコマ、通常授業と別にスケジュールしてください」というのが僕の働く塾のルールだ。手持ちの生徒の数に応じて補講をしなくてはいけない。


「はい。お疲れ様でした」


 補講用に作った対策プリントを、丁寧にファイルに挟み込んで鞄にしまってくれる生徒を見ると、労力もなんのその。どんなネガティブな感情だって霧散していく。


「さよなら。テスト頑張って」


 コートの裾を翻し、生徒たちが塾を出ていく。微笑んで手を振る。もっと声を出して見送った方がいいね、と校長に以前言われた。以来、声を出しているけれど客観的にはどうやらまだまだ物静かな方で、校長も最近はそういう売り筋と評価している節がある。なんであれ、認められるのは嬉しいことだ。


「もりりん、もりりん」


 肩を叩かれた。振り返らなくても声で分かる。今日は補講を入れていないけれど、ここのところ毎日会う。


「どうしましたか。萩さん」

「ここ教えて」


 萩紗雪さん。僕の抱えている生徒の一人で、どうやらずっと自習に来ているらしい。毎日、最後のコマから閉校までの30分間捕まえられる。求められるのも嬉しいことだ。

 萩さんは高校一年生。県下ではそこそこの偏差値の公立高校で、聞くところでは僕と同じ大学を志望しているらしい。

 高校のレベルからすると妥当だろう。素直で飲み込みが早い子だし、きっとうまくいくと思う。

 ただ、不安なのは──、僕は思案する。彼女は高校受験に失敗して、公立に流れてしまった生徒だ。高校受験の失敗を、大学受験の時にぶり返さなければ良い。


「もりりん、怖い顔してる」

「え? あぁ、ごめん」

「もう」


 萩さんは顔を膨らませた。うっすらと施されたメイクが彼女の明るさを引き上げている。制服を着ていてもメイクをしているのだろうか。かわいい素振りがよく似合う、と思う。


「もりりん、普通にかっこいいんだからもうちょっとちゃんとしてたらいいのに」

「かっこいいなんて始めて言われたよ。ありがとう。それで、僕はそんなにちゃんとしてないかな?」

「かっこいいよ? もりりんって男子校? ちょっと同級生にも大学生にもない雰囲気あるもん。ここの先生たちと違う感じ」

「そうかな?」

「うん。恋バナとか興味ないでしょ」

「そうだね。ちょっとよく分からないかも」

「そういうのも含めて、時々ちょっと変。指でリズム取ってたり、部屋の隅っこで気配を消してたり」

「自覚してなかったよ」


 言って、そして、僕はまだ話を続けようとする萩さんに言葉を被せた。


「ほら。ペンが止まってますよ。テストでいい点を取りたいんでしょう?」


 むうっと、漫画だったらそんな擬音が萩さんから漂っていそうだった。

 校長が呼びかけに来るまで、萩さんにつききりで自習を見ていた。


「お疲れ様でした」

「森野先生、お疲れ!」


 バイトが終わると、いつもコンビニに入って晩御飯代わりのホットスナックを買う。

 イートスペースには、先客がいた。


「お疲れ様」

「千乃」

「今日も遅かったのね」


 目の端に制服様のスカートを捉えた気がした。萩さんではない。心なしか、彼女と仲の良い生徒に見えた。


「千乃。どうしてここに?」

「待ってたのよ。文紀を」

「僕を?」


 千乃は溜息をついた。


「大事な用事があるって言ったでしょ?」


 千乃の左手には、今日千乃が訪ねてきた時と同じエコバッグ。底の方で膨らんで四角錐みたいになっているのも同じ。


「あの後ちゃんと冷やしておいたし、多分傷んでないと思うけど」

「食べ物?」

「本当に気付いていないの? 誕生日」

「あっ」


 そうだ。

 今日は僕の誕生日だった。


「祝われたのなんて、いつぶりだろう」

「中学に入った時から、ずっと文紀は部活にも入らず、学校が終わって真っ直ぐ家に帰って、外に出ようとも電話に出ようともしなかったわよね。つまり、私は中学の頃から、文紀に直接誕生日おめでとうって言う機会を失くしてたわけ」


 千乃は腕組みしている。右手の指で腕を叩いて半秒を刻んでいる。


「まさか忘れているとは思わなかった。誕生日おめでとう。これはケーキ」

「あ、あ……ありがとう」

「ほら。家に帰って早く食べるわよ」


 千乃は腕を解いて、僕の手を握って店の外へ引っ張っていく。


「ねえ。わざわざ迎えに来てくれなくてもよかったんじゃないの?」


 蝋燭が一本だけ刺さったショートケーキが置かれている。部屋は明るいまま、千乃はライターで蝋燭に火をつけた。水気で蝋燭の火がやけに滲んで見えた。

 千乃は僕の疑問に、直接答えようとしなかった。


「文紀。私のことどう思ってる?」

「え? まあ、仲良くしてくれてるありがたい存在……」


 はあ、と千乃は腕を組んだ。


「文紀。文紀が思っている以上に、私は文紀を心配しているし、よく見ているの。

 塾の生徒に、異様に懐かれているでしょう?」

「──萩さんか」


 声と顔が同時に思い浮かんだ。フッと息を吐いた拍子に蝋燭の火も消えて、萩さんの声も顔も一緒になって吹き消えた。


「あの子、文紀のことが好きでしょ? それくらい察していたわよね」

「──なんとなく。こういうのが恋なのかって」

「それで、万が一文紀が好意に応えちゃったら困るの。文紀も、嬉しかったんでしょう? 懐かれて、好意を持たれて、頼りにされて。文紀自身を求められてるなんて思わなかった?」

「…………考えすぎだ。そこまではないよ。だって、まだ相手は高校生だよ」

「たった二つしか離れてないじゃない」

「それでも、先生と生徒だ。……思いもよらなかった」


 目の前にショートケーキが二人分。苺と生クリームで彩られた甘いお菓子。僕の側にだけ、蝋燭が一本立っている。


「萩さんが僕に強い感情を抱いているとしたら、それは憧れだよ。恋心だって主張はただの勘違いだ。それにつけ込むなんて、僕にはできない」

「…………安心したわ」


 僕の言葉を聞き終えて、千乃は腕組みを解いた。もう指を打ちつけてはいない。フォークを手に取って、クリームのついた苺を口に運ぶ。苺だけを食べ終えて、千乃は言った。


「文紀。ひとつ覚えておいて。私は好きなものを真っ先に食べる人間なの」 


 それが何の比喩表現だったのか、僕は身をもって味わった。味は、とても甘かった。


「来年も、再来年も、ずっと私は文紀の誕生日を祝ってあげるから。ずっと二人きりで祝ってあげるからね」

 

 求められるのは嬉しいことだ。

 空回りする頭の中で、千乃なら同級生なんだよな、と無味乾燥とした事実がシグナルを放っていた。



 


お読みいただきありがとうございました。

感想の他、ブックマークや☆等もお待ちしております。

☆はひとつだけでも構いません。数字に表れることが嬉しく、モチベーションになります。よろしくおねがいいたします。

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