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吉沢新の場合

映画「ひまわり」の内容に作中で触れます。

 ロングウルフのストレートで艶やかな髪を襟足を上品に肩に広げて、黒のゆったりしたシルエットのシャツとワイドパンツを履き、吉沢新あらたは地方都市の中心部の大型書店の前で、人を待っていた。背が高くスタイルがいいので、ときどき通り過ぎる人が彼に目線をやったが、本人はそういったものはどこ吹く風というように、スマートフォンに目を落としていた。落ち着いた控えめだがゆったりとして上品さがあり、それはバイト先のイタリアンで食事をサーブするときに、ランチに来ていた女性をはっとさせるものがあったが、吉沢自身はそれを冷静にいなし、面倒なことにならないように上手く立ち回っていた。生来のそういう器用さが、ルックスが整っている新の何にもとらわれない身軽な雰囲気を形作っていた。その少し人を寄せ付けない吉沢に、ひとりの女性が近寄っていった。黒い髪を肩甲骨まで伸ばし、赤い口紅にタイトなデニム、黒いブラウスをきれいに着こなした同じく目を惹く人物だった。


「おまたせ、はやいね吉沢くん。私が先かと思ってたけど。」

「友達に頼まれて雑用済ましただけですよ。さっき来たところです。」

「そうなんだ。上映時刻までここで時間潰そうか。原作やっぱり気になるし。買っちゃおうかな?」

「まりえさんそう言うと思いました。」新は笑みをこぼした。


***


 映画を見たあと、ふたりは言葉少なげに近くの喫茶店を目指した。いつも人が少なく、どうやって黒字を出しているかわからなかったが、まりえがこの店のチーズケーキを気に入っていた。いつものメニューを頼み、定員がまりえにケーキとコーヒー、吉沢にエスプレッソを運び終え去るのを見届けると、まりえは「で、どうだった?」とこのときを待っていたように新に切り出した。ふたりとも映画の感想を話し合うのを人に聞かれたくなかったし、公開されたばかりの映画の内容を劇場や通行人にもらすのは好きではなかった。


「そうですね」テーブルに両手を組み、新は穏やかに思案した後「事前のプロモーションが盛大すぎる割に、早い段階で展開が読めなくなってなかなかよかったと思います。」そう告げた。

「そうだよね、面白かった。プロモーションのことは私も心配だったけど、さすが原田監督、予告は呼び水でしかないというか、毎回期待を裏切らないいい裏切りっぷりだった。」興奮を抑えるように、まりえが言葉を引き取った。


 ふたりは映画サークルに所属していた。まりえが一浪したのでふたつ年上だが3回生で、新が二十歳の2回生だった。まりえは文学部、新は社会学部にそれぞれ所属していた。映画サークルで好きな映画を話すうちに、新進気鋭でメディアも注目し始めている原田祥史という映画監督がお互い一番好きだと知り、2年前ふたりでその監督の新作を小劇場で見た。そのあと意気投合して、こうして待ち合わせて映画をふたりで観て、近くの喫茶店やチェーンのコーヒーショップで感想を言い合うのが、いつしかお決まりになっていた。今日はその監督の2年ぶりの新作映画だった。海外の映画賞で注目されたせいか、公開がきまってから大々的にコマーシャルもニュースでの特集も組まれており、ふたりともそれぞれにその情報にうんざりしていたが、蓋を開けてみればその情報は映画の本筋を巧みにかわしており、こうして今改めてそのことを打ち明け会えるのだった。


「10年くらいにあった、アメリカの映画のシーンのオマージュがあったよね、気づいた?」

「あれはわかりやすかったので勿論気づきましたよ。主人公の女性が持ってる小物に、タヌナクラさんの絵がありましたね。まりえさんが好きなイラストレーターの。」

「わっ、気づいた?やっぱりそうだよね、タヌナクラさんだよね?今日眼鏡忘れちゃったから違うかな?と思ったんだけど、わーっツタヌナクラさんさん売れてほしいな!舞台美術だれがやったんだろう。原田監督が決めたのかな?」

「監督は最新のカルチャーにも詳しいですし、その可能性もあるんじゃないでしょうか。前作のインタビューでそんなこと言ってましたし。あれは新人賞とったばかりの小説でしたけど。」

「あーっそうだよね!デビュー前の自主制作映画のファッションも原田監督のアイデアだったみたいだし。嬉しいなー!」まりえが両手で頬を押さえながら押さえきれないといったように顔を綻ばせた。


「ふたりが距離を縮めていくひとつのきっかけでもあるもんね。スマホのステッカーにさりげなく入ってて、男の子が気づくシーン、すごくよかったし自然だった。あるよねああいうこと。高校生って瑞々しいなーっ。」

「僕たちだってまだ大学生じゃないですか。」新は愉快そうに微笑んでコーヒーを口元に運んだ。

「浪人の記憶で全部塗り替えられちゃったよ。わたし女子高だったし、ああいうのはなかったから憧れちゃうな。」

「まりえ先輩の恋愛は中学で止まってるんですもんね。」

「あっまたそうやっていじるんだ!でもいい人だったしとてもいいお付き合いでしたよ。人のこと言えるんですか?」

「僕は自分で言うのもなんですが器用なので、共学で勉強もバンドも恋愛も楽しくいい思い出としてありますよ。」

「バンドマンは気をつけろっていうけど本当だよね、その子に別れたくないって卒業式で泣かしちゃったんでしょ?酷いことするなあ。本当に不思議。遠距離頑張ればよかったのに。」

「僕は手に届く範囲で全て済ませたいタイプなので、飛行機で会いに行く距離の人と恋愛は続けられません。」「わからない。同じ学校にいくことだってできただろうに。」

「彼女も頑固だし、僕もこの大学に行くことは譲れなかったので。前も言いましたけど、どちらが悪いとかないですよ。」

「私だったら遠距離でも続けるけどな。さっき見た映画の、主人公の部活の先輩のふたりみたいに。」「ロマンチストなんですね。」

「吉沢くんはリアリストだよね……。まあそれはともかく。上映前に買った原作のことだけど。」まりえは咳払いを軽くして鞄から文庫本と取り出した。


「立ち読みしたときにこのモノローグ映画ではどうするのかなって思ったけど、全然違うけど映像に合うように新しくされていたね。これがあるのとないのでは全然違うものだっただろうな。」

「僕はもう原作読んだんですけど、心理描写を天気や画面構成や色合いで示すのはさすがでした。」「そうなんだ。この原作者知らなかったけど、小説の冒頭を読むに詩人でもあるね。作中作だけどこれ自体がすき。原田監督も詩人としても一面を持っているから、これを映画化することを選んだのかな。」

「監督は僕は映像的な詩人とも思っているので、あるんじゃないですか。」


 そんなことをとり止めもなく話し、脱線したり戻ったりしながら、帰宅ラッシュの時間になる前にふたりは解散した。


 新はこの地方都市の人間で、父の背中を追うようにこの大学に進学した。今でも大学外の人たちの音楽を続けてギターボーカルを担当し、作曲もしていた。高校時代の彼女は同級生で、軽音部でガールズバンドを持ち、文化祭のライブを機に距離が縮まって交際に至った。彼女は国立の薬学部を目指していたので、偏差値の関係や新の進んだ大学に薬学部がなかったことが大きな障壁となった。近くの大学なら新も交際を続けても別にいいかなと考えていたが、飛行機で会いに行くことの金銭的な負担や近くにいないことで生じる様々な煩わしさを考えると、自然と卒業を機に離れるのが妥当で、それがお互いのためだし向こうもからっとした性格なのでふたつ返事で了承すると思っていた。だから、卒業式が一段落して、お互い友達と最後の時間を過ごしたあと、彼女が記念に写真を撮ろうといったときに、別れを切り出し際に全く想定してなかったかのように驚かれた。2年半近く付き合って初めて泣かれたので新も驚いた。少しの問答の末、彼女もそれを受け入れ、それから音沙汰はなかった。今ではきっと自分のような懐かしくいい思い出として振り返れるような気持ちでいるのだろうと、新は思っていた。


 まりえのことは、そういう感情を超えた信頼関係があると、新は思っていた。映画の好みもこれだと思いものはお互いの好きな映画の中で上位になっていて、もう2年間も月1でふたりで映画をみているし、言葉にせずとも分かり合えていると感じていた。まりえが一見社会人のような落ち着きとサークル内での仕切りを見せる一方で、話すようになってみれば案外抜けていたり、子供のように駄々をこねたりするギャップも嫌いではなかったし、面白く可愛らしいと思っていた。サークルではそういう一面は見せないので、それだけ気を許してくれているんだろうと感じていた。新には恋愛には淡白なほうだったし、何かを強く求められない今の関係が心地よかった。


 その日新はパッケージングされていない以前から気になっていた映画が大学がある駅から2つ離れたの小劇場であると知り、ひとりで初めて降りる駅の改札を出て、人混みな中でうろうろしていた。ふと人混みのなかに、駅前のモニュメントの前でひとりで立っているまりえを見つけ、そういえばここはまりえの最寄駅だったかな、と思い、せっかくだから声をかけようと右足に力を入れた瞬間、まりえ何かに気づき、これまで見たことないとびきりの映画で顔を綻ばせた。思わず向かおうとした足を止めると、背が高くてがっしりとした体格のいい男性がまりえのそばに来た。ふたりは何かすこし喋ったあと、男性が向かう方向に歩き始めた。まりえは自然と男性に腕をからめ、男性も慣れた様子でそのまま人混みの中に消えていった。何が起きたのか考えているうちに、ふと新は今しがた感じた違和感の正体に気づいた。いつもパンツスタイルのまりえが、ワンピースを着ていたことだった。


 新は明るくなった劇場内で我に帰った。照明が灯されたことで、目当ての映画の上映が終了していたことに気づいた。あの後そのままどこか現実感がないまま劇場に足を運び映画を見始めたが、先ほどの自分の一連の出来事や感情が映画の内容とリンクして、いつの間にか自分の世界に迷い込み、映画も途中から記憶がなかった。この映画は古いイタリアの映画で、戦争から帰ってこない夫を探しに異国を単身訪れた女性が、その男が現地で新しく家庭を持ち生活していたことを知るという映画だった。新はそこまで特定の誰かに執着したことがなく、どういう仕組みでそれが起こるのか、単純に好奇心から興味を持ち、今日この劇場に訪れていた。家庭を持った男は妻の登場に激しく動揺し、みんなで暮らせないものかと思い悩むが、男を探しに来た妻は決別し去ることを選ぶ。そんな映画を見ているうちに、自分は何も知らなかった異国の妻ではないのか、と思い至り、そこからは動揺したまま、気づけば終上していたので、ぼんやりしたまま席を立った。ふらふら歩いて駅に着いたところで、手荷物を忘れていることに気づき、慌てて取りに戻ったことは覚えているが、その後どうやって最寄駅まで帰ったか覚えておらず、家の近くの公園でコーヒーを手に持ったまま、ブランコに座っていた。お酒が入って気が大きくなっている女性二人組が近くをとおるとき、揶揄される声で我に帰り、冷えたコーヒーを開けて飲んだ。まりえと初めて映画を見た帰りに、公園で奢ってくれたコーヒーと同じだと言うことを、飲みながら思い出していた。


 裏表がなく、隠し事はないししないのかと思っていた。中学時代ではあったが恋愛の話も聞いたことがあったし、人の悪口を言ったり、誰かの話をここだけの話として吹聴したりもしない。自分もそうしていたし、それを言う人間は誰にでもそう言っているのでこの人は違うのだと好感が持てた。まりえから聞いた中学時代の恋愛を思い返してみる。勉強を教え合ううちに仲良くなったが、高校が離れて自然消滅したという話だったはずだ。


***


「高校時代、隣のクラスで電車とかでよく一緒になって。なんか目がいくな、と思ってたら、たまに目が合うし、そのクラスに友達いる子相談して繋いでもらったんだけど、野球部のエースだったし、なんか噂になっちゃって、まわりも囃し立てるし、だめになっちゃって。でも、成人式に行ったら同じ地区だから偶然会って、あんなことあったねなんて話してたら、結構気が合うなって。それで改めて連絡取るようになって、1年半くらいかな?向こうは大学もスポーツ推薦だし、いつも練習あるし距離も遠くてなかなか会えないんだけど、私から会いに行くし、向こうもいいっていうのに時間作って会いに来てくれるんだ。」

まりえははにかみながら下を向いた。嬉しさを噛み締めるように。

「だから、誰にも言わないようにしてるの。高校生のときみたいになったらって思うから。吉沢くんには理解できない感情かもしれないけど、誰にも言わないでほしい。このことを知ってるのは、吉沢くんだけだから。高校時代からの親友にも、誰にも言ってないの。」

 少し泣きそうに、祈るような顔でそう見つめられたので、その顔で、願掛けのように秘密にして親友にも伏せていたのだと分かった。吉沢は「わかりました。誰にも言いません。」となんとか言葉にした。途端に安心したように解けたまりえの緊張感に、それだけ信頼されていることにも気付いた。


***


”新曲どうするよ?明日歌詞かメロディだけでもないと無理だぞ” スマートフォンから通知が響いた。ギターを置いて、一応画面を見て、既読もつけずにベッドに放った。バンドのライブの日程が近づいていたが、披露するはずの新曲が出来上がっていなかった。


 まりえの恋愛を知って2週間経つが、どうにも気持ちのやり場がない日々が続いていた。約束した通り秘密は守っていた。それは忠誠を誓うようなもので、わずかな繋がりを感じられる一方、新の気持ちをそれ以外のどこにもいけなくした。感情の整理がついておらず、煩雑でまとまりがなくて、どう作詞や作曲試してもまりえに対する感情に行き着いた。世の中のことを歌ってきたのに、どうしてもラブソングじみてきて、メロディも切なげになった。けれど自分の感情を曲にするなんて、無防備で身を切る真似はしたくなかった。しかし、そうしてしまえば昇華され、他人事になって片付くのではないかと、明日まで、という煮詰まり切った頭で、ふと思い至った。そうして歌詞を書き始めると、つかえが取れたかのように言葉やメロディが浮かんできた。書いては消して書いては消して、しばらく格闘したが、2週間できていなかった曲がようやくできた。バンドのグループチャットにデータを共有し、ベッドに倒れ込んだ。そのまま泥のように眠った。


 もともとは高校の軽音部で、趣味で始めたコピーバンドだった。演奏を褒められているうちに楽しくなり、メンバーの発案でオリジナル曲をやってみないか?という流れになり、それぞれ曲を持ち寄った結果、自分の曲が採用され、最初は気が引けたが周りの熱意と説得と、一番音楽の趣味が合う友人の冷静な”いい曲だと思う”という言葉に押され、なんとでもなれと半ばやけでギターボーカルとしてまず借りたスタジオで披露した。するとほとんど知り合いとはいえ予想を超えてオーディエンスが沸き、他のバンドに文化祭でやってみるように勧められた。そのままなしくずしでやっていたら、他のバンドの子にも褒められて、その子が彼女になった。プロとしてやるかどうかはあまり考えてなかったが、どこかにその成功体験が残っていたのかもしれない。もしかしたらまりえが振り向いてくれるかもしれないという淡い期待が芽生えていたのかもしれないと、朝寝ぼけた頭で考えた。夢で、新曲を披露したライブにまりえがきて、自分に気持ちを向けてくれると言う何とも都合のいい夢をみたからだった。音楽をしている割に”音楽の力”などはあまりピンときていなかったが、これがもしかしたらそういうものかもしれない。なんとも言えない寝覚めだったが、ひとつの出口を見つけた気持ちだった。


***


「先輩、今度僕のライブに来ません?意外と映画が嘘だってわかりますよ。」いつも通り映画を見て、感想の話をしていた折に、話の流れのついでを装ってそう持ちかけた。そのためにいろいろと調べて、ちょうど公開されたばかりのバンド青春映画を提案した。映画があまりにも出来すぎた内容だったため、褒める流れで提案するつもりが私情が入って貶すようになってしまった。なんでもない風な声で言ったつもりだったが、テーブルの下で指先が震えそうなのを感じた。こんなことは初めてだった。


「えー?いいよ、私今日の映画好きだったもん。なんでそんな嫌な現実見せようとしてくるわけ?」

「冗談ですよ。でも先輩ライブ行ったことないって言ってませんでした?あんまり興味ないとかで。」

「そうだね、スマホで聴いてるだけで満足しちゃう。でも映画館でのライブシーンは迫力あってよかったな。」

「ならせっかくだからこれを機に実際のライブを体験してみたらどうですか?アマチュアバンドですけど僕ら意外と評判いいんですよ。」

「珍しいね吉沢くんがそんなこと言うの。いいよ、いつ?チケットはいくらなの?」

そうして吉沢の企みはひとまず最初の関門を突破した。チケットを買ってもらうことは考えたことがなかったので、まりえが自分の財布から自分のライブにお金を払ってくれるという事実に、”お金を払ってライブを人に見てもらう”ことが初めて現実感として沸いた。それまでは楽しだけで聴きたいやつが聴けばいいと特に意識はしていなかった。思いがけずお金を受け取り、ただ渡すだけのはずだったチケットを渡した。受け取った小銭を取り落としそうになって、「批評家じゃないから安心しなよ。映画みたいに見に行かないから」と揶揄われ、「手が滑っただけですよ、小銭が多すぎるせいです。」と誤魔化して笑った。いつも通りを演じられた気がした。



 一軒家ほどの大きさのライブハウスの箱で、知った顔がごった返していた。プロを目指すやつ遊びでやっているやつに混ざり、自分が一番不純だなと思いながらステージに立った。マイクチェックをしながらさりげなく小さなフロアを見渡すと、後ろ方にまりえがいた。本番が始まろうとしていた。


 「nervy circusです最後までよろしくー!」新はギターを鳴らし始めた。最初は以前からある曲だった。風刺や世の中の無情を揶揄するような曲を一通り披露した。フロアも沸いて、まりえも最初は周りに戸惑っていた様子だが、控えめに腕を上げて楽しんでいるようだった。最後に「新曲です!」とそれまでとは一転優しいメロディが響いた。nervy circusにない曲調だったので、ファンも期待を込めて囃し立てた。


今日だけのスカート 秘密がお守り もりのくまさんみたいなデート

舞踏会では解けてしまう魔法 お城の外の庭園の隅ふたりだけの噴水のワルツ

シンデレラにはなりたくないこの恋に誰も触れないで 

放物線を描いたら 誰も撃ち落とさないで キャッチボールが続くように


サビを歌うと、フロアは今日一番の盛り上がりを見せた。他のバンドの前方の女性客にも好感触だった。ちらりとまりえを探すと、姿が見当たらなかった。次がいるのでそのままステージから捌けて、一通りのことを済ませてから、スママートフォンを取り出して連絡しようとすると、「終わったら話せる?」とメッセージが入っていた。あとのことを理由をつけてメンバーに任せて、ライブハウスの裏手に来てもらうことにした。


 着替えて裏口から出ると、冬の入り口の冷気が頬に涼しかった。それはステージに立ったからだけではないように感じた。俯きながらまりえは現れた。

 「まりえさん!」と、ライブ終わりのせいか、自分で思っているよりも大きくて高揚した声が、自分の口からでたことに驚きつつ、新はまりえに駆け寄った。


「まりえさん、ライブどうでしたか?」まりえは相変わらず俯きがちで、前髪にかくれて表情がよく見えなかったが、吉沢の問いかけに少し間を置いて、胃を意を決したように顔を上げた。


「どういうつもり?」


その目は強い非難に満ちていた。面食らった吉沢は「なにがですか?」と問い直した。


「何がですかじゃないよ。あの最後の曲だよ。」

「何か問題ありましたか?」まりえの苛立ちを含んだ声に、うまく頭が回らなかった。

「なにがしたかったのかわからない。でも吉沢くん、最低だと思う。」

「……先輩」

「私との約束、忘れたの?」


 まりえはわずかに潤んだ目で、裏切られた、という失意を嘆くように新に言葉を放った。吉沢は言葉をなくした。何も言うことができず、沈黙が流れ、「もういいよ。来るんじゃなかった。でももう私が見なくてもあの曲はやらないでね。」切り捨てるようにそう言って、まりえは背を向けて歩き出した。動こうとして手を伸ばしかけたが、新は追いかけることができなかった。初めて自分のー-それは本来まりえのものだったが-ー、繊細な面を直接的ではないとは言え人前に晒して、全力をぶつけて、ライブが成功し、どこかで何かを期待した高揚感の中で、いきなり地面に叩きつけられたようなものだった。それはまりえも同じだったが、吉沢には気づくことはできなかった。その余裕もなかった。


 背中が角を曲がるまで呆然と見つめ、その姿が消えたあと、呆然と肩を落として宙をあおぎ、その場にしゃがみ込んだ。裏口が開いて、バンドメンバーが片付けを手伝いにこいと言ったが、ほとんど抜け殻のように自分を感じた。機材を傷つけてはいけないと思ったが、どうでもよくもあった。


 打ち上げも断り帰宅してひとりになって、スマートフォンで時間を確認したとき、そうだ謝罪しなければとメッセージを送った。”今日はすみませんでした。今話せますか?”と打ち込み送信し、しばらく待ったが音沙汰がないため、電話をかけた。呼び出し音が何度もなったが、結局まりえが出ることはなく自動音声に切り替わり電話は切れた。今できることは何もなさそうだった。両手で顔を覆い、小さく呻きながら膝を立ててすわりこんだ。何がダメだったのか、歌詞がよくなかったのか。いやーーそうではない。お守りのような感情を勝手に取り出して、誰にもわからないようにとは言え曲にした。それがいけなかったのだ。長い夢から目が覚めるように、吉沢は我に帰るように気付いた。最初からすべて間違っていたことに。この方法に成功なんてなかった、あるとしたらー-あるとしたら何だろう。自分の恋愛感情を曲にすることだったのだろうか。目から鱗が落ちるようだったが、後の祭りだった。


 目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。スマホを見ると時は日付を跨いだ深夜だった。まりえからメッセージが来ていた。”もう会いたくないです。”とあった。愕然としたが、通知のメッセージに続きがあるようだったので、スマホを落とさないように気をつけながら開いた。


”もう会いたくないです。誰にも言わないことがお守りだったこと、夏に一緒に見た映画の褒めかたで吉沢くんには言わなくても伝わると思っていました。残念です。これを言わないこともお守りだったのに。”


体が冷えていくようだった。けれどメッセージはまだ終わりではなかった。


”ラストの曲は私には最悪だったけど、曲としては良かったと思うよ。もう二度とどこでもやってほしくないけど、プロ目指してるんでしょ?音楽のことはよくわからないけど、他の曲とか才能あると思うよ。私に言えることはこれだけです。あと、就活のこともあるのでサークルはもうすぐ辞めます。いままで楽しかった。”


 読み終えて。ああ、すべてが終わったんだな、と新は悟った。サークルでも見ていたらわかった。まりえが本当に人を突き放すときは、後腐れのないように、禍根を残さないように相手に褒めたり優しくする。別れの言葉などどこにもなかったが、もう映画を一緒に見ることも、ましてやメッセージを送り合うこともないのだと悟った。吉沢の手元に残ったのは、自分の失敗と、まりえに褒められた音楽だけだった。何もメッセージを返すことが出来ずに、脱力感に呑まれるようにベッドに身を横たえ、そのまま眠った。


 バイト終わりにいつものようにライブをしていた。なんだかフロアが広くてステージもまばゆく、客席には遠いのにまりえがぴょこぴょこ飛び跳ねながらこちらに楽しげな顔をむけていた。ギターを弾き、歌って、まりえも嬉しそうにしていて、それをもっとみたくて、もっともっととライブを続けた。これ以上楽しいことなど知らないきがしたし、ないような気がしていた。


 ぼんやりと何かの模様が浮かび上がってきて、だんだんとはっきりしてきた。天井だった。目が痛くて手をやると、泣いていたようだと気づく。スマートフォンに手を伸ばしボイスメモを開く。今この瞬間まで聞こえていたメロディを、歌詞を、まだどこか眠っている頭で録音した。そうして記憶にあるものをすべてボイスメモに吹き込んで、再びまどろみの海に落ちるように眠った。


***


「どうしたのこの曲。この前のラブソングといい、方向性変えるの?」コーヒーチェーンの窓際の席で、高校時代からの友人がイヤフォンを置いてまずそう訊ねてきた。あのあと、もう一度目が覚めたあと、新はバイトあることも忘れて、そのままギターを片手にボイスメモを何度も再生し直しながら、歌詞を書き起こしたり書き直したりしながら曲作りに打ち込んだ。ライブが終わってからの週末を丸二日それひとつに費やした。そうしてできた曲を、同じ都市にある大学に通う、音楽の趣味が合う友人に連絡をして、今ここでこうしてその曲を聴いてもらったところだった。


「とりあえず、曲はどうだった?」

「なんというか、今までで一番いいよ。力も一番入ってるんじゃない?」吉沢は曖昧に笑った。

「これで声をかけてくれている人に売り込んでみようと思ってるんだよね。」

「あれ、音楽本気でやる気あったっけ?できるからやってるのかと思ってたけど。」

「まあ、心境の変化、かな?」

「へえ。まあ俺たちのモラトリアムももうそんな長くないしな。」


 店の外に目を向ける。冬の昼の晴れ間の日差しが大きなガラス窓から燦々と光を注いでいる。外の通りにはたくさんの知らない人がいる。この人たちの思考を立ち止めるような曲を、これから僕は作っていくんだ。膝の上に置いた手のひらでもう片方の手のこぶしを握った。

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