62話 計算違い
「ただいまですぅ………」
和はお腹いっぱいで幸せな気分で家に帰り着いた。だが、幸せな気分とは違い、帰りの挨拶は酷く小さく不安げな声だ。
ギィと玄関の扉を開き中に恐る恐る入る。既に外は夕闇の帳が落ちており、星空が煌めき始めている。高校生になったとはいえ、帰宅の時間がかなり遅い。
なので、叔父さんに怒られるのではと思っていた。もう夜なので自室に召使いたちは戻ったのか姿は見えない。当然のことながら、夕飯などはとっくにないだろう。硬いパンと塩味の薄いスープがまともな夕飯とはいえないが。
お昼ご飯をたくさん食べてきて良かった。その後はよーちゃんから貰った小判をとられないように、教科書や服などの生活必需品を放課後に買っていたら、すっかり遅くなってしまったのだ。
叔父さんが屋敷の維持に気を遣わないので、召使いたちも掃除に熱心ではなく、蛍光灯の下で飾られている調度品のいくつかは隅っこに薄っすらと埃が積もっているし、窓も灯りの下で見れば、真ん中だけが透明で、丸く拭いているということがわかる。
せっかくのお屋敷なのにと悲しげに顔を俯かせて、誰も来ないことに安堵しながら自室へと移動する。今日はとっても疲れた。だが、久しぶりに買い物もできて、幸せな疲れであった。
小判は下手したら召使いにすら盗まれる可能性あるので、こっそりと二重底にした鞄の奥に、音がしないようにタオルに包んでしまってある。
さっと自室に戻って、隠し引き出しに隠しておこうと、足早に廊下を歩く。コツコツと足音が響き、誰もいない廊下を酷く不気味に見せる。
心が臆病と言うな名の魔物に襲われて、肩が縮こまり、身体が竦む。基本、和は臆病者なのだ。
「おかしいなぁ、いくらなんでもこんなに人がいないなんておかしいよぅ」
ポツリと呟く小声も廊下に響く感じがして、何もかもが恐ろしい。柳の下に幽霊が、家の軋みに妖怪がと、古くから人が恐怖と共に作り上げる想像の怪物が本当にいるように思える。
たとえ夜でも執事やメイドが少なくとも一人はいると思っていた。しかも夜中ではない。まだ夕暮れをすぎた程度だ。ベルを鳴らしても誰も来なかったら、叔父さんは酷く不機嫌になるだろう。
自然とそろそろと忍び足へと変わり、和は早く自室に戻ろうとする。……だが、どこからか話し声が聞こえてきて、その足をピタリと止めてしまう。
───この時に足を止めなければ、和の未来は変わっていたかもしれない。しかし、彼女は臆病であるがゆえに、その話し声の正体がなんなのか、どんな話をしているのを確認しようとしてしまった。
論理的に説明がつけば、幽霊ではないと安心感を持てるからである。だからこそ、話し声の元へとフラフラと誘蛾灯に誘われるように和は歩いてしまった。
話し声の元を確認するために廊下を歩いていき、どうやら書斎の方だと思いながら進む。
「応接室じゃないよねぇ、なんで書斎から聞こえるんだろぅ」
応接室ならば、叔父さんがお客様と話し込んでいると思い近寄らなかったが、書斎なのは変だ。叔父さんは書斎には近寄らないし、いるところを見たことがない。応接室以外なら、亜人を作成する魔法陣のある契約用の部屋だ。
もしかして本当にお化けなのかなぁと思い、肩を震わせて、それでも足を止めることなく進むと、男の荒々しい声がはっきりと聞こえてきた。
「どうなっている? 話が違うぞ屏風。なぜあれだけの能力を発揮した? 俺の望んだ結果と違う。貴様は俺を騙したのか?」
あれはいつも来ている狼の亜人の声だと気づく。その声は穏やかな声音だが、その声音の中に恐ろしいほどの煮えたぎるような怒りが込められていることが感じられて、和は自分が怒られていないのに、恐ろしく思ってしまう。
その声が向かう相手はもちろん叔父さんであった。いつもの不機嫌な声ではなく、恐怖で震えていた。それでもプライドを守るためか、高慢に返す。
「ち、注文どおりだったはずだ。私に手抜かりはなかった。そちらが使い方に問題があったのだろう? ガッ」
何かを壁に強く押し付けるような音と、叔父さんの悲鳴が聞こえて、棚に置かれている本がバサバサと落ちる音がする。
恐怖よりも好奇心が上回り、和はそっと部屋に近づき、扉の隙間から中を覗く。いつも自分に暴力を振るい、暴言にて心を傷つけてくる叔父さんが酷い目にあっているのを見てみたいという暗い心もあった。
違法な薬品の効果で痩せ衰えて、頬もこけて幽鬼のように目だけが爛々と輝いている叔父さんは、いつもの尊大な態度は陰もなく、床に跪き顔を俯けていた。
その前に立つ狼の亜人が殺意を眼光に宿して睨んでいる。片手には強く握りしめた新聞を持っていた。
「この新聞を見ろっ! 先日の暴動は精神操作の可能性が大きいと出ている。『神亜同盟』の所属魔法使いが精神操作をして、わざと暴動を起こしたと書かれている。魔法使いを排除するべく行動をしているとな! 今回の暴動は自然に発生したと思わせるのが目的だったのだぞ? 魔法使いを使っているとされれば、まったく意味がない!」
新聞にはこの間起きた雨屋区の暴動が書かれているようだ。写真が載っているが、目は血走りよだれをたらし、どう見ても異常すぎる顔をしている人々。たしかにあれでは自然発生とは思われまい。
苛立ちを示すように、狼の亜人は足を強く踏む。床がミシリと軋み、ヒビが入ってしまい、その怪力に叔父さんは怯えた顔となる。
「既に異常を感じて、各家門の魔法使いたちは精神耐性の魔道具を集め始めている。これでは次の段階、学生魔法使いたちのいざこざを起こせない。本来はここで魔法使いたちのいざこざを記事にして、神人の暴動も合わせて貴族たちへの反感を膨れ上げさせる予定だったのだぞ? 魔法使いの暗躍は魔法使いと神人との反目を煽るためだと、『高天ヶ原』派閥がこの事態をおさめるとも噂されている」
「こんなにも効果があるはずがない。これはおかしい、私の施術は完璧だった!」
「ふんっ、完璧過ぎたようだな、屏風。……それに暴動があっさりと防がれたことも問題だ。予想外の介入があった」
新聞を放ると、腕組みをする狼の亜人。苦々しい顔となり、腕をトントンと叩く。
「雨屋の持つ魔道具『風神の扇』。あれが広範囲の精神異常を治してしまうらしい。この扇があると厄介だ。我らの本命の作戦に支障が出る」
「………それもこれも私になんとかしろというのか? 私は回復術士だぞ? なんともできん」
噂の『風神の扇』。よーちゃんが持っているSランクの魔道具だ。Eランクのよーちゃんでも、その扇を使うと凄まじい強さを見せる雨屋の秘宝。今や暴動を防いだアイテムとして有名すぎるほどに有名だ。
悪女那月ヨミの持つ不釣り合いな魔道具と記事が出ていたことを覚えている。よーちゃんを見て、悪女と記事を書く記者の神経がわからないけど、狼の亜人は記事を信じているらしい。
「そんなことはない。この書斎の隠し部屋にある『精神隷属』の魔法陣を使えば問題はない。悪女に近寄って、『破魔の短剣』で破壊させれば良い」
「……そこまで知っていて、この書斎で話すことにしたのか」
「そうだ。悪女に近づけるちょうど良い相手がいるだろう?」
狼の亜人が牙を覗かせて、凶悪な笑みとなる。その顔を見て、震えて後退る。
(『精神隷属』の魔法陣? あれは古代にしかない違法な遺失魔法陣。その中でも所持がばれただけで無期懲役になるほどの危険な魔法陣だよぅ)
『精神隷属』の魔法陣は有名だ。通常は肉体を支配して操り人形にする場合、言動はもちろんのこと、行動もギクシャクとしており、すぐに他者にはわかる。
だが『精神隷属』の効果は心からの隷属で対象を縛るために、その言動も行動も普段は自然となる。そのため表向きはわからない。精神異常回復を使えば治せるが、わかっていなければ見抜くことができないために危険な魔法だ。
遺失魔法陣であり、違法だからほとんど見ないにもかかわらず、高位の貴族当主たちは定期的に健康診断と共に『精神異常回復』を受けるくらいに警戒されている魔法であった。
そんな物が我が家に隠されていたなんて………。ショックを受けてしまうが、それ以上にここにいるのは危険だと悟る。なんで召使いたちがいないのかわかった。予め人払いをしていたのだ。
(こ、ここから去らないと。いることがバレたら殺されちゃう!)
去ろうとする中で、狼の亜人がこちらを見て、人を嘲るような気持ち悪い笑みを見せた。
「ちょうど良いことに、ターゲットも来てくれたことだ」
顔を青褪めて慌てて駆けようと身体を翻す。だが、腕が強く握りしめられて、身体を引っ張られてしまった。
「まぁ、待てよ。そんなに慌てなくても良いじゃないか。少しつれなくないか?」
男の野太い声が肩越しに聞こえてきて、ギクリと身体を強張らせる。さっきまで扉の向こうにいたはずなのに、扉を開ける音もしなかったはずなのに。
「なにも知らずに行動するのは嫌だろうと思ってな。わざわざ顛末を教えてやったんだ。俺は女に優しいんでね。演技が上手かっただろう?」
わざと話していたのだと悟る。最初から覗いていたのがバレていたのだ。ここに来たことに心底後悔する。おとなしく自室に戻っていれば良かった。
肩を掴まれているだけなのに、なぜか身体がピクリとも動かない。心だけが恐怖に侵食されていくなかで、扉が開く音がする。
「なんだ、姪がきていたのか。ふん、たしかにちょうど良いかもな。このままやるのか?」
「あぁ、魔法使いたちの同士討ちを本格的に対抗される前に引き起こす。その前に雨屋の悪女も殺しておく。少なくとも『風神の扇』は破壊しておく」
とっても嫌な予感がする。自分がどう使われるのか、簡単に想像できる。
「おまえも悪女を殺せて、きっと英雄扱いされる。良かったな、しょぼい魔法使いなんだろ? 英雄譚として残れば人生は最高なところで最後を迎えられるというものだ」
「ふんっ、悪いな姪よ。さすがに罪悪感は感じるが、このままだと私の立場も厳しくなるものでな。しっかりと葬式はしてやる。悪女を殺した勇気ある者としてな」
まったく罪悪感の欠片も見せない叔父さんの言葉に悔しく思い泣きそうになる。こんなことならさっさとこの家を出ていくべきだった。
(よーちゃん……)
後悔とよーちゃんへの謝罪をしながら、和は目元から涙を流すのであった。




